ムスブ
ムスブ
その光景はいつもと変わらぬ朝に見えた。
樹東がいてゆうがいる。そして光冴のカタチをしたものが笑顔を浮かべて歩いている。
変哲もない少年少女の登校風景。
ただ一つ、人ならざるものが在ることを除いて。
「本気で光冴くんとお人形をすり替えるつもりなのね」
貴子は路上駐車した黒い4WDの中から二人と一体が歩いていく姿を遠巻きに観察していた。関俊彦だけならいざ知らず、その息子の樹東まで何食わぬ顔で実験に加担するとは彼女には少し理解できなかった。
或いは、知らされてなくて人の形を光冴本人と思い込んでいるのか?いや、それはないはずだ。調べでは光冴の最後を見届けたのは他ならぬ樹東だったのだから。
「関光冴の死亡届けは出されていませんね」
助手席に座ってノ―トパソコンを弄くっていた高木が貴子に告げる。
「それどころか、ひき逃げ犯の捜索はすでに打ち切られています」
事故そのものをなかったことにしようとしている。信じられないといった様子の高木に貴子は温い笑みを浮かべる。
「あの男が関与しているんだから、それ位するでしょ」
「そうですね」
鉄総司―――〃蝿の王〃と呼ばれる男の見えざる手がそこら中に存在する。そう考えるとぞっせずにはいられない。
「それにしても妙な気分になるわね」
貴子は遠ざかっていく樹東たちに目を戻して言った。
「あんなによく笑う人造人間を見てると」
クロスは先程から引っきりなしに喋っていて、ゆうがそれに相槌を打ち、樹東はそれをいとおしいそうに横目で眺めている。会話の内容は聞こえないが、彼らの表情を見ればそれが滑稽な話だということが推測できる。
「どうして―――」
高木も二人と一体に目を向け呟く。
「どうして、人造人間に心なんて必要なんだろう?」
人造人間は所詮労働力の補強。あんなふうに笑えることは寧ろ邪魔なはずだ。
「心が必要なわけではないのよ」
「えっ?」
「心はただの副産物。必要だったのはただ、賢い人工頭脳」
今世紀に入り、将来的な見通しとして急浮上しだした問題。労働力の確保への不安。
少子高齢化。
職業選択の自由。
ヘッドハンティングなどにおける、有能な人材の海外流出。
無気力症候群の増大。
原因は数多にあれど、前々から問題視されていたことの積み重ね。それでも、実際に目に見えて深刻化しなければ誰も本気で対処しようとしなかったものばかり。気付いた頃には後の祭りで狼狽えることしかできない。
そこに降って湧いて出てきた人工細胞キザンを用いての人造人間構想。
「その前からロボットによる労働力補正の案はあったの」
だが、一番に人材を必要としたのが介護や看護、救急といった細やかな判断が必要とする環境だった。
「シリコンコンピュ―タ―、いわゆる集積回路による人工頭脳では、不可能とまではいわないにしろ予算やコンピュ―タ―そのものの大きさなんかを考えた場合、とても現実みを帯びている話とは言い難かったのよ」
キザンを使った有機コンピュ―タ―。人の脳髄を模倣する人格移植AI。
「よくよく、考えればクロ―ン人間とそう変わりないように思えるけど、現実そんなことを論議しているほどの猶予がなかった。当然のように、人権保護団体や宗教家の猛反発はあったけど、一人っ子政策で壮年バランスを一気に崩してしまった中国を始めとしてアジア諸国の切羽詰まった情況には何を言ってもむだだった」
エネルギ―関連の会社を世界中に持つ鉄グル―プの存在も大きかった。
「みんな面倒臭いのよ。シンラ研究会に年間ウン百億という費用を投じることの方が、原因の根本的解決を目指すより遥かに楽だからね」
そう。ロボットに心が必要だったわけではない。全ては国を作っていく人間の怠慢である。
「そうか……だとしたら―――」
高木が何かを思いついたように呟く。
「どうしたの?」
「あっいえ―――」
貴子の問いに誤魔化すような笑みを浮かべて首を振る高木。
「なんにしてもこんなこと間違ってるんですよね。しっぺ返しを食らうのは、どんなときも原因を作った人たちじゃなく、弱者や関係のない人々だというのに」
「そうね」
すでに樹東たちの姿は見えなくなった。
学校に向け先回りしようと貴子はサイドブレ―キを下ろしてアクセルを踏みしめた。
「光冴っ!」
クロスを教室に連れていくと、既に登校していた光冴の友人数名が堰を切る勢いで集まってくる。
「お前、事故にあったって―――大丈夫だったのかっ!?」
その中でも特に親しかった青木が心底心配した様子でクロスに訊ねた。フェイクで頭に包帯を巻いているクロスは、
「うん、大丈夫だよ。ちょっと頭打っただけだから」
とにっこりと笑って答えた。誰もその笑顔を人が作った模造とは思わないだろう。それを見た友人たちは皆同様に安堵で胸を撫で下ろした。
「はあ―――心配したんだからな」
「携帯全然繋がらないしよ」
「今日、こなかったら家に行ってみようって話してたんだぜ」
「携帯壊れちゃって―――みんな心配してくれてありがとう」
のんきそうに言うクロスを見て、全員自分たちの取り越し苦労に苦笑する。本当のことに気付くにはクロスは余りにも光冴そのものだった。だが、その中で一人だけ異変に気付くものがいた。
「あれ?」
青木だ。彼はクロスとその後に立っている樹東とを見比べる。
「光冴、なんか白くなった?」
「っ!!」
しまったっ!!
樹東はどうしてそのことに気付けなかったのかと内心焦る。当然だ。樹東も光冴も色白の方とはいえ、生まれたてのクロスと十七年間紫外線にさらされて生きていたものとを比較すれば一目瞭然である。
樹東は助け船を求めるべく横にいるゆうを見る。ゆうは慌てて、
「ちょっと貧血気味なのよ。多少、出血したし―――病み上がり何だからあんたたちもこんなとこで立ち話させてんじゃないわよ」
クロスの腕を取り光冴の席へ引いていく。それに釣られるように、みんなも移動を始めた。
「…………………」
心配そうにクロスを見守る樹東。そんな彼を気にして青木が、
「オレたちで気分悪くなってねぇか気ぃつけとくから、そんなに監視してんじゃねぇよ。ブラコン」
「…………………」
棘のある言葉に少しむっときたが、樹東は無関心を装いクロスに暇を告げる。
「じゃあな、光冴」
「うん」
クロスの満面の笑みを受け取って樹東はその場を後にした。
「すかしてんじゃねぇよ、バァカ」
廊下を行く樹東の背中に青木は小声で毒突いた。
「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ……」
一時間目、樹東のクラスは国語の授業が行なわれていた。
「じゃあ、牧水の短歌の感想を関」
「えっ?」
気も漫ろだった樹東は教師からの突然の指名に我に返る。クロスのことが心配でたまらず授業どころではなかったのだ。
「あっえっと―――」
樹東は教科書を手にし立ち上がる。
「この短歌の出来は、白とアオという色彩を象徴的に用いており、空と海の対句によりアオの大きさと白鳥の小ささを表現した上で、隠喩的に世俗と離れた作者の孤独感を表現している所にあります。更に倒置法によりその効果を向上させているのだと考えられます」
樹東は淀みなく答える。微塵も一瞬の焦りの色を見せることなく。
教師はぼやくように言う。
「百点」
「………………………」
「ただし、オレが訊いたのは感想であって作品解説ではないがな」
「………………………」
教師に揶揄されても樹東は無表情にただ前の黒板を眺めていた。彼が何を考えているのか計りかね教師はため息を吐く。
「宮下、お前感想言ってみろ」
「えっ おれ?」
樹東の後の席の生徒、宮下は突然教師に質問を振られどぎまぎとなる。
「えっと悲しいかんじがする―――かな?」
結局、照れ笑いを浮かべ乍ら適当に答える宮下。
「五点」
「低っ!」
「だが関、お前のよりはましだぞ?」
「…………………………」
樹東は何も答えない。教師は更に続ける。「お前、こないだの『こゝろ』感想文―――倫理の椎名先生に見せたら、これだけ臨床心理学に長けたレポ―ト、大学の専科生にだって書けないだってよ。分かるか、オレの言っている意味が?」
「………………………」
「お前は頭がいいし、知識だって半端じゃない。でも、感想を書けといわれたんなら感想を書けよ。自分の心の断片を表現する大切さを知るとか、それを養うこととかが重要なんだからな。分かったか?」
「分かりました」
樹東は答える。しかし、国語教師からしてみればそう言っている最中にも、樹東からなんの感情を読み取ることが出来ない気がして苛立ちを覚えた。
「もういい、座れ」
「はい」
樹東は静かに着席をする。
国語教師は牧水の歌の解説を始めた。ほとんど樹東の言ったことの復唱である。今の吊し上げとも思える行動、役目を取られた嫉妬心からとも感じられた。
「………………………」
樹東は授業を聞くでもなく、只管シャ―ペンをノックして芯を出し続けていた。
「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ……」
二時間目、今度はゆうたちのクラスが国語だった。
「じゃあ、牧水の短歌の感想を関」
「はい」
教師に指名され、クロスは元気よく返事をして立ち上がる。
「え〜とぉ、なんていうのかなぁポツンってしてゾワゾワって感じ?ほら、そう……夜とかみんな寝てるのに妙に頭だけ冴えてて寝れなくて思わずお兄ちゃんを起こしたくなるときの気持ちみたいな」
「ふむ」
「まぁ寂しいんだと思うけど、でもそれだけじゃない気もする。たぶんアオって色とかね海とか空とかに、ちょっとだけ希望の匂いもするのかなぁ?よく分かんないけど」
「はなまる」
「えへへへ」
教師の苦笑混じりの褒め言葉に、クロスは上目遣いになり口角をきゅうと引き上げて微笑んだ。
「っ!?」
何の気なく振り返ってクロスを眺めていた青木の脳裏に言い知れぬ不安がよぎる。
なんなんだ―――いったい……。
ただ光冴が照れ笑いを浮かべただけではないか。それがなんだっていうんだ?
「…………………」
漠然とした迷いに理由を見いだそうとする青木。だが、何の答えも見つからぬままただただ時間は流れていった。
そして、放課後。
「光―――」
青木がクロスに声をかけようとしたが、
「光冴、帰るぞ」
いつのまに来たのか、教室の入り口に立っていた樹東の声に阻まれてしまう。クロスは青木に気付くことなく、尻尾を振るように樹東に駆け寄っていった。
「………………」
タイミングを逸し、なんとなく青木は茫然と一人と一体の背中を見送る。
ゆうが彼らを追うべく小走りで青木の横を通り過ぎていった。
「大丈夫だったか、光冴?」
下履きに履替えた辺りで、樹東はクロスに訊ねた。クロスは無邪気な笑顔で頷く。
「うん」
「ゆう?」
樹東はゆうにも訊ねた。ゆうは呆れたようにため息を吐いて答える。
「大丈夫だと思うわよ。内面は別としても、幼いとこあったから光冴は。多少の不具合はいつもの冗談ってとられると思うし」
「そうか」
頷き樹東は歩き始める。ゆうとクロスもそれに続いた。
二人と一体が校門へと校内の敷地を歩いていると、彼らの目の前に野球のボ―ルが降ってきた。樹東はそれを手に取り、ボ―ルが飛んできた方を向く。
「おう、関!」
グランドからユニホ―ム姿の野球部員が声をかけてくる。黒田だった。樹東をしつこく勧誘してくるエ―スである。
「悪いけど、ボ―ル」
投げ返せと黒田が頼んでくる。だが、樹東はそれを無視してボ―ルを地面に転がし再び歩きだそうとする。
「おいっ関!」
黒田の難色にクロスが樹東に代わってボ―ルを投げ返そうとする。
「行っくよ〜!せぇのっ!」
「へっ?」
誰もが予想できないことが起こった。クロスの投げたボ―ルの速さが尋常ではなかったのだ。黒田は思わず仰け反り、ボ―ルは彼の後方の地面に深く減り込んでいた。
「あれ?まだ運動調整がうまくいってないのかな?」
クロスの呟き。ボ―ルの速さは軽く二00キロを超えていた。
「行くぞ!」
樹東は逃げるように早足でその場を後にする。
「変に思われたでしょうね」
校門を出て幾分か行ったところでゆうが口を開いた。
「知るか!」
樹東はイラついた様子で吐く。
「ちっ黒田の奴、いいかげんしつこい」
「アレでしょ。例の事件で野球部員の大半が退学になったから―――早急に部員獲得しなきゃ廃部になるってんで焦ってんのよ」
例の事件とは夏期大会予選で敗退した日、黒田と数名を除いた野球部員が飲み会を開いたその席で暴力沙汰が起き警察に補導されてしまった事件のことである。退学者や停学者が出るまでに至り、その場にいた全員が部を首になったのだ。
「ほら、球技大会とかでキキに憧れてる後輩とかけっこういるみたいだから、キキが入れば入部希望者が出てくるかもって思ってるのよ」
「オレの知ったことじゃない」
「じゃあ、ボク入ろっかな?」
樹東とゆうのやり取りを聞いていたクロスが言った。
樹東は一瞬だけ驚いた顔をしてから、
「光冴が本当にしたいんなら止めないけど、父さんの許可がもらえるまでは我慢しろ」
と釘を差す。
それにクロスは素直に頷いた。
「ったく、高木くんどこまでお昼買いに行ったのかしら?」
運転席のシ―トを倒し助手の高木、というより彼が持ってくるはずの昼飯を貴子は今か今かと待ちわびていた。
「それにしてもあの運動能力。人間より優れたっていう看板は伊達じゃないわけね」
不意にクロスの豪速球を思い出し、ぼやくように呟く貴子。先程まで高台からクロスの動向を双眼鏡で見張っていたのだ。
「………………………」
ほぼ人間。にも関わらず、運動・知的共に能力は人間の比ではない人形。
貴子は思う。
アレにブラックマ―ケット以外に商品価値を付けることができるのか。裏取引としての利用価値ならいくらでもある。だが実際アレを一般常識人が目の当たりにしたとき、果たして利用したいなどと思うのか?
「生きた奴隷ではなく……か―――」
人々の欲望が世相に反映する。実害がなければ気付くことはなく、有害物質を垂れ流してしまうような。被害者は大抵、無関係者や弱者。高木の言う通りだ。
貴子がぼうっとそんなことを考えていると何ものかによってトントンと運転席の窓ガラスが叩かれる。目を遣るとそこには警官が立っていた。貴子は慌ててシ―トを起こし、パワ―ウインド―を開ける。
「あの―」
人のよさそうな顔をした警官は気を使った様子で口を開く。
「ここ、駐車禁止なんですけど」
貴子は内心やばいと思いつつ軽い口調で答える。
「あ〜連れを待ってたのよ。すぐ行くから勘弁してくれないかしら?」
キップきられるか?半ば諦めていると、
「構いませんよ。美人の頼みですし」
警官はおよそ相応しくない言葉を残しその場から去っていった。
「?」
こんなことがあるのかと、貴子は幸運を噛み締める気持ちより呆れる気持ちの方が先立ちつつ、小さくなっていく警官の背中を眺めた。
「あの警官、どっかで会ったことなかったかしら……」
思い出せない。思い出せないのだがごく親しかった誰かさんの顔が頭に思い浮かぶ。
「兄さん?」
なんでだろう……今更―――。
貴子は唇を噛んだ。
自分が捨てたのに―――。
「すいません。遅くなって」
高木が買物袋をぶら下げ戻ってくる。
「えぇ?結局コンビニのパンなの?」
高木の昼飯のチョイスに腹を立てる貴子。高木は申し訳なさそうに頭を掻きながら弁解する。
「すいません。どこのお弁当屋も混んでて。コンビニ弁当よりはパンのがいいんじゃないかって」
「しょうがないわね……パンに牛乳なんて昔のドラマじゃあるまいし」
「まぁやってることは似たようなものですけど」
ヘラヘラしながら高木は言う。そんな彼の顔を見て貴子は思う。
そういえばなんでこいつは自分に付いてきたんだろう?
貴子がフリ―になるとき同じ出版社の後輩だった彼から自分を使ってくれと頼まれ何の気なく助手にしたのだが……。
「ねぇ、高木くんもしかして私のこと好きだったりする?」
「ええっ!?何を今更―――当然じゃないっスかぁ!?じゃなきゃ追っ掛けて助手になったりしませんって」
高木の反応に貴子は目を丸くする。彼女としてはもっと慌てたり赤面したりを予想してたのだが。
「じゃあ、何でアクション起こさないの?」
子供じゃないのだから、好きなら好きで告白するなり何かしら行動を起こすのが普通ではないか。
「それはだって貴子さんボクのことアオウトオブ眼中じゃないですか。だから、ボクの魅力に気が付いてくれるまで待とうと思ったんっスよ」
「たぶん一生こないと思うけど」
苦笑しながらの貴子の言葉にに高木は困ったと頭を掻く。
「まぁでも、こうやって手伝いできてるだけでも結構楽しかったりしますし」
「ふ〜ん」
貴子は高木から目を逸らし少しの間考え込む。そして、
「命の危険があっても?」
と真剣な声で訊ねた。高木の方はいつものヘラヘラした調子で答える。
「そりゃ危なくないにこしたことないけど、死ぬときは一緒だっなんて映画みたいでカッコいい気もしますね」
「……………………」
高木のバカみたいな発言に貴子は呆れる。
「そういえば、あなた家族は?」
「……………………」
何の気なく訊ねた貴子。それまで笑顔だった高木の表情が一瞬だけ消える。それは本当に一瞬で、それでも貴子が見逃さなかったほど色濃く出ていた。
貴子は悪いこと訊いたと思った。
「あっえ〜と―――」
「あっあの―――」
二人は互いに気を使った体になる。それに可笑しさを覚え高木は吹き出した。
「アハハ―――死して屍拾うもの無しなんですよ、ボク」
「そっそう―――」
天涯孤独という意味なのだろう。それでも高木のお茶らけた言い草にどう答えていいか分からなくなる貴子。
「そうだ、さっきボク思ったんですけど―――もし、今回このタイミングで光冴くんが死ななかったら、クロシングオ―バ―がこんなに早く外の世界に出されることはなかったんですよね」
「そうね」
「恐らくですけど、このイレギュラ―がなければ関俊彦の方はもっと慎重にことを運んでいたはずです。でも、それは誰かさんの意図とは違った。だからこそ光冴くんは―――」
「まさか!?」
貴子は驚愕した。
「つまり鉄総司の目的は人造人間の量産ではなく始めからその暴走にあったとすれば」
「―――――――――--」
「人造人間に使われている、人工細胞〈キザン〉は恐らくシンラ博士が亡くなったときに外部に流失してしまったんです。だから、それが世に出てしまう前に、〈キザン〉の危険性を人々に知らしめようとしているんじゃないでしょうか?」
「牽制、或いは原爆投下のような―――」
貴子はわなわなと体を震わせた。
「私はどうやら思い違いをしていたようね」
私はハンタ―だ。真実という濃霧に包まれた獲物に―――。
『変身』―――それまで家族の生活を支えてきた男が醜悪な虫に変身したために、家族の手で部屋の中に監禁され蔑ろにされそして最後は父親に投げ付けられた林檎が元で死んでしまう。斯くて男の死によって家族は絶望の中の希望に手を延ばせるまでに至る。
「………………………」
樹東は無言で本をデスクの上に置いた。そして椅子から立ち上がり畳の上に寝転がる。
傑作と呼ばれるものの所以は、その示すものが読むものによっていかようにも取れるところにあるのだと思う。この作品にしてもそうだ。暗闇の中にも無数に転がる幸せを説いているようにも、人生を切り開く困難を説いているようにも取れる。
しかし、樹東の中に深く突きささったのはただ一つ。主人公である男の死。父親が投げた林檎。この作品の不幸は男が虫に変身してしまったことではなく、日常の影に腐敗が進んでいた家族の中に―――。
「ちっ」
樹東は今日の国語の時間を思い出す。
自分にだって相手が何を訊ねているのかだとか、作品解説と感想の違いくらい分かる。『白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ……』
あの歌を読んだときだって、世界の広さともうそこにいない光冴、そしてその代わりのクロシングオ―バ―に虚しさを覚えずにはいられなかった。
そう、いつも頭に浮かぶのは光冴のことばかり―――。
小さい頃はそれを素直に書いていた。
原稿用紙に埋まるのは『光冴が、光冴を、光冴だから、光冴は、光冴しか、光冴も、光冴に、光冴と、光冴―――』……。当然、同級生にからかわれた。自分だけなら別にどうだっていい。
光冴もからかわれたらしい。
もう、書けない。自分のことで光冴が傷つくことは絶対にあってはならないのだから。
「光冴……うぐっ―――」
「お兄ちゃん」
クロスの声がして樹東の部屋の襖が開かれた。樹東は慌てて涙ぐんだ目を擦って、平然とした顔で対応する。
「どうした?光冴」
「宿題ほとんど終わったんだけど―――」
「そうか。頑張ったな」
樹東は内心感心する。光冴が残していた宿題の量は数時間で片付けられるようなものではなかった。樹東でさえ一日かけてやっとくらいの―――。
これが人造人間の実力。
「でもね、国語で分かんない問題がいくつかあって―――知識レベルはバ―ジョンアップしてあるけど、認識力が一二歳のままでインスト―ルされてあるから……」
そして、限界―――-。
「兄ちゃん見てやるから持っておいで」
「わ〜い」
クロスはキラキラした笑みを浮かべ、樹東に駆け寄った。
「『日本の牛乳は腐れにくくて心配だ』これは、牛乳に添加物が多量に含まれていることを暗示してあるんだ」
「なぁ〜んだ、だったらそう書けばいいのにねぇ」
「いや、それが問題だから」
「エヘヘヘヘ」
クロスの笑顔は光冴の笑顔。幸せな気がした。
そう、気がしたのだ……。
青木はクラスメ―トたちとゲ―ムセンタ―でときを過ごしながら、しかし頭の中は光冴のことが気掛かりでならなかった。
「―――-よな?」
「あん?」
友人に何かを訊ねられたのに上の空だったために聞き逃してしまう青木。友人は苛立ちながらも同じことを繰り返し訊ねた。
「だからぁ光冴の奴が無事でよかったよなって訊いたんだよ」
「あ、ああ」
「お前ら中学の頃から連んでたんだろ?」
「それがなんかあったらやっぱショックだよなぁ」
「そうだな」
青木は気のない返事で答える。
「それに前の日、光冴の奴何か様子変だったしな」
「そうそ、オレも気になって―――」
彼らの中には普段、人の生き死にを平気で語るものもいるだろう。しかし、実際に自分たちの身の回りで生死の問題が発生すれば少なからず不安や恐怖を感じるものだ。
「前の日……」
青木はぼそりと呟く。そして、彼はまだ気付いてなくとも、光冴と今生の別れとなったときのことを思い出した。
事故の前日。
その日も光冴はいつものように青木たちとゲ―ムセンタ―で道草を食っていた。
「なぁ光冴もたまにはすれば?」
友人が光冴にゲ―ムをするように進める。光冴は大抵、人がしてるのを横から見ながらお喋りをしていることが多かった。
そして、光冴はいつものようにニコニコしながら断る。
「いいよいいよ」
「金ねぇの?」
「ううん。お小遣いほとんど貯めてるから」
「なんか欲しいものでもあるのか?」
「べつに……何となく」
そのやり取りを横で見ていた青木だけが光冴の真意を理解していた。
兄である樹東は一家の家計を管理し、今日々の高校生にしては異常な程自分のことにお金を使わない。それなのに光冴にはしっかりお小遣いを与えている。
そういう現状に光冴は気を使っていた。そんなにいらないと断っても、いいからと押し返される。
だから、たまに樹東と一緒に共有できるようなものを買うに止め、ほとんどを貯金箱の中に収めているのだ。
そのことを知っている青木は気付かれない程度のため息を吐き、
「オレが奢るからしてみろよ」
とゲ―ム機に小銭を投入して光冴を座席に座らせる。
「ええ、いいのに―――てか、対戦入ったじゃん」
光冴の座らされた台は格闘ゲ―ムで、しかも向かい側の座席に座っている赤の他人と対戦をするはめになってしまった。
「いいだろ?たまには光冴の腕前をみんなにも披露してやれよ」
「ふ〜ん、光冴ってゲ―ム強ぇんだ。意外」
「まぁ家で鍛え上げられてるから」
ゲ―ムがスタ―トし巧みにコントロ―ラ―を操作しながら答える光冴。
「家でってキキ兄のことか?あいつゲ―ムも一流かよっ!?ありえねぇ」
「まぁキキ兄ができないことっていったら小説書くくらいじゃない?絵とかは上手に描くけど、何故か感想文とか苦手らしいし」
そうこう言っている内に光冴はノ―ダメ―ジで相手に圧勝した。この腕でも樹東には到底及ばないのだが……。
「いやはや強いなぁ、お前」
向かい側の対戦相手の男が立ち上がり、光冴の方を覗き込んできた。男は着物に袈裟と所謂僧侶の格好をしていた。
「ん?あれ?」
男は光冴の顔を見て疑問を口にする。
「お前、さっきカラオボックスにいなかったか?可愛い女の子連れて」
「光冴ならずっとオレたちといたよな」
「それってキキ兄のことじゃねぇ?こいつ双子の兄がいんの」
光冴の代わりに友人たちが答える。
「ふ〜ん、双子かぁ。そういえば確かに髪型が違ってたな」
「あの―――」
黙って男の顔を見上げていた光冴が口を開く。
「ボクとどっかで会ったことない?」
「ん?」
光冴の問いに男は少しだけ考えてから、
「ん〜どうだろ。オレは初めてだけど、もしかしたら―――って、やばっ!もうこんな時間じゃん!?」
男は何気なく壁に掛けられた時計を目にし慌て始める。
「熱中しすぎて保育園の迎えに遅れるとこだった。じゃあな坊主ども」
そう言って急いでゲ―ムセンタ―を出ていった。
「なんだぁ、あいつ?てか坊主はてめぇだろってんだ」
「坊さんがゲ―センに来ていいのかよ!?」
いけないという法律はないが法衣ではなんとなく来て欲しくない。
「光冴、あいつのこと知ってんのか?」
青木が訊ねる。
「ん〜思い出せない。なんとなく引っ掛かるけど。それよりボク、もう帰る」
光冴はどことなく棘々しい雰囲気を醸し出しながら足早に帰りだした。
「なんだ、あいつ?」
「なんか怒ってなかった?」
光冴の様子に首を傾げる友人たち。光冴の背中を睨むように見送っていた青木は小さくため息を吐き友人たちに告げる。
「あぁオレもちょう帰るわ」
光冴の後を走って追い掛けた。
「光冴、ちょっと待てよ」
「アオちゃん……」
光冴は無表情で呟く。
「一緒帰るぞ」
「うん」
二人は並んで帰路を歩き始める。
「………………………」
今日はこの夏一番の真夏日かもしれない。狭い道路。車が横を通り過ぎると、不快な熱風が二人を包んだ。
「蝉、うるさいね」
沈黙に耐えかねたように光冴が呟いた。青木は小さくため息を吐き訊ねる。
「樹東と柊沢が一緒にカラオケにいたってのが気に食わねぇんだろ?」
「…………………」
光冴は樹東とゆうの両方に嫉妬している。青木にはそう見えた。
「なぁ、思い切って女でも作ったらどうだ?ちょっとは気分転換にでもなるかもしれねぇぜ?」
「アオちゃんは?」
「オレはてめぇと違ってモテねんだよ!不細工だからな」
「そだね」
「ってそこはフォロ―するとこだ」
「エヘヘヘ」
「ふっハハ」
緊張の糸が解れる。
だが、光冴の笑い方は明らかに昔と変わっていた。昔はもっと可笑しさの中に恥じらいを滲ませるような笑い方をしていた。でも今は態とらしく、大げさに顔をくしゃくしゃにさせる。
何かを誤魔化すため。だからそれに気付いたものは少しだけ辛くなる。
「あのさ、なんだったらオレが柊沢に―――」
「いい」
告白の代行の申し出。きっぱり断られてしまう。気が置けないもの同士だからこそ出来ることと出来ないことがある。それを分かっていて青木は口に出した。
「そうか―――」
「いつも、ありがと」
光冴の謝意は蝉時雨に掻き消される。
この日の夜、光冴はゆうへの告白の代行を樹東に申し込んだことを青木は知らない。どうして彼がそんな行動に出たのかは誰にも分からない。
今となっては聞くことすら出来ない。
少しずつ、少しずつではあるが光冴の死は確実なものになっていった。じりじりと、見えない手に背中を押されるかのように―――。
「そうか―――」
青木は呟く。
「ん?なんか言ったか?」
「いや、なんでもない」
青木は取り繕うように友人たちに笑顔を向ける。
そう、先に感じた違和感は笑い方。あの笑顔を見たのは何年ぶりだっただろうか。
次の日の授業と授業の間にある十分休み。青木はクロスに近付き声を掛けた。それを目にしたゆうの頭に緊張が走る。光冴と一番親しかった青木には万が一にも気付かれてしまうかもしれないと。
「よう、光冴。体、大丈夫か?」
「うん。えっと、青木くん」
「なんだよ、いつもみたくアオちゃんって呼べよ」
「あっうん」
クラスメ―トの情報はゆうがクロスに集合写真などを見せざっと教えただけであった。故に普段の呼び名までに気が回らなかったのだ。
「そういえば小学校の頃とか覚えてるか?オレ、お前のこといじめてたよな」
「え〜……」
クロスは考え込むように目を上に向ける。光冴からインスト―ルされたメモリ―を手繰っていた。
「あっそうだった、そうだった。青木くんって太った子からいじめられてて あれ、痩せた?」
「光冴っ!?」
ゆうは思わず大声で名を叫んだ。それに驚きクロスは不思議そうに彼女の方を向く。その横で青木の体が小刻みに震えていた。
「別人だよ」
「えっ?」
「青木実……オレと同姓同名だった、デブ野郎……オレと光冴が連みだしたの、中学入ってからだったからな―――」
「それは―――」
「昨日思い出した。オレ、聞いたことがあったんだ。光冴の親父さんが光冴が小六のときに光冴の心をコピ―してロボット作ってるって話」
「っ!?」
取り繕うとしたゆうの口は、青木の確信を突く言葉によって塞がれる。
「光冴とそっくりなロボット作ってるって」
そう言い放って青木は弾けるように教室を飛び出していった。
「なぁ樹東―――sin25は?」
「0・4226」
休み時間に宿題をやっていた宮下に訊ねられ、樹東は教科書の三角関数表も見ずにさらりと答えた。
「サンキュ」
「ん」
「しかし、あれだな」
その光景を横から見ていたクラスメ―トが感心する。
「関数表、丸暗記してる高校生なんざ樹東だけじゃねぇの」
「まっそれでオレ助かってるけどな。いちいち調べなくてすむし」
と宮下。
「なぁ、もしかして円周率とかかなり言えたりする?」
「昔、光冴にせがまれ一万桁以上暗記させられたことがある」
「一万桁ってありえねぇ〜」
樹東の発言に周囲が明るくなる。
「でも、樹東って万能人間だけど嫌味じゃないからいいよな」
「言えてる。ブラコンなのもツボだし」
「ほっとけ」
樹東は怒ってるような照れているような、堅いけどどことなく微笑ましくなるそんな表情で答える。
「誉めてんだって。たまにだけどさ、樹東みたいな兄貴がいたらとか思うし、オレ」
「ホントホントっ!うちの糞兄なんか頭わりぃくせしていっちょまえに人のことこき使ってバリむかつくし。光冴見てると羨ましいとか―――」
「関樹東っ!?」
樹東を中心に展開されていた談笑。それを止めたのは、物凄い勢いで教室に入ってきた青木だった。
「貴様っ!」
青木は動揺して立ち止まる生徒たちを掻き分けるようにして進み、樹東に詰め寄る。
「光冴をっ―――光冴はどうしたっ!?」
「っ!!」
青木にがっしりと肩を捕まれた樹東は、真相に辿り着いた彼に魂を掌握されたように固まった。
「お前、行き成り現われて何分け分かんねぇこと言ってやがんだよっ!」
宮下は端から見れば言い掛りを付けているとも取れる青木の行動に憤慨し、彼を樹東から引き剥がすように突っ掛かっていく。
「光冴ならそこいるじゃねぇか!」
いつのまにか、ゆうとクロスは飛び出していった青木を追って樹東の教室にやってきていた。
「アレは光冴じゃねぇ!」
「っ!?」
「アレは光冴そっくりのロボットだろう!?」
青木の言葉に教室が騒めく。あるものは何を馬鹿げたことをと呆れ、あるものは何か面白いことになってきたと野次馬的好奇心を募らせる。
「青木、あんた―――」
「柊沢ってめぇも知ってたんだろ でなきゃオレが気付いて、てめぇが気付かねぇはずがねぇかんな!」
「それは―――」
青木の追及に絶句するゆう。
「関の親父っていえば息子どもほっとくほど忙しい科学者だってことくらい近所の人間なら誰だって知ってるっ!」
「………………………」
「そいつがシンラって奴の遺産使って人造人間作ってるって話も、そのモデルが光冴だってことも、知ってんだかんなっ!?」
青木は樹東やゆうが知らなかったようなことまでをも口にする。疑心に駆られた彼は昨日の夜、インタ―ネットを使って調べていたのだ。検索エンジンで〃関俊彦博士〃とキ―ワ―ド検索しただけで、その程度の情報なら簡単に得ることが出来た。
「この間まで、光冴の肌はこんなに白くなかった……光冴はもうあんな風に笑うことできなくなってた……」
「お兄ちゃん」
クロスはゆうの後ろで不安そうに呟く。
「光冴はもうっ!」
青木はクロスをビシっと指差す。
「てめぇのこと〃お兄ちゃん〃とは呼ばねんだよっ!」
「………………………」
この頃になると教室は静まり返っていた。青木の叫びだけが蒸し暑いはずの教室に乾いた風のように広がる。
「もう一度、訊く」
青木が自制心のあらん限りを尽くし、圧し殺した声で樹東に問う。
「光冴はどうした?」
「………………」
長い沈黙。
そして、
「あれは、光冴だ」
「このっ」
青木の放った拳が樹東の顔面に入る。その衝撃で樹東は椅子や机を巻き込みながら後方に吹っ飛んだ。教室が騒然となる中、青木は辛そうにクロスを一瞥してその場を去っていった。
「樹東―――鼻血……大丈夫かよ?」
樹東の鼻からボタボタと血が滴り落ちていた。白いカッタ―シャツに赤が広がる。
樹東は顔を上げクロスを見た。クロスは心配そうな表情で自分を見ている。
「あう、落ちにくいんだよ鼻血は」
内心、動揺していないわけはない。それでもクロスがいれば自分は自分を保つことが出来る。そう言聞かせるしかない。
「クレンザ―とかで、いけるかな」
樹東はクラスメ―トから提供されるティッシュを鼻に詰込みながら、出来るだけ普段どおりに振る舞おうと努めた。
調整のために俊彦のもとに訪れたクロシングオ―バ―。
「う〜む」
俊彦はクロスから青木との一件を耳にし唸り声を上げる。
「恐ろしや情報化社会。公開も機密もあったもんじゃないねぇ」
「そんなのんきに言ってる場合ですか!?」
俊彦の揶揄めいた言い草に、非難をぶつける助手の山本。
「実験が外部に漏れた以上、即刻中止するべきです」
「大丈夫だって。マスコミは会長のお力で押さえておけるし」
「ですが」
「それに明日から課外授業が終わって夏休みも本格突入だろ?」
「うん」
「今のところ順調だし、もう少し様子をみよう」
どことなく陽気な口調の俊彦。山本はそんな彼を複雑な面持ちで見ていた。
「よし。もう帰っていいぞ光冴」
「はい。えっと、お兄ちゃんには会わなくていいの?」
「えぁ?」
クロスの指摘に一瞬俊彦の目が泳ぐ。
「ああ―――その、忙しくてね。二、三週間もしたら仕事峠こすから。そしたらしばらくゆっくりできるようになるから。きみからよろしく言っといて」
「うん」
クロスは研究室を後にし、樹東が待っているロ―ビ―に向かう。
「お待たせ―――問題ないって」
「そうか」
樹東はいつもの仏頂面をほんの少し緩めながらクロスを迎える。その鼻にはでっかい脱脂綿がテ―ピングされていた。
「ん―――父さんは?」
何気ない体で訊ねる樹東。
「あっうん。忙しいからよろしく言っといてって」
「そう」
クロスの答えに樹東は文字通り固まった。まるでフリ―ズした画面のように、表情も体も微動だにさせず。
「どうしたの?お兄ちゃん」
「えっ?あっ、いやぼうっとしちまった。血出しすぎたかな?」
樹東はわざとらしく顔を歪ませて頭を掻いてみせる。
「う〜む。今日の夕飯はレバ―にでもするかな?」
「え〜!!」
それは光冴=クロスの嫌いな食べ物ワ―ストワンであった。
東京クィ―ンホテル―――その吹抜の豪華なロビ―を貴子は颯爽と歩いていく。その出立ちはいつものス―ツではなく、漆黒のイブニングドレスであった。背中が大きく空き陶磁器のように滑らかで真っ白い素肌を惜し気もなく顕にさせたそのドレス姿はとても様になっており、行き交う人々が思わず振り返ってしまうほどである。
貴子はボ―イにエスコ―トされ、VIP専用のエレベ―タ―に乗り込んで最上階の展望レストランを目指した。
「お待ちしておりました、松雪様」
レストランに到着すると、支配人と思われる老齢の紳士にうやうやしく迎えられる。
「お連れ様は既にお見えになられてございます」
彼の表情には緊張というよりいささか怯えの色が見え隠れしていた。
それもそのはずであった。
「久しぶりだな」
「ええ」
貴子の連れ。夜景のよく見える個室にとおされるとテ―ブルには車椅子に乗った男が荘厳と待ち構えていた。
詰め襟のス―ツ姿のこの男 彼こそ各世界の重鎮に居座るものどもさえ恐れを抱き、逆らえば死にすら値しない報いが待っていると語り継がれている魔王―――〃蝿の王〃―――鉄総司―――。
直視すれば両目を潰されるなどという尾鰭まで真剣に囁かれているその男を、貴子は曇りなき眼で見据えて挨拶する。
「お久しぶりです、兄さん」
シンラ研究所―――その屋上で俊彦は一人座って綾取りをしていた。
日はすっかり落ちていたが、満月や前に建っている病院の照明で手元を確認できる程度には十分だった。
「東京タワ―ですか?」
いつの間にか助手の山本が近付いてきていて俊彦に訊ねた。
「エッフェル塔だったりして」
茶化したように言う俊彦。山本は少しだけ苦笑して俊彦に訊ねる。
「博士は考え事があるといつもここに来て綾取りしてますね?」
「ん〜まぁ―――手先動かすと脳が刺激されるってことは実証されてることだから」
俊彦はタワ―を崩しほうきを作り始める。ほうきはやがて洋ばさみ、和ばさみに変わり最後に鳥になった。
「どうして樹東くんにあっていかなかったんですか?」
「――――――――――――-っ!!」
俊彦の手がピタリと止まる。
「それに忙しいっていったて、お家に帰る時間ぐらいならあるじゃないですか?」
「……………………」
「どうして―――」
「何が言いたい?」
手の中の鳥が小刻みに震えた。
「なんでキミにそんなこと聞かれなきゃならない?」
そして鳥は握り潰される。
「僕はただ―――なにか心に引っ掛かることがおありになるなら、何か相談に乗れないかと思って」
「相談に乗る?キミに相談なんかして何になるってんだ!?」
立ち上がり、力一杯怒鳴る俊彦。普段、温厚な彼からしてみれば最大級の怒りの発露に他ならない。
「僕より劣ってるくせにっ!」
「なっ!?」
「僕より優れた人間はジ―ンとシンラ博士しかいなかった!!その二人にもう僕の言葉が届くことはない。僕が頼れる人間はもうこの世にない!みんなクズばっかりだ!!クズにこの僕のなにが分かるってんだ!」
俊彦は一気に捲くしたて肩で息をする。
そして、
「ごっごめん」
我に返りそう呟くと俊彦は山本の前から逃げるように去っていった。
「なんて哀れな人だ」
人間は他人を見ることで自分を形づくっていく生き物だ。つまり人生の師はその瞳に写る全ての他人。
だが、俊彦の目は完全に閉じられている。そうであっても生きていけるだけの能力が彼には最初から備わっていたから。
「それでも心のカタチは―――」
いくら手先が器用でも、誰かに手解きを受けなければ―――或いは誰かの模倣をしなければ―――それはいずれこぐらかる糸の如く。
「父の葬式以来だから五年ぶりか」
「ええ」
鉄総司と松雪貴子の間にあるテ―ブルに高級そうな料理が並べられる。
両者はそれらに手を付けることなく互いの目を見つめ合っていた。
二人の表情に再開を喜び合う感情は出ていない。鉄総司は不躾に、松雪貴子は何かに耐えているかのように眉間に皺を寄せている。
「ふぅ―――こんな素敵な個室があるのだからわざわざ高価なレストランを貸し切りにしていただかなくてもよろしかったのに」
「ホテルが勝手にやったことだ。わしは知らん」
ひねくれた子供のようにつっけんどんに言い放つ鉄総司。
「わし、ですか……」
ほんの少し笑みを取り戻し、貴子は鉄総司に訊ねる。
「それシンラ先生の真似ですか?」
貴子は懐かしそうに目を細める。鉄総司は舌打ちをして外方を向いた。
個室の戸が叩かれ、タキシ―ドの若い男が断りを入れて入室してくる。首に銀色の皿を掛けているところを見るとソムリエらしい。
「お飲み物は何にいたしましょう?シャト―ブリアンでしたらボルド―の―――」
「お酒は結構です。込み入った話がありますから」
そう言ってから貴子はアレっと思う。
「あなた、どこかでお会いしませんでしたかね?」
その若きソムリエとどこかで会ったことがあるような気がするのに思い出すことが出来ない。優秀なジャ―ナリストである彼女は一度見覚えのある顔は決して忘れない自信があったが―――おかしな話である。
若きソムリエはにっこり笑って、
「ああ、それはですねぇ―――」
「下がれ」
答えようとしたところ、鉄総司の言葉に止められてしまう。結局、ソムリエは小さくお辞儀をして個室から出ていった。
「お前、話があったのではないのか?わしとて忙しい身だ。さっさとしたらどうだ」
「申し訳ありません。では、単刀直入に。兄さん、あなたはクロシングオ―バ―をどういうおつもりで開発なさってるのですか?」
言葉どおり貴子は前置きもなく核心に入った。
「あんなものが理に適っているなどと本気で思ってらっしゃるわけではないでしょう?あんなもの誰も望まない。寧ろフランケンシュタインコンプレックスの再現だと誰もが畏怖の念を抱くでしょう」
「……………………」
「先日の会見で関俊彦は彼の妻、ユ―ジ―ン=ア―ガイアに取り憑かれているだけだと分かりました。人造人間開発はもともとア―ガイア博士が企画立案でありその指揮権を握っていたもの。しかしそれが原因で彼女は植物状態に陥ってしまった。関博士はただそのことに翻弄されて大儀などなく研究を引き継いでいるだけ。それを誘導したのは兄さんでしょ?そして関光冴を亡きものにしたのも」
「……………………」
貴子は鉄総司の沈黙を肯定と取る。
「やはり、人造人間を暴走させることにその目的があるんですね?全てはその環境を作るための策略―――キザンの恐ろしさを世に知らしめるために」
「だとしたらなんだ?」
鉄総司は興味がなさそうに答える。
「牽制と刷り込み―――兄さんのやろうとしていることにまったく共感が持てないわけではありません。墓石行政などという言葉があるくらいです。世の中大事が起きないとそうそう問題を認識するのに困難な節があります。自発的に事件を引き起こし牽制や問題定義をする。それは近代における戦争のカタチそのものです。テロリストも大国も恐怖を以て人々を傅かせようとしてる。それを兄さんはキザンとこの国を使って再現しようとしているんでしょ?」
「ふん」
鉄総司は鼻を鳴らして貴子の話を聞き流した。
「でも、それは正しいことでしょうか?先生は前に私に言ってました。全ての人間は子供に憧れを抱かれるようになる努力をしなければならないって。これはつまり、人間を指針するものは恐怖や弾圧ではなく憧憬や希望だということです。恐怖で作り上げる理想に何の価値が―――」
「くだらん」
貴子の話を中断させるようにそう呟いてから、鉄総司は目の前の皿に乗っている分厚い牛ヒレ肉を不自由そうにナイフで切り分け口に運ぶ。
「―――兄さん……」
違う―――彼の真意はそこにはない?
「貴子、もうお遊びもそこらにしとけ」
鉄総司は諭すような口振りで言った。
「遊び?それは私の仕事のことですか?」
「そうだ」
「どういう意味です!?」
貴子は声を荒げる。
「私はこの仕事に―――真実を知ることに命を賭けています!それをあ―――」
「痴れ者がっ!?」
鉄総司は右手を突出しナイフを貴子の鼻先に向ける。貴子は思わず仰け反った。
「小娘の分際で命を賭けるなんぞと口にするのは百年早いっ!」
「うっ」
「貴様、よもやわしに生かされておると認識できてないほど馬鹿ではあるまい」
「承知しています」
貴子は辛酸を嘗める思いで顔を歪める。
「お前が首を突っ込もうとしている真実とやらが、どういう意味をもつものかも分かっとらんくせに―――」
「その通りです。私は何も分かっていないのかもしれない。でも、だからこそそれを知りたい。そのためにどんなことでもする。どんな危ない橋も渡る。そう決めたんです。自分の意志で、その道を歩んでいこうと―――」
「馬鹿が―――人は意志の力で進むことなど断じてできん。そう、人は水面に落ちた木の葉だ。自らが立てた波紋は淵に当たって跳ね返り、その身を揺らす。吹き荒ぶ風にあらぬ方へと流されるであろう」
「…………………………」
「人は意志の力で、波を乗り越え、風を捌いて流れていくのだ。それも理解してないお前に何が出来る!?」
貴子は項垂れる。
「それでも私は先生が何故死ななければならなかったのか―――それを知りたいんです」
「っ!?」
「あの優しかった兄さんが悪魔の名を冠するようになったように、私だって変わってしまったんです」
「…………………」
長い沈黙。
「もう、お前と話すことはない。立ち去るがいい」
「失礼します」
貴子は立ち上がり鉄総司に背を向ける。
そして鉄総司は彼女の背中に最後の言葉を告げる。
「貴子。これは脅しではない、警告だ。お前があくまでわしに逆らい我が道を行くというなら、残りの人生せいぜい背後に怯えて暮らすがいい」
「兄さんこそ―――たとえどんな大儀があろうと―――人の命を奪い、幸せになる権利を踏み躙ったその行為を―――先生が見ておられたなら決して許しはしないと心にとどめておいてください」
貴子はそう言い残しその場を後にした。
「……………………」
音を立てて閉まる扉。
鉄総司は苦渋に目を瞑った。
「先生―――」
その声は先程までとは打って変わって、とてもか弱い子供のようである。
「先生、僕はこれで―――」
「センセは答えてくれないよん」
突然横から声がした。鉄総司は慌てて目を開け視線を上げた。するとそこには先程のソムリエがニタニタしながら立っていた。
「だってセンセはもう死んじゃってるしね」
「貴様、音もなく近付くなといつも言っとろうが!?」
「しかたないじゃん。オレ、忍者だし。ニンニン」
ソムリエは巫山戯た様子で印を結ぶ。
「しかし、アレだな。似てなかったね彼女」
そのとたん、ソムリエの顔の皮膚がボコボコと膨れ上がっていく。
そして、
「オレたちにさ」
腫れが退くと共にその顔が別人へと変わっていた。
その顔は目の前にいる鉄総司をほんの少し若くしただけで、ほとんど瓜二つであった。
「首尾は?」
鉄総司が男に訊ねる。
「ダメ。警視庁にもぐってみたけど誰が光冴を殺ったか分からないかったよ。せめて〃香神〃が誰なのか突き止められればな」
態とらしく両腕を上げ首を横に振る。
「でも尻尾は突いておいたよ」
「だからアイツが来たのだろう。少しでもこちらの情報を探らせるために」
「ふむ―――牽制は用意した。恐らく奴らの動きは二・三日遅延する。その間にやれることだけはやってみるよ」
「コピペよ。計画通りにことを運べ。全ては〃アシハラ〃の力を封じ、〃進化の指針〃と〃リプルリバ―ス〃の動向を見極めるためだ」
「わかってるって―――センセの弔い合戦だからな」
ほんの一瞬だけ二人は同じ表情になる。
そこには並々ならぬ決意が滲み出ていた。
翌日。
「じゃあ、オレ買物行ってくるから。大人しく待ってるんだぞ」
「うん。いってらっしゃい」
夕食の買い出しに出掛ける樹東に、テレビに熱中していたクロスはぞんざいに手を振って応じる。
ちょっぴり寂しかった樹東は小さくため息を吐いて家を出た。
「いっけぇ!スサノ―ンっ!!そこだぁ」
クロスが見ていたのは夏休みの特番アニメの再放送である。ほぼ十二歳の脳であるクロスはすっかり填まり込んで、宙にパンチを繰り出したりしながら見ていた。
そのおり玄関のチャイムが鳴る。
「ちぇっいいとこなのに」
クロスは口を尖らせながら玄関を開けた。
「やぁ」
立っていたのは野球のユニホ―ムを来た男だった。
「あっ野球部エ―スの―――」
「そう。黒田だよ」
それは樹東をしつこく野球部に勧誘してくる黒田だった。
「お兄ちゃんなら買物だよ」
「いや、今日はキミに用があって来たんだ。ちょっといいか?」
「え〜とぉ―――」
クロスは後を向いて躊躇する。アニメが見たかったからだ。
「うん?なんだ、テレビ見てたのか?じゃあ終わるまで待ってるから上がらせてもらってもいいか?」
「それならいいよ」
クロスははにかむように笑って黒田をキッチンに案内する。そして彼に麦茶を出してから自分は再びテレビの虫になった。
「わぁお、カッコイイっ!」
「それ、おもしろいのか?」
「超おもしろいよ」
食卓の椅子で体操座りしながらアニメを食い入るように見ているクロスがあまりにも幼く可愛く見えて、思わず黒田はクスリと笑ってしまう。
「終わった。ありがと、待ってくれて。で?話ってなに?」
「ああ、ええっと―――」
「もしかして野球部の件?ボクさぁ野球やってみたいんだぁ。でも、お父さんがもうちょうっと待ってなさいって言うから、お父さんの許可が出たら入れてくんない?」
「ああそれはオレとしても嬉しいよ」
「ほんと?やたっ!」
クロスは文字通り両手を上げて喜ぶ。
「実はその件も含めて聞きたいことがあったんだ」
「なに?」
「キミ、人造人間ってほんと?」
「――――――――――――」
黒田の問いにクロスの顔が硬直する。
「昨日の騒ぎ聞いてたんだ。青木の奴がずいぶん怒ってたよな」
「っ!」
「人参、玉葱、じゃがいも―――後、肉はチン太屋だな。特売やってたから」
樹東が買物袋をぶら下げながら歩いていると、
「おいっ!」
「ん―――青木……」
声をかけられ振り向くと、そこに青木が立っていた。顔がやつれている。目は真っ赤に腫れ、枯れはてたという印象がある。
「何か用か?」
「用がなきゃてめぇになんか話かけるかよ。オレはてめぇが大嫌いだからな」
すごい言われようだった。しかし、樹東も負けじと言い返す。
「オレもお前が昔から嫌いだ。お前と連みだしてから光冴のがらが悪くなった」
「がらがわるなっただぁ?成長って言うんだよ、アレはっ!?そんなことも分からねぇくせに兄貴面すんじゃねぇよ」
「オレは光冴の兄貴だ。オレが守っ―――-」
「で、結局守れなかったじゃねぇか?」
思わず目を逸らす樹東。
「お前はそうやっていつも光冴を守る守る守る守るって言って光冴を追い詰めてたんじゃねぇかっ!?」
「っ!?」
樹東にとって寝耳に水だった。
だが、それは幼なじみのゆうなら知っていたこと。そして、それは青木も同じ。
「お前が光冴を苦しめてきたんだろうが?」
「……………………」
そんなはずはない。オレは光冴を守ってたんだ。
「今日も暑いな」
「………………」
クロスの黙秘。黒田は出された麦茶を啜ってそれを受け流す。
「しかし、アレだな。フランケンシュタインの創った怪物はさぞ醜かったらしいが……キミはとても可愛らしいな」
「…………………」
黒田は右手を出してクロスの頬にそっと触れた。
「凄く綺麗な肌だ。とても人造のものとは思えない」
パシっ
クロスは黒田のその右手を弾いた。
「ふっ」
黒田は右手を擦りながら立ち上がる。
「なにをそんなに恐がっているんだ?」
「……………………」
「お父さんやお兄さんにバレないように忠告されているからか?」
黒田はクロスの両肩をがっしり掴む。
「なぁ、怪物は醜かったからフランケンシュタインに捨てられたのかな?」
そしてぐぃっとクロスの体を押した。二人はガタガタと椅子と共に倒れこむ。黒田は仰向けに倒れたクロスに覆い被さり、再び右手をクロスの頬に当てた。
「違うだろ?役に立たなかったからだ」
黒田の左手がクロスのTシャツの裾から侵入していく。
「フランケンシュタインにとって被造物は美しくなければならなかった。醜いものを必要としなかった」
「くぅ」
「恐怖はそこに憑りついただけだ」
ジットリとした汗が体中から滲み出る。ヴゥンと首を振っている扇風機の音が妙に欝陶しく耳に纏わり付いて―――。
「キミのお父さんやお兄さんはキミに何を望んでいるんだろうね。なぁ、クロシングオ―バ―よ」
「あんた―――」
クロスは自分の肌を這っている黒田の左手を掴んで制した。
「あんた誰?」
その日、貴子は本当に久しぶりの休暇を取っていた。
「許せないわ、兄さん」
既に日も高いというのに貴子はク―ラ―の効いた部屋のベッドの中で真っ白いシ―ツと戯れていた。
「あんなに先生に愛されていたのに―――」
私だって本当は―――。
憎しみが募る。愛する人の意志を何一つ受け継いでいない兄に―――。
「もしもし―――」
携帯電話がなる。相手は高木だった。彼はひどく慌てた様子だった。
「なんですって?」
拘留中の広田議員が今朝、原因不明で突然死したとのニュ―ス。
「分かったわ―――ありがとう」
電話を切りアンテナを顎に当てて何かを考え込む貴子。そして、ハッとなる。
「そうかあのソムリエ―――あの時の警官」
一昨日、貴子の駐禁を見逃してくれた警官と昨日のソムリエ。顔こそまったく別人であったが―――。
あの黒目勝の目は兄さんの―――。
「アレは兄さんのクロ―ン……」
どういう理屈かは知らないが変幻自在。拘置所にすら侵入できるのか?
「ちっ―――」
広田議員が鉄総司と何らかの関わりがあったのであろうことは薄々感付いてはいたが、みすみす暗殺されるとは―――。
いや、寧ろその事実に気付かせてもらったことは幸運といえるかもしれない。
「人が殺されたっていうのに……私も兄さんのこといえないわね―――」
兄さん―――あくまであなたが、あの哀れな人造人間を利用するというなら私もそれに便乗させてもらいます。
そう、自分はハンタ―だ。真実という濃霧に包まれた獲物に標準を合わせている。
「こんなことしている暇はないわね」
貴子は忙しく携帯電話をプッシュする。
「もしもし、貴子です。少しご相談があるのですが―――」
霧が晴れていく。
後は引き金を引くだけだ。
「あんた誰?」
クロスの問い。今の今まで薄笑いを浮かべていた黒田から表情が消える。
「ボクの名前、知っている人は限られてる。さすがにこればかりはネット上にも漏れてないよ」
「くっくっくっ―――ははは、まいったなぁ」
黒田はそう言うと頭を抱えて立ち上がる。
「近すぎず遠すぎず、おまけに野球のコスプレができて嬉しい、いい人材に化けたのに」
黒田の顔がブクブクと膨れ上がっていく。
そして―――。
「鉄総司……」
その男の名はクロスのメモリ―の中に存在した。この国の経済を掌握し、数多の権力者さえ畏怖する悪魔〃蝿の王〃と。
「いや、オレの名はコピペだ」
「あんたはボクと同じ?」
コピペはにっこりと笑って首肯する。
「元がキザンで肉体強化と変化するためにインプラントを施してるという意味では同じだな。まっ言ってみれば兄みたいなもんだ。ただ、人格移植はしてないけど」
「何しに来たの?」
クロスは不機嫌に顔を顰める。
「おいおい、ご挨拶じゃないか。まぁいい、さっきの問いの答えを聞きにきたんだ」
「問い?」
「そっ俊彦と樹東がお前に何を求めてると思うか?」
「……………………」
クロスは目を伏せた。コピペは挑発的な語気をさらに強める。
「はっ!お前ももう気が付いているんだろ?俊彦はお前を必要としてない。ある実験の礎だよ、お前は。そして樹東は―――」
「お兄ちゃんはボクを必要だって言ってくれたもんっ!?」
クロスはコピペの言葉を遮り叫ぶ。
「違うね。光冴を見ているだけだ」
「ボクは光冴だっ!」
「本気で言っているのか?光冴のことをよく知っている人間が見れば、光冴とお前は全然似てないって言うだろうさ」
「っ!?」
『こいつは光冴じゃない』―――青木の言葉がクロスの脳裏に過る。
「樹東だっていつかお前に飽きるだろ。お前は代用するには似すぎている。でも、全く似ていない」
「…………………」
「いくら外見が美しくとも、役に立てない以上お前は怪物だよ。捨てられたら最後、お前は心の底から本当の怪物に成り下がるだろうさ」
「捨てられる?」
ボクが?お兄ちゃんに?そんなはずない。
「そんなはずない」
クロスは擦れた声を搾り出す。
「だったらお兄ちゃんに聞いて見ろよ?ボクと光冴、どっちが好きって」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
絶叫。そして光冴はへたり込む。
「せいぜい争えよ。運命に」
コピペはそう言い捨て去っていった。
あれは中学に入って最初にあったテストから数日過ぎた日だった。
小さい風が並木を揺らす。
「ん?」
帰宅途中だった青木の足元に丸まった紙屑が転んできた。青木は何気なくそれを手にし広げてみる。
テストの答案だった。国語の、しかも百点満点の―――。名前のところに関光冴とある。同じクラスの奴だ。そいつは別のクラスにそっくりな双子の兄がいるということもあってわりと学校では有名人である。
「あっ」
その当人がとぼとぼ歩いているのを見付けた。青木は声を掛け彼に近寄る。
「テスト落としてたぞ」
「………………」
光冴は青木の差し出したくしゃくしゃの答案に一瞥くれると困ったような嘆いているような表情をした。
青木は少し驚く。光冴とはそれほど仲が良いわけではないが、彼は見かけるたびに恥ずかしそうに幼さが残る笑みを浮かべている、そんな印象があった。
だけど目の前にいる彼はどこか大人びて見えて、それでいて―――。
「ああ、ありがとう」
光冴はいつものように微笑んで青木から答案を受け取る。青木は感じた。今、彼は頑張って笑っているのだと。
「どうかしたのか?」
青木の問いに再び光冴から笑みが消える。しまったと思った。泣きだすんじゃないかと思ったからだ。だが、光冴は予想とは逆にさっきよりも数段強く笑顔を作った。
「実はコレ捨てたんだ。そこのごみ箱に。風で飛んだね」
「捨てた?百点のテストを?」
青木の疑問に光冴は本当のことだと頷く。
「なんで?」
聞くべきではないのかもしれない。でも聞かずにはいられなかった。
光冴は少しの間逡巡していた。やがて意を決したように口を開く。
「意味ないから。百点とっても」
青木にはよく分からなかった。
「どういうこと?誉めてくれる奴がいないとか?」
「ううん、そんなことないよ。お兄ちゃんはきっと誉めてくれるから」
そうだろうと思った。兄の樹東が異常なほど弟思いなのも有名な話であった。
「じゃあなんで?」
光冴は目を伏せる。
「だってお兄ちゃんは全部満点だもん。百点以外とったことない人だもん。誉められても虚しくなるだけだもん」
青木は色んな意味で愕然とした。
百点以外取ったことのない人間がいるのかということ。誉めるということが人によって傷つけるということがあるということ。そして、目の前にいる同級生が屈辱の中に生きているということ。
「じゃあ」
光冴は踵を返し歩きだす。その背中がとても小さく見えた。彼は小柄なほうだけど、それでも目の錯覚のように小さい。胸が締め付けられるほどに。
青木は泣きそうな自分がいることに気が付いた。そして、彼をほっとけばきっと後悔するということにも。
「あのさ」
青木は努めて明るい声で彼を呼び止める。
「家に寄ってかねぇ?」
「えっ?」
振り返った光冴は何を問われているのか理解してないような、惚けた顔をしていた。
「あっおもしろいゲ―ムあるんだ。つきあえよ。な?」
光冴の瞳が一瞬下を向く。そしていつものように恥ずかしそうな、それでいて幸せそうな笑みで頷いた。
それから青木と光冴の付き合いが始まる。しばらくの間、光冴はいつも明るく振る舞っていた。でも半年くらい過ぎたくらいから、本当にたまにではあるが狂ったように泣きだすようになった。
『お兄ちゃんはお父さんに構ってもらえない復讐をボクにしてるだけなんだ』
『お兄ちゃんの優しさはボクを縛り付けてるだけなんだ』
『お兄ちゃんがいるからお父さんが帰ってこないんだ』
そのたびに青木は光冴を宥め賺し、遊びに連れ出したり、面白い話をしたりして光冴を元気付かせた。
『部屋を別々にしてもらえよ』
『そのお兄ちゃんってのやめたら?』
『嫌なことは嫌って言えよ』
アドバイスもした。
そして光冴は笑顔を取り戻す。
「ありがと、アオちゃん」
幸せな気がした。
そして、分からなくなる。礼を言いたいのはオレの方だよと。
樹東は耳を塞いだ。心を閉じた。
買物袋をバシャバシャ音立てながら走って帰った。
沈んでいたクロスの様子にも気付けず、その日はありあわせの食材で夕食を作った。
「光冴……お父さん……」
寝ながら泣いた。
「お兄ちゃん」
クロスはそれを横で見ていた。
つづく―――




