第2話 メスを振るう男
タイル張りの壁。大きな照明。そして規則的に聞こえてくる電子音。
自宅よりも落ち着くというのはさすがに言い過ぎだが、それほどまでの日常空間。
凪ヶ原総合病院第一手術室。
今日の患者は中学二年の男子。やや難手術ではあるものの得意分野。
さらに、何かが降りてきたのではないかと思うほどに、今日のメス捌きは冴え渡った。縫合を終えて深く息を吐き、手術室を後にする。
ガッツポーズをしたい衝動に駆られるほどの、会心の出来栄え。
家族への説明も、つい饒舌になる。
『ご安心下さい。手術は成功ですよ』
『本当ですか。ありがとうございます。やっぱり、剣持先生にお願いして良かった』
家族の喜ぶ顔を見ると、病棟へ戻る足取りも軽い。
いつも以上の働きをした両手を眺め、表情を緩める。
今ではこの腕も評価を受け、見学に訪れる者も少なくない。
出世に反比例して、メスを握らなくなっていく者は多い。しかし私の持論は、執刀してこそ外科医。外科部長となった今でも、率先して毎日のようにメスを振るう。
衰えと共に、否が応でもメスを握れなくなっていくのは必然。
ならば、それまでに一人でも多く、身に着けたこの技術で患者を救わなければもったいない。
久々の非番。
目覚ましも掛けず熟睡していたが、電話でたたき起こされた。
休みだというのに、病院からか……。
まあ、珍しいことでもない。むしろ、これだけ寝かせてもらえただけ、今日はましな方だ。
『うーん……。どうした? ……なんかあったのか?』
『部長、先日の患者さんの容態が急変しました。至急、お越し願えませんか?』
『なんだって? そんな馬鹿な……。わかった、すぐ行く』
慌てて最低限の身支度を整え、病院へ向かうために車に飛び乗る。
二日前の会心の手術。術後の経過も安定していた。
しかし、絶対などない。こんな事態は、うんざりするほど経験してきた。
だからわかっている。
充分すぎるほどわかっている。
だがそれでも、何かの間違いであって欲しいと、祈らずにはいられない。
(信じられない……。昨日帰る直前だって、元気そうにしてたじゃないか……)
駆けつける、集中治療室。
そこは、必死な指示が飛び交う戦場と化している。
当番医師や看護師の懸命な救命処置。しかし、効果が現れていないのは、弱気な表情を見れば明らかだ。
『状況は、どうなっている!』
すぐさま、救命処置の輪に入る。
ありとあらゆる手を尽くすも、患者は一向に息を吹き返さない。
時間だけが、刻一刻と過ぎていく。
(なんでだ……。順調に回復していたはずなのに……)
椅子に座り、天井を見上げる。
机に積み上げたカルテ、検査結果、そして何枚もの写真。目の前にあるのは、患者がこの病院で過ごした生き様と言ってもいい。
何度もカルテを読み返した。
何度も写真を見直した。
それでもやはり、この事態を引き起こした原因と呼べるものは、浮かび上がってはこなかった。
医者になりたての頃であれば、ひどく落胆し、涙もこぼしていただろう。だが自分は、必要以上にくよくよするほどの駆け出しではない。
失敗したのなら潔く認めるし、相応の責任も取る。
しかし、原因の特定もできないままでは、遺族に納得のいく説明もできやしない。
『人の身体とは不思議なものだな。思いもよらぬほど強く、思いがけず弱い。君が常に最善を尽くしていることは良く知っている。今回は残念な結果に終わったが、あまり根を詰めるなよ』
優しい言葉に振り向くと、廊下から顔を覗かせる院長の姿があった。
医師としての知識や技術を教わったのが学校だとすれば、医師としての生き方を教えてくれたのがこの院長だ。
励ましの言葉に感謝し、起立して一礼。
院長は頷きながら静かに去っていった。
『――納得いく説明をしてくれ!』
応接室のテーブルに、無造作に放り投げられた週刊誌。
表紙には【医療ミスか!? 不可解な死!】という見出しが躍る。
あれから一ヶ月。週刊誌を握りしめてやってきたのは、あの時の少年の両親だ。
この二人には院長同席の下、事情説明を行い納得してもらっていた。
もちろん、心の底からではないだろう。だが、『剣持先生に診ていただいた上でのこと。仕方ないです』とまで言ってくれていた。
しかし、週刊誌にこんな記事が掲載されては、再び憤るのも無理はない。
『記事には、人為的なミスと書かれているんだが』
『死亡後、ありとあらゆるデータを見直しました。それでも、本当に原因はわからなかったんです。むしろ、なぜこんな記事が書かれたのか、不思議で仕方ないところです』
こんな回答で納得してもらえるとは思えない。
だが、そう答えるしかない。それが真実なのだから。
『死は最善を尽くした結果。そういうことなら仕方がない。でも、こんな噂が持ち上がったのなら黙ってはいられません。今日は帰りますが、納得いく結論……必ず、出してもらいますよ』
そう言い残し、遺族は帰った。
しかし、病院内には不穏な空気が流れ始める。
『病院名は出ていないものの、地元民ならここだと誰でもわかる。ひどいイメージダウンだ』
『何もせずにやり過ごす……。って、わけにはいかんでしょうな』
『当事者には、しかるべき責任を取ってもらわないとねぇ』
会議室は学級会レベルの糾弾会場だ。もはや、話し合いではない。
出席者は様々な言葉を述べるが、行き着くところ、その意味は全て同じだ。
この事態の収拾を図る方法は一つしかない。覚悟を決めるか……。
『この事態を招いたのは私のせいですので、辞職を持って責任を取らさせていただきます』
言葉と共に、深く頭を下げる。
無駄に長引く会議にも、これで終止符が打たれることだろう。
満場一致で会議終了になるはず。
しかし、そう考えた自分は甘かった。
『もはや、そういう問題じゃないんですよ』
『そうそう。これほどの不祥事がマスコミに漏れた。その責任は誰が取るんだね』
なおも責任を連呼する出席者。
野次にも似た無責任な発言を遮るように、立ち上がったのは院長だった。
『――責任はもちろん、私が取ろう。だが私に免じて、剣持君は当院に残してやって欲しい。当然、部長職は辞してもらうがね。先のない私と違って、剣持君はまだまだ成長できるはずだ。今回の件でその道を閉ざしては当院の、いや医学界の損失だ』
納得のいかない者も何人かいたようだが、院長の辞任であれば対外的にも申し分ない。そう結論付けられた。
結局、院長は病院を追われ、副院長が院長に昇格。空いた副院長のポストには内科部長が就任。私は外科部長を解かれ、医長に降格。
そして、長い長い会議が終了した。
許された在籍。その代償は尊敬する院長の失脚。
これでは、私が院長を追い出したようなものではないか。申し訳なく、居たたまれない気分だ。
だが、辛酸を舐めてでも医師として成長する。きっとそれが、身を挺してくれた院長への一番の恩返し。そう言い聞かせて耐え続けた。
当直は誰よりも多く、受け持ち患者も要注意人物。心身ともに疲労は増すばかり。
露骨な嫌がらせが度重なるが、病院を去らざるを得なかった院長を思えば大したことはない。
だが、どうしても耐え難い嫌がらせが一つある。
メスを握らせてもらえないのだ。
何度も直訴したが、過去の失敗を理由に許可は下りない。
せっかく院長に繋いでもらった外科医生命だが、執刀できなければ意味がない。存在価値を見出せないここに、自分の居場所はない。
今日まで元院長の顔を思い浮かべては、何度も思いとどまってきた。
しかし、それも限界だ。メスと共に心は折れた。
元院長に心の中で何度も詫びる。
――そして今日、凪ヶ原総合病院に別れを告げた。
(ああ……またかよ……)
重い気分で目覚めたものの、まだ外は夜明け前。
あれから食事を奢ってもらいながら、詳しい話を聞かせてもらったせいか、やけに生々しい夢だった。
こんな気分で今日を始めても、ろくな一日になる気がしない。
まだ睡眠不足でもあることだし、寝直すとしよう。
(――たまには清々しい夢を頼むよ、ほんと……)