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この仕事に入る前の私は、自分はマタニティブルーなんてありえないと思ってた。だって結局自分の子じゃないし、リスクもリターンも考え抜いた上で良いビジネスとして選んだんだから。
でも、子宮に他人の受精卵を受け入れて、ホルモンの変調に見舞われたり形を変えていく身体と向き合ったりするのは、やっぱりそれなりの大事だったらしい。
――マリア? 聞こえてるんでしょ?
この前の検診でもドクター・ニシャールと口論めいたことになっちゃったし。昔のことも思い出しちゃった。きっとナーバスになってるみたい。
――マリア、どうして無視するの?
やだやだ、ここ最近、ひっきりなしに変な声が聞こえるんだ。これはきっと重症だ。次の検診では、何かリラックスできるような薬でももらった方が良いのかも。
――マリア!
「痛……っ」
強い胎動をお腹に感じて私は思わず身体を丸めた。声を無視してお昼寝でもしようとしてたら、これだ。母体の心身の健康はあんたのためでもあるってのに、まったくこのやんちゃさんはっ。
――分かってるでしょ? この声は錯覚でも幻聴でもない。君の子宮の、この私の声だって。
うるさいうるさいっ! 幾ら遺伝子操作されてほとんど別種レベルに優れた能力をお持ちだからって、羊水に浸かってるお子様が喋れるはずないじゃない! 言いたいことがあるなら、生まれてからせめて二年は待ちなさい。それも、私じゃなくてあなたのママに言えば良い!
――イーファはママじゃない。少なくとも私にとっては。私が頼れるのは、マリア母さん、貴女だけなんだ。
うるさい黙れ私はあんたのママじゃない。
――マリアひどい。
ひどくない! 私は子宮を貸してるだけだし、胎児に情を移すなって研修でもしつこく言われたもん。代理母として、プロ意識を持ってやってるだけだもん! 契約に沿ってるだけなのにひどいとかいう方がひどいわ!
――契約は、本当にフェアだった?
「…………」
やっぱりおかしいよ。こんな落ち着いた声、理路整然と語る声が生まれてさえない赤ちゃんのもののはずがない。その前提となる思考だって。子供って、しばらくは動物みたいなもんなんじゃないの? こんなにはっきりものを考えられるの?
――普通の子供じゃないからね。
ええ、そうでしょうとも!
この饒舌なお子様の話を総合すると、大体こんな感じ。
第七天の皆様は、人類の――そして地球の未来のために、日々邁進していらっしゃる。地球の環境を回復させるための実際的な研究や実験はもちろんのこと、それに携わる人員の質の向上も重要な課題。例えばドクター・ニシャールみたいに、最下層の出身でも最高の教育を受けられるような制度も整っている、らしい。私を始めとした凡人には無縁の話だけど。
一方で密かに進められている研究がある。それは、どれだけ優れた人間を生み出せるか、というもの。
そもそも第七天の人間のほとんどは受精卵の段階で遺伝子に手を加えることで美貌や優れた身体能力に恵まれてるし、心身の病気の因子も限りなく除かれてゼロに近い。羨ましいほど完璧な方々だ。これだけでも昔は色々批判があったらしいんだけど、私の子宮にいるナニカが言うのはさらに挑戦的な試みだった。
それは、神の創造。
というか、神のように優れた指導者を作って人類を導いてもらおう、ということ。
そんな冒涜的というかアホなことを考えて、しかも実行してしまった研究者のグループがいたらしい。身体的な利点を詰め込むことに加えて、評価の難しいはずの才能やら人格やらの要素を数値化だかして最良の値が出るように調節した、とか。これまたオカルトの域を出ないはずの魂とかいうデータの塊に人類が集積してきた知識や道徳を植え込んで。精神感応とかいう胡散臭いこと極まりない能力も、どうやったか知らないけど遺伝情報の二重螺旋に仕込むことに成功したとか何とか。
こういうマッドな研究を、どう地球の未来に活かすつもりだったのか、正直詳しく問い詰めたいけど。とにかくそんな妄想じみた研究の結実が、私の子宮に送り込まれたという訳だ。
――マリアと話せるのも、精神感応のお陰だよ。
うん、黙ってて。
まあ、本当に救世主を作ってやる、とか信じているというよりは、荒唐無稽な――ごめんねそうとしか思えない――研究を実施するための口実なんじゃないかと思うというか思いたい。
だってホルツバウアー夫妻は良い人そうだったし、私だって変態な雇い主はイヤだ。いや、自分の子供を処女に産ませようとしてる時点で相当といえばそうなんだけど。本気でお子様が神だというなら、マリアって名前の処女に目を輝かせたのも宗教的なこだわりというかがありそうで――キモい。
……やっぱりこの雇い主、問題アリかもなあ。
――でしょう? マリアに黙ってやったんだよ?
まったく、出来の悪いフィクションめいた話だとは思う。ただ、何だかんだで今の人類って自然なものへの憧れがあるよね、っていうのは思う。胎児をガラスキューブの中で育てるんじゃなくて、わざわざ生身の子宮に戻すとか。だから、例えばすごい性能のコンピューターを作る、って方向じゃなく、すごい人間を作ろうとするのはまあ分からないでもない。
だから――すごく癪なんだけど――私が子宮にお預かりしている御子は、次世代の人類の希望となるべき神の子ってことみたい。処女懐胎なんて聖母様みたいって思ったのはあながち的外れでもなかったみたいだね! ああ、頭の中で考えるだけでも恥ずかしくなる。
あ、しっかり胎児の話を聞いてるじゃん、ってツッコミはなしの方向で。四六時中頭の中に直接話しかけてくる声をシャットアウトするなんて不可能なのよ!
――マリア、いい加減に聞いてよ。助けて欲しい。
「うるさいっ!」
私はとうとう口に出して遮った。私の子宮に居座るお子様の、しつこいお喋りを無視するのも限界だった。
「助けて欲しいのは私の方。あんたさえ無事に生まれてくれれば私はそれで良いの。だからもう何ヶ月か黙っておとなしくしてて。あんたが造られた目的とか、私の知ったことじゃない!」
腹の底から怒鳴ってやりたい気持ちでいっぱいだったけど、そこはかなり我慢してボリュームを抑えてやった。こんなの、端から見たら一人でブツブツ言ってるとしか見えないだろうから。
雇い主夫妻は、日中は仕事で不在にしてるけど、豪邸を維持するために雇われてる人たちはいる。それも結構な人数。その人たちに大きな独り言を聞かれて、ノイローゼみたいです、なんて報告されたら目も当てられない。代理母の子宮から胎児を取り出すなんて――不可能ではないけれどリスクもあるし、処女の子宮を望んでた夫妻には消えない汚点になるだろう。莫大な違約金を請求されても私には払うアテなんてない。
――マリア……。
ああ、苛々しちゃってリネンの感触も何だか肌に刺さるみたい。最近よく眠れてないのもあるだろうけど。
だから、ちょっとは黙ってて。あんたが噂通りの超人類なら、私の助けなんかいらないでしょ?
さすがに私の機嫌が悪いのが臍の緒を通じて分かったのか、母体の睡眠時間を尊重してくれたのか。……叱られてしゅんとしてる、なんて思いたくもないけど。それでも、胎児はやっと黙ってくれて、私はつかの間の惰眠を貪ることができた。
「マリア、カウンセリングに行ってきて頂戴」
「えっ……」
そんなある日――雇い主のひとり、イーファ・ホルツバウアー女史がそんなことを言い出したので、私はひどく狼狽えてしまった。
「な、なんでですか!?」
怪しい独り言をチクられたに違いないと思ったから。採用後のメディカルチェックでメンタル面の健康も充分に検査されてはいるけど、実際挙動不審なとこを報告されたら、そりゃ不安になるのも分かる。
でも、だからってクビにされたらどうしよう。おかしくなったんじゃないんです、お腹の子供が話しかけてきたから――って、そっちの方がおかしいか。
「……貴女に不満がある訳じゃないの。とてもしっかりした子だし……。ただ、少し心配になっただけ」
「そ、そうですか……」
良かった、独り言が問題っていう訳じゃないみたい。でも、少し心配、だって? この賢い女性らしくない曖昧な言い方だと思う。誇大妄想めいた実験をしていた疑惑こそ出てきてるけど、研究者って論理的なものなんじゃないの? 何となく心配だからカウンセリングへ、って。何かと病院に行きたがる年寄りじゃないんだから。
「大事な時なのにごめんなさいね。でも、子供のことでもあるから……」
言いながら、女史はそっと私のお腹に触れた。普通、他人に無断で触れる距離感じゃないし、しっかりした子とかいう言い方からして、この人にとって私は半人前の子供に過ぎないんだと思う。歳は一回りも変わらないけど、知識や知能や責任の差はそれくらい――ううん、もっとあるってことなんだろう。
「いえ、良いんです。いつもの病院ですよね、行ってきます」
でも、子供扱いはそんなに気にならなかった。この人と私は全然違う生物だって分かってるし、赤ちゃんのことを心配してるんだと思うと――失礼かもだけど――可愛い、って思っちゃったから。ま、肝心の赤ちゃんは可愛げなんてないうるさいヤツだけどね。
先日の一件以来、ドクター・ニシャールに会うのは初めてだった。決して後味の良い一幕ではなかったけど、そこはお互いいい大人だ。何事もなかったかのように挨拶を交わして簡単な問診をする。最近の気分とか、食欲はあるか、とか。これがカウンセリング?
「――急に言われて来たんだろう、驚いたよね?」
「いえ。雇い主のご意向ですから」
質問の合間にそんなやり取りも交わしつつ、私はドクターの褐色の肌や黒い目をこっそり見てた。白色人種じゃないのを――第七天にいるのは、必ずと言っていいほど金髪碧眼の人ばかりだから――不思議に思ってたけど、最下層出身なら納得だ。天国行きの奨学生だかの枠がどれだけかは知らないけど、代理母なんか及びもつかない狭き門に違いない。そこをくぐり抜けるのにどれだけの才能と、それに驕らない努力が必要なことか――その道のりは、考えただけで気が遠くなる。つまりこの人も変態だ。
「こちらも朝から忙しいよ。君のとこのように、女の子たちをカウンセリングに寄越すご夫婦が殺到していてね」
女の子たち、と言った時の声の響きで分かる。私たち、代理母のことだ。ホルツバウアー女史のように、急に心配になった人たちがいる? 皆、冷静で有能な人類のVIPなのに?
他所のお宅のことを言い出したのは、詳しく訊けってことなのかしら。でも、守秘義務ってヤツは?
注意深く沈黙を守っていると、ドクターは軽く笑った。可愛くない女とでも思ったのかも。
それから、言ってはいけないんだけど、と前置きをしてから教えてくれた。
「代理母を請け負っていた女性の一人が自殺したんだ。もちろんお腹の子を道連れにして」