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病院でのカウンセリングで動揺しまくってたのに、ホルツバウアー邸に戻った私は不思議なほど冷静だった。
「お疲れ様。結果は――」
「何もないそうです。ドクターとお話しして、気分転換にもなりましたし」
「そう、良かった」
雇い主のイーファ女史はほっとしたように笑う。絵画が彫刻さながらの美女の慈愛に満ちた微笑みは、まるで白百合携えた告知の天使様さながらってとこ。私には何も告知してくれなかった訳だけど――ってそんなこと考えたら私が本当にマリア様みたいじゃない。そんな痛い考えはナシだ。
「貴女なら大丈夫だと思っていたわ」
天使のように美しい微笑みは、どういう意味なんだろう。大丈夫、って。単純に心身共に健康な若い女だから、とは思えない。処女を売り物にするような強かな女だからこそ、お腹から聞こえる神の声なんかを気に病まないだろうってこと?
「ありがとうございます」
「元気な赤ちゃんに会うのが楽しみだわ。それまで、よろしくね?」
これも、分からない。この人が待ち望むのは、自分自身の子供なのか、人類を導く神なのか、それとも研究の成果なのか。分からないから、綺麗な笑顔が怖い。でも、私は何も知っているはずがない。
「ええ、こちらこそ」
だから、私はバカっぽく笑って見せるしかできなかった。
――マリア、良い……?
で、自室に戻ると早速コレだよ。でも、こうなったら自衛のためにも胎児の話を聞いた方が良いんだろう。
溜息をつきつつ、私はベッドにごろりと横たわった。胎児と話すのは気力を使うから、体は楽にしてなくちゃ。さあ、良いよ、あんたの知ってることを教えて。
――ありがと。……前に、イーファはママじゃないって言ったでしょ?
ええ、つまりあんたは違う人の卵子を弄って造られたってこと?
――ううん。アロイスもイーファも自分たちの遺伝子から神を造りたかったみたい。私が言ってるのは、魂のこと。
魂、ねえ。ただでさえ胡散臭い話だってのに、ますますオカルトな単語を持ち出されると聞く気が――
――マリア。
ごめんごめん、とりあえず一通りは聞いてあげるから。
抗議するようにお腹の内側が蹴られたから、私は宥めてあげた。蹴る力も、前よりは弱かったしね。少しは成長して加減を覚えたのか……それとも、私が聞く気を見せてるから甘えてるとか?
――マリア、私の思考がはっきりしすぎてるって言ってたよね、子供らしくないって。
あれ? ちょっと早口になってない? まさか照れてるの?
――事実子供ではないんだと思う。君の子宮に宿っている、アロイスとイーファの胎児の魂は、脳の片隅に眠っているような感じがする。私は、人間の身体にとり憑いた悪霊みたいなものなんだ。
今度は悪霊かあ。
溜息つきつつ、私は胎児が蹴ったあたりを撫でた。この感触はいわゆる胎動そのものでしかなくて、悪霊だなんて言われてもピンと来ないけど――
確かに、この子は賢すぎるもんなあ。「神の子」だから、って危うく納得するとこだったけど。人類の知識の集積を魂にプリインストール済って話だったけど、データの方にも人格が生まれてしまったってこと?
――そう。そういう例えなら、私はメモリを圧迫する大容量のウィルスってとこだね。
随分と自分を卑下するのね。ウィルスと違って、あんたは論理的に考えてるし――私が聞き入れるかどうかは別として――悪い子じゃなさそうなのに。
――…………。
あ、黙っちゃった。……本当に照れてる訳じゃないよね、神の子様が! 何か、いきなり殊勝な態度を取られると困るんですけど!?
――悪い子、だよ。
え?
――私の存在が胎児の魂を圧迫している。このままだと胎児の意識は生まれる前に消えちゃう。
あまりに唐突かつ衝撃的な内容に、私は思わずがばりと半身を起こしていた。その間にも、「神の子」の声は続いている。
――知識だけじゃなく、私には人類が培ってきた歴史や道徳も刻み込まれてる。人類のこれからを導くために。それにマリア、君が色んな人の生き方を教えてくれた。第七天の外の惨状も。それで、私は結論を出した。
結論という言葉からは嫌な予感しか感じなかった。ごくり、と呑み込む音は、もちろん頭に直接響く声を妨げはしない。
――人の命は何より尊い。まして生まれてもいない胎児の生命は何にも増して守られるべきだ。だから、マリア、私を生まれさせないで。子供を助けてあげて欲しい。
「待ってよ……」
声を出しちゃいけない。誰かに独り言を聞かれる訳にはいかない。ましてこんな上ずった、引きつった声なんて。そう思っても、口が勝手に動いていた。頭の中だけで会話するのも限界だった。
「それって私に死ねってこと……!? ドクターが言ってた人……自殺じゃなくて、まさか――」
――彼女たちに何があったか、私にも分からない。ドクターが言ったように人造の神を産むことに耐えられなかったのかもしれないし、私と同じ存在が私とは違う結論を出したのかも。この世界に生まれる価値を見いだせなかったとか。――でも、私は母体も胎児も道連れになんかしない!
声には、はっきりと憤りの感情が宿っていた。代理母か、彼女に宿った「神の子」に対する怒り。胎児を死なせてしまったことへの。
段々分かってきたことだけど、精神感応では感情を隠すことはできないみたい。だから、分かる。こいつは本当に胎児の命を惜しんでいるということ。それから、私に危害を加えるつもりはないってこと。
「……で、私にどうしろって? あんたはどうするつもりなの?」
――胎児の――君が呼ぶところのホルツバウアー・ジュニアの身体から離れたい。私の魂を、別のデバイスにダウンロードするんだ。理論は考えてある。材料さえあれば――
うわあ、嬉しそうに語り出した。この弾んだ声、子供が名案を思いついた時のトーンみたい。つまりは、どんなに賢くてもこいつはやっぱりお子様ってことなのね。詳しくは説明しなくて良いよ。どうせ私には分からないから。
――うん……。
あ、すぐしゅんとするのも可愛いかも。……でも、私に材料を用意することなんてできなさそうだけど。
――だからここから逃げて。胎児と、私の魂ごと。ドクターの誘いも考え方も悪くないと思ったから、私は彼に協力する。マリアは、子供をちゃんと育ててくれれば良い!
は? なんで私が他人様の子供を育てなきゃいけないの?
――え?
いや、そんな驚いた声される方が分からない。ドクターにも言ったけど誘拐だからね、それ。
――で、でも子供のためだよ? このままだと生まれることもできないんだよ? 呼吸して、空を見て、大地を踏みしめて――
お尋ね者になった私に連れ回されて下層で這いずり回るくらいなら、生まれてこない方がマシだと思うけど。
……どうも雲行きが怪しくなってきたなあ。せっかく話が通じそうだと思ったとこだけど、この前ドクターと話した時と同じ、このお子様も結構なお花畑みたい。ううん、ドクターは自力で這い上がっただけ良い。この子は、生まれてもないし下層を知ってる訳でもないのに、何を偉そうなことを言ってるんだろう?
――……子供を助けたいって、そんなに悪いこと?
悪くない。でも、私の人生は賭けられない。……そう、私は元気な赤ちゃんを産むって契約しかしてないもの。中身がただの赤ちゃんだろうとあんた――新しく造られた神の子だろうと関係ない。本来は知らないことのはずだし……。
――マリア。シェリーやアニタの時、何もできなくて悔しくて悲しかったんでしょ? 今は違う。君の決断で胎児を助けられるんだ!
……私の頭を覗いて友だちの名前を勝手に呼んだことは許してあげる。だからもう黙って。私は私にできることしかしないしできない。できるとしたらあんたの方でしょ。生まれてから、好きなだけ可哀想な人たちを助けてあげれば良いじゃない。そうしたら気が済むでしょうよ。
――マリア。信じてるから……。
「私は、何も知らない、何もできない……」
言い聞かせるように呟いて。また横になって目を閉じると、驚いたことに頭の中の声は本当にそれきり止んだ。いや、私は驚いていない。あのガキ、私が迷ってることを分かってて様子を見てるんだ。精神感応は誤魔化せないから。
自分の人生か子供の命か、だって? 何でこんな選択を突きつけられなきゃいけないのよ。
クソ!