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「自殺……?」
いや、それよりも赤ちゃんもってどういうこと? 下層に行けば幾らでも――文字通り! ――代わりがいる代理母、手足と脳みそのついた子宮よりも、遺伝子改良措置を施した胎児の方がずっとずっと貴重な存在なんじゃないの? なのに殺しちゃうなんて。何て大罪、何て損失。もったいない。
「……賠償とか、大変なんでしょうね」
「さすが、君は冷静だな」
ドクター・ニシャールは呆れたように肩を竦めた。冷たいって思われた? でも、だって、お腹の子に万が一のことがあったら、なんて考えるだけで冷や汗が滲むほど恐ろしい。私がどう頑張っても、全身の臓器を差し出したって取り返しがつくようなことじゃないもの。
「代理母たちには伏せるように情報統制が敷かれているが、ちょっとした社会問題になっていてね。借金のカタに、若い女性に代理母業を強いるような業者がいたと……知っていて目を瞑っていた病院も当然あるから、ここも一応調査が入っていて、それでも騒がしい」
「大変ですね」
「だから女性の遺族が莫大な賠償金を請求されることはないだろう。それどころではないんだから」
うん? この人は私が会ったこともない人の、さらに遺族を心配してるとでも言うのかな? 随分と優しい人間だと、買い被られているみたい?
微妙な引っかかりに首を傾げる私を前に、ドクターは続ける。この前の時と同じように、落ち着いた口調で。
「僕にとってより気になるのは、亡くなった女性の内面だ。……彼女は、とある宗教の敬虔な信者だった」
「大抵の宗教って、自殺を禁じてるんじゃありません?」
私だって教会育ちだけどこの仕事をやっている。神様だって何をしてくれるって訳じゃないし。よっぽどの狂信者じゃない限り、折り合いをつけて生きてくもんじゃない?
「だから、彼女に禁忌を犯させるほどの何かがあったのだろうね」
ドクターの目がお腹に注がれてる気がして、私は思わずそこを庇った。母性なんてもんじゃない。妊娠中は、何よりも胎児を優先すべし。そう、契約を交わしたからってだけだ。
「何か……?」
今度こそ聞き返すのを求められてると思って、私はゆっくりと尋ねた。お腹のあの子は、不気味なくらいじっとしている。外の私たちの様子を窺っているかのように。
ドクターはじっと私を見つめる。聞き返したのは、普通の流れだよね? どうして反応を試されてるように感じちゃうんだろう。
「神を産ませられようとしている、とか。確かな教えを持つ者にとっては、耐え難いほどの冒涜だろうね。自分の命と引換でも、絶対に妨げなければならないと思うだろう」
「あは……」
笑ったのは、不自然に見えなかったかな。あまりにもバカバカしいことを真顔で言われたら、笑っちゃって当然だと思うんだけど。でも、驚いた演技は足りなかったかも。だって、もう知ってたしね。
「じゃあ私はマリア様ってことですね」
「自殺した女性は、幻聴――あるいは神託を聞いたと言って精神が不安定になっていったらしい」
不謹慎な冗談を言って誤魔化そうとした私には構わずドクターは続けた。ああ、それはよく分かる。もしもそのコのお腹にいたのが私の子宮のお喋り野郎と似たような存在なら、それはノイローゼにもなるだろう。
「子宮の胎児が話しかけてくる、とも」
「それもあってこのカウンセリングってことですか?」
「そう。彼らは君たちの心情にあまりにも無頓着で、今更になって心配になったのだろう。他人の子供なんて結局は異物だ。それを身体に受け入れることがどんなことなのか、ろくに考えてなかったということだ」
まあ、外付け子宮に過ぎないですからね。脳みそがついてることを忘れてたとしても仕方ない。ホルツバウアー女史の慌てようの理由は分かったけど――でも、そんなに心配なのに、私に全部打ち明けるって気にはならないのね。ふうん。
「マリア、君の救世主は何て言ってる?」
「え?」
「君は知らないかもしれないが、ホルツバウアー夫妻の専門はまさに遺伝子工学だ。君のお腹に宿ってるのも、神のような能力を与えられた新人類なのでは?」
――マリア。
お腹を内側から蹴られると同時に頭に響いた声。それは、いつになく不安そうな響きをしていた。
「だったら、どうしますか?」
子宮の上辺りに手を置きながら、慎重に言葉を選ぶ。ホルツバウアー女史は、今回もアンドロイドの運転手をつけて私の身の安全を考えてくれた。でも、病院の診察室での危険なんて想定していただろうか。ドクターは、この前言っていた。
『今の世界は間違っていると思う』
私に対するお説教だと思ってたけど、もし、本当に世界――社会への疑問を抱いてるとしたら? 最下層出身のこの人が第七天の繁栄を目にして何を思うのか――世間を騒がせるテロリストみたいに、何かしら復讐しようとするだなんてことは?
「……君に危害を加えるつもりはない」
ドクターはゆっくりと両手を上げてみせた。でも、信じきるなんてできなくて、私は慎重に立ち上がっていつでも部屋から飛び出せる体勢を取る。
「第七天は神の御座所。だが、この楽園にはもはや神が為すべき仕事は残っていないんじゃないか? もし本当に神のような力を持った超人が生まれるというのなら、それは地獄に降り立つべきだ」
「……テロリストの救世主って訳ですか?」
「違う! そんなつもりではない」
両手を上げたまま、ドクターも立ち上がり私に歩み寄る。私を刺激しないようにか、ゆっくりと。彼が進んだ分だけ私も下がって、するとすぐに背中が扉にあたる。
「知識やちょっとした技術、物資がないだけで死んでいく人間、未来のない人間があそこにはどれだけいることか。上にいるものは理論を弄ぶだけであってはならない。まして神を作るなどと称して悦に入ってもいけない。あらゆる人類が、救済の機会を与えられるべきだ」
ああ、なんて綺麗事! 地球がこんなになった原因のひとつ、あるいは大元は、増えすぎた人間じゃなかったっけ? 増えた分だけ土地や食料を奪い合って、垂れ流す汚染物質は倍倍に増えて。一方で些細なことですぐ殺し合って。そんな愚かな人類だから、地獄に落として蓋をしたんでしょうに。そんな連中を生かしてどうしようっていうの?
大体――
「あなただって神になれると思いますよ、ドクター・ニシャール。助けを求める怪我人や病人がいるでしょう。お金だって稼いでるんじゃないですか?」
最下層から這い上がったこの人が言えることじゃないはずだ。結局この人もこの楽園で暮らしてる。汚いもの、どうしようもないものから目を背けたってことじゃないの?
「いずれそうする。十分な資金が貯まった時には。しかし今の問題を見過ごすこともできない」
あ、あっさり躱された。第七天で稼いだ私財を投じて最下層で開業する人生設計? この人、思った以上に変態、もとい聖人じみた良い人というかバカというか。
「造られた神は第七天に君臨するだろう。優れた指導者を得て、天国と地獄の格差は更に広がる」
そうかもしれない、でも、だから何だって言うの? 今でさえ上と下には越えるのがほぼ不可能な壁がある。それが多少厚くなるか高くなるかしたからって何なの? それは私に関係ないでしょ?
「そんなこと私に言って、どうしろって言うのよ……!?」
もはや敬語もかなぐり捨てて、怒鳴るように問いただす。背中には扉、これ以上は下がれない。なのにドクターは少しずつ私に迫ってくる。
「最下層にそのお腹の子をもたらして欲しい。生まれたところで実験体にされるのがオチだ、自由に生きられる方が――」
「それって誘拐ですよ!? 犯罪に巻き込まないでください!」
お腹で育てるうちに、胎児に情が移ってしまうのはよくあることらしい。それで代理母が赤ちゃんごと失踪したり病院から攫ったりすることも、過去にはあったとか。だから、そんな時のための罰則も重いのがたっぷり用意されてるし、研修でも重ねて脅された。
第一、私はコレを何回かやりたいのに。初回で犯罪歴をつけるなんて冗談じゃない!
「だが、人類全体にとっての犯罪――」
「知りません。私は私で手一杯です!」
この前も言ったことを、この前よりも必死に繰り返すと、ドクターの黒い目が悲しげに曇った。でも、それも私の知ったことじゃない。通報しないだけ感謝して欲しいくらい。
「……無理強いはしない。だが考えておいて欲しい」
「カウンセリングは終わりなんですよね? 問題なければ帰らせてください」
「……身辺には充分気をつけて。雇い主の本心もだが、それこそテロリストにとって、君たちは格好の標的になる」
「ありがとうございました。また次もよろしくお願いします」
あくまでも検診が終わったって体で、私はドクターの言葉を聞き入れたと報せる。こんなことがあった以上、また次も顔を合わせるなんて気まずいけど。病院や医者を変えてもらうこともできるけど。さっき聞いたような悪徳業者と繋がってるとこよりは、この人の方がマシ……なのかも。
――マリア。大丈夫?
帰りの車の中、胎児がまた話しかけてくる。
ええ。あんたが黙っていてさえくれれば。
運転手のアンドロイドに記録されないように、頭の中で返事を返すのにも慣れてしまった。
――今なら、話を聞いてくれる? 私のこと、これからのこと……。
「…………」
幻聴だと思っていたかった。バカバカしい妄想だと思っていたかった。でも、妄想は私の頭の中だけじゃなく、第七天や、その下の世界にも満ちているらしい。テロリストの標的? 冗談じゃない。冗談じゃないけど――でも、危険が迫っているなら。
話を聞かない訳にはいかない。