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空模様

作者: 尚文一樹

「ええ、そうです。あの人は自殺しました」

夏の和室。

そこにいる人間は二人だけ。

誰かの妻であろう女と、若く新米の刑事。

新米の刑事が、腫れ物に触るが如く、慎重に女の話を聞いていた。

「とてもプライドが高い人でしたから。何処かで失敗して、それですごく気に病んで、あんな事をしたんでしょうね」

女の表情があまりにも虚ろなので、刑事は気の毒に思った。

「そうですか。ありがとうございました。この件については、また、聞くことがあるかと思いますが、どうかよろしくお願い致します。では、私はここで」

「でも」

刑事が仕事を終え、去ろうとした瞬間に、女はまた口を開いた。

「あの人、笑って死んでいたらしいんです。身体は、もう区別つかないくらいだったみたいですけど」

「だから、きっと何か、楽しい、報われる思いをして死んだんだと思います。だとすれば、私も少しは救われるのかな、なんて」

虚ろな表情で、女は笑った。

刑事は不謹慎ながら少し不気味に思って、当たり障りのない返事をする。

「ええ。そう思います。あまり、ご無理なさらずに。では、失礼します」

車に戻ると、ベテラン刑事が新米刑事を待っていた。

バタリと車のドアを開け、中に入り、またバタリと閉じる。

「おう。早かったじゃねえか。どうだった?」

ドアを閉じた時の揺れが残る車内で、ベテラン刑事はエンジンをかけながら言った。

「やっぱり自殺です。疑う余地はありません」

「そうか。まぁ、良くある事かも知れないがな」



雨が降っている。

その下に、男が佇んでいた。

天候と同じく、男の心中は、暗く醜い空模様だった。

仕事からの帰路、踏切の近くの道。

傘を差して、どこを見るでもなく、どこに行くでもなく、薄い暗闇の中でひたすらに佇んでいる。

男の内側には、何もなかった。

あるとすれば、喪失感とか、虚無感とか、絶望とか。

あればある程、無ければ良いと思えるものばかり。

人生って何なんだ。

人間って何なんだ。

世界は壊れてしまえばいい。

人は関わり合わなくていい。

男は、そう思い続けて止まなかった。

傘から、重さが滴り落ちる。

雨は、止みそうに無かった。

「雨がお好きなんですか」

後ろから、誰かが話し掛けた。

しかし、男には振り向く気力がなかった。

「……」

「ねえ。雨が、お好きなんですか。そう聞いています」

我慢出来なかったのか、男の前に回り込んで来たのは、少女だった。

どう見ても10代の、まだ幼いと言っても差し支えない見た目。

白いワンピースと腰まで伸びた艶やかな黒髪が、ぐしょぐしょに濡れている。

「雨は……嫌いだ」

男は良心で答える。

だが、心中では、今の自分に同情されている気がしてプライドが傷ついていた。

心がささくれる。

少女に、それをぶつけたくなった。

「人生って、何なんだろうな」

「私には、分かりません」

冷たい言葉だった。

それに、男は更に苛立つ。

「お前、名前はなんて言うんだ」

「私の名前……? 私は、知りません」

興味が無さそうに答える。

普通ならただ受け答えている風に見えるだろう。

だが、男には、馬鹿にしているように見えた。

視界に映るもの全てが、自分の自尊心を傷つける敵にしか見えなかったのだ。

「……あなたはなぜ、ここにずっといるのですか?」

少女の無邪気な質問に、男の小さな器は我慢出来なくなる。

「そんなの俺も知らねよ!! ふざけんな!!」

「突然リストラされて、なけなしの退職金を渡されて! ただでさえ生活がキツかったのに、俺は今日、どんな顔して家に帰れば良いんだ!!」

男は、少女に叫んだ。

雨に嘆いた。

どうして世界はこうなのかと、誰かを責めた。

それが誰なのかは、自分でもわからないままに。

「妻と娘に……どうやって、説明すれば、良いんだ……」

少女は男の顔を覗き込むだけで、全く動揺すらしない。

「そんなこと、家に帰ってから決めれば良いでしょう」

「家に帰ってから……!? ふざけんな、家族にあわせる顔なんてない!!」

「あなたをどう思うかは、あなたではないのですよ。やってみなければ分からないでしょう」

淡々と語る少女に、さらに苛立つ。

「ふざけんな!! 絶望されるに決まってる!!」

「全部順調で! 新卒で上京してきて!! それで結婚したのに、俺は……俺は……」

次第に虚しさだけが、男を支配した。

少女に叫んだところで、何が変わる訳でもない。

男は完璧主義だった。

それがこの歳になって崩れ、自分が築いてきた物が瓦解していくのを見る事が、我慢出来なかったらしい。


「もう死にたい……殺して、くれ」

冷たかった少女の顔が、少しだけ笑う。

「本当に、良いのですか?」

「人生とは何なのかと問うあなたは、本当にそれで良いのですか?」

「そんなのはもうどうでもいい……はやく殺してくれ……」

男は、本当に言葉に出した通りの心境だった。

何もかも、どうでも良いとさえ思えるような。

全てを投げ出してもいい気持ちでいた。

「……探すチャンスを差し上げましょうか。時間もちょうどいいですし」

今度の少女は問わなかった。

有無を言わさず、言葉を続ける。

「では」

少女はゆっくりと気を付けをして。

「人生、お疲れ様でした」

ゆっくりと、丁寧にお辞儀をした。



「ねえ」

笑う。

とびきりの笑顔で、あの少女は語る。

白いワンピースと長髪の黒い髪。

髪は濡れていなかった。

辺りは暗闇。

雨の匂いも、風の音もしない。

身体は少しも動かなかった。

「あなたはもし、明日死ぬとしたら、どんな事をする?」

少女は狂気としか思えない表情を凶器にして、俺を殺そうとしている。

「明日死ぬの。何をしても無駄だし、何をしても咎められる事はない」

「だって明日には死んでるんだもの。死んじゃうのよ。そうだとしたら、あなたは一体何をするの?」

「全てを捨ててもいいし、全てを得ようとしてもいい。さぁ、私に見せて」



「っ……!」

揺れる電車の中で、目が覚めた。

汗にエアコンの風が当たって冷たい。

嫌な夢を見た気がする。

次の駅で、会社の最寄り駅だ。

少しだけボーッとしながら、つり革につかまる右手を見る。

「あ……」

思い出した。

俺は会社をリストラされて、変な女の子に絡まれて……

あれ?

おかしい。今会社に向かっている事実に、説明がつかない。

順序がおかしいのだ。

もしかしてあれは夢だったのか?

いや、そうでなければおかしい。

あの少女に、俺は殺してくれと懇願して、少女は分かりましたと言って、それで。

考えている内に、最寄り駅に着いていた。

俺は慌てて降りて、いつものように会社に向かう。

俺は会社まで歩く道、未来を思い出していた。

この後は、講義室に集められて、吸収合併が発表されて、その後は……

何故だ。なんで俺はそれを知っている?

違う。あれは夢だ。夢の筈なんだ……


「おーい! おはようってば」

気が付けば、同僚に話し掛けられていた。

「あ、ああ……おはよう」

「んだよ朝から元気ねえなぁ。どうしたんだよ」

「な、なぁ! 今日の予定ってなんだ?」

「は? なんだよ藪から棒に。昨日メールで連絡あったろ、全員11時に集合だとさ」

夢の通りだった。

「そ、そっか、そうだっけ。なんで全員集まるんだ?」

「さぁね。なんか重大発表でもあるんじゃねーの」

重大発表。

吸収合併されるという発表と、それに伴う現存社員の大幅削減。

「それってさ……吸収合併されるって話じゃないよな……?」

「はぁ? そんなわけねーだろ。初めて聞いたぞそんなの」

同僚はそれなりに情報通だ。

そのこいつが知らないという事は、夢の内容は間違っているかも知れない。

だとすれば、俺はリストラされずに……

「おい、なんで青い顔して考え込んでんだよ。なんかあったのか? らしくねーぞ」

その声で、現実に引き戻される。

「い、いや、別にそう言うんじゃないけど」

「ふーん。なら良いけどな」


いつものようにオフィスに着き、日課をこなす。メールをチェックし、スケジュールを確認して、机の上とデスクトップを、少しだけ整理した。

手帳を開くと、運動会と書いてあるのに気づく。

そっか、今日は、娘の運動会だったな……

そして、妻には断ったんだっだな。

仕事が忙しくて、多分無理だって。

本当は、そこまで忙しい訳ではない。

そのせいで仕事もバタつくかも知れないのが嫌だったのだ。

つまり、面倒臭かっただけ。

果たして、本当にこれで良いのだろうか?

俺の本当にやりたいことは、面倒臭がって娘の運動会よりも仕事を優先する事なのか?

もし明日死ぬとしたら、俺はどうしたいのだろう。

「おい、講義行くぞ」

また、同僚の声で現実に戻される。

「もうそんな時間か。分かった」



見たはずの夢は、夢ではなくなった。

「我が社は、今まで取引相手だった〇〇社に、吸収合併される事となりました」

講義室に着いて発表が始まると、社長がそう開口一番に言ったからだ。

社員の間で、瞬く間にざわめきが広がる。

不安なざわめきだ。

「嘘だろ……お前、なんでこの事を知ってたんだよ……」

同僚に聞かれて、途端にどきりとする。

「い、いや、違うんだ。俺は知ってた訳じゃなくて……」

「……待てよ。吸収合併されるってことは。された側の社員は……」

壇上の社長は息を吸って、また続きを話し始める。

「皆さんの今後については人事に連絡していますので、それぞれに連絡が行くと思います。それを確認して下さい」

社長は話し終わるなり、そそくさと壇上から降りる。

講義室は、重苦しい空気に包まれた。

溜息をつく声が、幾つも聞こえた。


オフィスに戻って上司に確認すると、俺は今日中に退職願を出せば退職金も出るらしい。

そうでなければ、解雇される……と、暗に言われた。

全て、夢の通りだった。

いや、夢ではない何かと同じように事が起きていた。

俺はまた、同じ事を繰り返すのか?

同じ辛い思いをして、同じ傷付き方をするのか?

そんなのは堪らない。耐えられない。

思考はループする。

同じ事をぐるぐると考え、堂々巡りをする。

俺はどうしようもなくて、昼休みは、ひたすら絶望に暮れているだけだった。



気が付けば、また暗闇にいる。

「前の記憶を覚えてたのね。失礼、記憶を消し忘れちゃったわ」

「ふざけるな!!! お前は、俺になにをしたんだ!!」

少女の顔を見るのも嫌だった。

少女とはつまり、俺を絶望に追いやった悪魔。

今度の世界は、口だけ動くようになっていた。

「また叫ぶの? いちいちうるさいわ。願ったのはあなたよ。その通りにしてあげただけ」

「俺は殺してくれと言ったんだ! なんで、また辛い思いをしなくちゃならないんだ!」

「その通りじゃない。あなたが死ぬのは、死を願ったその時よ」

つまり。

この苦しい1日をあと半日過ごして、それから死ぬのか。

なんて、残酷なんだ。

「なんで……そんな事をするんだ……」

「だって、あなたは人生とは何か知りたいのでしょう?」

「違う、それは……」

「違わないわ。甘えないでよ。ずっと誰かに甘えてきたクセに」

「成績を褒めてくれる学校の先生、インターンで褒めてくれる上司、母の期待に沿うように上京して、妻の期待に沿うように出世して」

「全部他人に甘えて!! 上手くいかなかったらそんなに期待した人が悪いって他人のせいにして! 自分のやりたい事を封じ込めて!!」

「ちが……違う。俺はただ、認めて欲しかっただけだ……」

「認めて欲しかっただけ……? その自分の中に唯一ある、大切な気持ちを認めなかったのに? それを、他人に? 認めろって?」

「ムシが良すぎるのよあなた。素直じゃないくせに装いだけを整えるから、周りから見たら何考えてるか分からないの」

「でもまだ半日以上あるわ。少なくとも走馬灯を見ている時間よりは長いはず。あなたは、何をしたいのか考えながら、残りを過ごすといいわ」



目が覚めた。

デスクの上だった。

どうやら寝てしまっていたらしい。

「どうせリストラされるからって居眠りってかー?まぁ、まだ昼休みだけどな」

顔を上げて、声を掛けてくれた同僚を見る。

「昼休みか……」

「は、お前、何泣いてんの? そんなに辛いのか?」

言われて気付く。

泣いていた。

悲しくて。

悔しくて。

その思いが一滴、資料に落ちた。

「なぁ、もし明日死ぬとしたらどうする? お前なら、何をして過ごす?」

堪らず、同僚に聞いた。

独りでいる事に耐えられなくなったからだ。

「はぁ?? お前、マジで今日おかしいぞ」

全力で馬鹿にされる。

だが、こいつは何があっても真面目に答えてくれる。

その事を、俺は良く知っていた。

「……俺なら、家族と過ごすかも知れない。もしくは、全力で仕事に打ち込むか。どっちかだな」

家族、仕事。

俺を構成している要素。

今、片方はなくなった。

ならば。

「……そっか」

決めた。

俺は、ここに居るべきじゃないんだ。


「なに、あいつあのあとすぐ帰ったの?? んだよ、話したい事あったのに」

男の机の上には、退職願が置いてある。

そこには、まるでまだ仕事を続けたいと言う意思表示をするかのように、物が置き去りだった。

他の人は綺麗に片付けているというのに。

同僚は気怠げに部下と話す。

「まぁ良いか。電話掛けるわ。ありがとな」



俺は家にも帰らずに、小学校に向かった。

妻には何食わぬ顔でありのままを話そう、そう漠然と考える。

だが恐怖は薄れなかった。

不安は、拭うどころか更に募った。

しかし、俺に迷ってる時間なんてない。

明日、死ぬのだから。


手帳に書いてある時間を見ると、運動会は始まったばっかりで、娘の出番には何とか間に合いそうだった。

夏の暑さに耐え切れず、ジャケットを腕に掛ける。

駅から小学校まで全力で走った。

汗だくで小学校に着いて、妻の姿を見つけて話し掛ける。

上がっている息を整える暇もなく。

「おい、っはぁ、はぁ、まだ、始まってないのか?」

「あ、あなた……? 仕事は……?」

「リストラされた。諸事情合ってな。後で話すよ」

「え、ええ?? ちゃんと、ちゃんと話してよね」

不安そうな表情は、決して拭えなかった。

当たり前だ、簡単に信用していい問題じゃない。

「ああ、ちゃんと話す」

しかし、妻の態度は逆に俺を安心させた。

話せば、分かるはずだ。

「……ほら、あれよ。いいタイミングで来たわね」

妻が指差す方を見ると、スタート位置に着いている娘がいた。


「ほんとだ。おーい、頑張れーっ!」

叫んだ。

自分の声の大きさに少しだけ驚いてから、周りも叫んでいる事に気付いて、安心する。

次の競技は徒競走だった。

俺は何とか、間に合ったのだ。

以前のあの日は、まだ会社にいて、残っているどうでもいい仕事をしている頃だろう。

でも、今は違う。

心の中も、状況も。

娘はこっちに気がつくと、ピースサインを作ってから、コースに向き直った。

パァン!

朗らかな乾いた音と共に、子供達が一斉に走り始める。

娘がゴールに辿り着くまで、俺はずっと叫び続けていた。

僅差だった。

僅差で、勝ったのだった。

こんなに必死になって叫んだのは、いつ振りだろうか。

こんな充足感を味わったのは、いつ振りだろうか。

とにかく二人して全力で応援して、家族みんなで家に帰った。

良く頑張ったな。うん! そんな会話をしながら。


家に着いて娘が自室に行くと、俺は、妻に説明を始めた。

会社が吸収合併されて、リストラされた事。

今は路頭に迷っているが、退職金で次の就職先を探そうとしていること。

俺はどんな事をされてもいい覚悟があったが、何故か、妻は自然に受け入れている様子でいた。

「そうだったのね……まぁ、あなたなら大丈夫な気がするわ。不思議ね。でも、昨日のあなたが同じことを言ったら、私は信用出来なかったと思う。本当に不思議だわ」

「そうだな。俺もそう思うよ」

だって、今日の俺は、明日死ぬのだから。

そう思いながらも、妻が受け入れてくれた事は、大きな心の支えになった。

これ以上心強いものはない。


プルルルル……

一通り話し終わった直後、電話が掛かってきた。

不思議に思いながらも、受話器を手に取る。

「おお、出たな。3回目だ」

同僚だった。

「あれ……ああ。すまん、留守電出てなかった。娘の運動会を見に行ってたんだ」

「全く、会社辞めさせられたってのに、呑気なもんだぜ」

「まぁそれは良い。お願いがあって電話したんだ」

普段のトーンとは打って変わって、真面目な口調で話す。

「俺と一緒に、起業しないか?」

「なに……?」

「だから、起業しないかって言ってる」

「お前、仕事ないんだろう? 俺も同じだが、コネはある。そしてお前には、人を使うスキルがある。出来るはずだ」

「っく……っ……」

「どうだ? ……っておい、どうした?」

「あなた……?」

駆け寄ってきた妻を、片手で制した。

泣きそうになる。

俺はあの時、真っ直ぐに家へ帰っていれば、こうやって同僚に誘われていたのだ。

なにも心配することは無かった。

自信を失うことなんて無かったのだ。

人生は、完璧じゃなくて良い。


「ああ、やろう」

俺は満を持して、同僚に言った。

「そう来なくっちゃな! まぁとりあえず全ては明日からだ。いつも行ってたカフェあるだろ、そこで落ち合おう。10時な。じゃ」

そう言うと、電話は切れた。

ガッツポーズをする。

明日から、別の人生が始まる気さえした。

「俺、同僚と起業する事にしたんだ」

「そっか。頑張ってね。応援してる」

「ああ。これから頑張らなくちゃな」


妻にそう報告して、その日はベッドに入る。

だが、すぐに寝れられる訳ではない。

明日死ぬという未知数の恐怖が、俺を蝕んだ。

複雑な気持ちが心の中を支配していた。

明日から新しい事を始めるというワクワクと、明日死ぬという恐怖。

頭がどうにかなりそうだった。

俺は必死にそんな自分を制して、明日のためにと無理やりに寝る。

果たして、いつ死ぬのだろうと考えながら。



その時は、すぐに来た。

次の日の朝、あの少女に初めて会った時と同じ場所で、男はまた少女と会う。

少女は小さく、しかし聞こえる声で言った。

「どうですか? 明日死ぬって思うと、人間何でも出来たでしょう?」

「ああ、お前の言う通りだったよ」

男は、気持ちが変わっていた。

社会に出てから初めての経験だった。

たった1日で、ここまで大きく価値観が変化してしまったのは。

男は、昨日1日でこの世に未練が出来たのだ。

だから、今日死ぬつもりはない。

「頼みがある」

「はい? なんでしょう」

「俺を、死なせないでくれ」

「はい??」

以前の男なら、絶対に無理だと諦め、行動には移さなかっただろう。

死ぬ程無様でも良い。

死ぬ程クソ野郎でも良い。

だか死にたくはない。

それぐらい、この世に対する未練は強くなっていた。

「俺は変わった。たった1日でも、変われたんだ。だから、俺を、死なせないでくれ。頼む」


少しだけ間があって、少女は口を開いた。

「それは不可能です。願ったのはあなたでしょう。それで良いと言ったのもあなたです」

「それを、全部体験してから都合良くクーリングオフなんて、土台無理な話です」

少女は何の気なしに、無邪気に断った。

さも当然と言わんばかりに。

男には、それが気に食わなかった。

「なぁ!! 俺はまだ死にたくないんだ! これから生きていける希望がやっと出来たんだ! なのに死ねなんて、理不尽じゃないか!!」

少女は蔑むような、見下すような、酷く冷たい目をする。

そして、笑った。

男はぞくりとする。

「私は」

「それが、それこそが人生だと思いますよ」

そう言って、笑顔を動かさず、続ける。

「あ、そうそう、私の名前、思い出しましたよ」

「心乃、病です」

男はそれを聞いて、まるで何かに気付いたように青ざめる。

「くそっ!! ふざけんな!! 俺はまだ死なない!! 死ねないんだ!!」

もう後には引けなかった。

男は、逃げるように、雨の降っていない道路を駆ける。

死にたくない。

死にたくないんだ。

ひたすらにそう思いながら。

しかし男がいくら走っても、景色は変わらない。

いくら瞬きをしても、少女は視界から消えなかった。

カンカンカンカンカン。

踏切の、信号の音がする。

「最後にもう一度言いますね」

後ろから、遠くにいるはずの少女の声が、男には不自然にハッキリと聞こえた。

「人生、お疲れ様でした」

男は、知らずに踏切を突っ切って、電車が来ている事にも気付かずに走り。

そして、電車に轢かれた。


「心の病で自殺……か。現代にはありふれてるのかも知れないな」

人が忙しなく動き回るオフィス。

新米刑事は、誰に言うでもなくそう呟いた。

「でも、そんな人生は、救われない、な……」

「けっ。まだ若いのに何言ってんだか。他人の人生は他人の人生だ。お前は自分の仕事をしろ」

小太りな上司のベテラン刑事はそう言って、勢いよく新米刑事の背中を叩いた。

「いって! おやっさん、今更だけど痛いって」

「おやっさんって呼ぶんじゃねえ! 俺はまだハンサムだしそんな年齢でもねえ」

そんないつものやり取りに、新米刑事は少しだけ安心していた。

「確かに、うちはうち、よそはよそって言葉もありますしね。他人の事なんて、本当はこれっぽっちも気にしてないのかと知れませんね」

「あ? クソ生意気なお前にしては珍しく素直じゃねえか」

「いや、こうしてれば少しサボれるかな、と」

聞くなり、ベテラン刑事はすぐに新米刑事の背中を叩いた。

「いって!!」

読んで頂きありがとうごさいました。


久し振りに書いた、ショートショートではなく普通の短編です。

書きたかったのは心と人生です。

青い僕にはスケールが大きすぎるテーマでしたが、普段考えている事を書き出すように出力してみました。

人生遅過ぎるという事はないと思いますが、遅過ぎる事もあるよね、なんて事を考えながら。

ではまた。

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