Ⅲ
―翌日―
「えぇっと……702、702……」
明彦は部屋のドアに付いているナンバープレートを目で追いながら通路を歩く。
708、707、706――と徐々に部屋番号が若くなっていき、当然ではあるが703号室の隣に昨日美華が指定した部屋があった。
因みに、この寮はマンションのような造りになっていて、十階建てである。
百の位は一階が0で十階が9。
更に、下二桁は実に00から99まであるという巨大ぶりである。
入り口は100m程度の区間で設置されており、横の移動は自転車等で行われる事が多い。
何故ここまで横長に造ったのか、恐らく立地の関係もあるのだろうが非常に不思議である。
この学校に七不思議が有ればその一つにカウントされるのは間違いない。
が、そんな話今の明彦には何の関係もない。
明彦は美華の部屋の前に着くと、携帯電話の画面ロックを解除して現在時刻を確認する。
――九時半。
少し早く着きすぎてしまったようだ。
明彦は時間を潰す為にドアの隣に凭れ掛かって教科書を黙読する。
暫くすると、ガサガサと擦れ会うビニール袋と誰かの足音が聴こえる。
ふと明彦は自分の姿を客観視する。
現在明彦は部屋のドアの横で美華を待っている。
当然疚しい気持ちや邪な気持ちなど微塵もない。
しかし、なにも知らない他人から見たらあまりに不自然ではないだろうか。
こんな姿を見られては有らぬ疑いを掛けられてしまうかもしれないと、明彦は手際よく教科書をリュックサックにしまって通行人を装おう。
が、
「えっ、あっ、ひっ、ひひひ広瀬……君?」
「えっ、あれっ、立花……先輩?」
なんと足音の主は美華だったのだ。
「なっ、ななななんで……ここに……?」
美華が怯えた様子で目を伏せ、チラチラと明彦を見ながら言う。
「すいません、ちょっと早く来すぎちゃいまして……」
「ごっ、ごごごごめんなさい!
わわ私、さっき起きたばっかりで……へっ部屋とか全然片付けてなくて……
その、もう少し……待ってもらう……かも……」
「いや、いいですよ。
俺も部屋とか汚い方なんで、全然気にしないですよ」
申し訳なさそうに言う美華を気遣って明彦が言う。
「そっ、そういう問題じゃないの!」
「えっ……!?
じゃぁ……なんですか?」
珍しく声を荒げる美華に、明彦が気圧された様子で尋ねる。
「そっ、その、洗濯物とか……まだ、干しっぱなし、だし……」
「なんだ、全然気にしませんよ」
最初はよっぽど重大な問題があるのかと思っていた明彦だったが、その内容を聞いて安堵の表情を浮かべる。
「ひっ、広瀬君が気にしなくても私が気にするの!」
「なんでですか?」
「だっ、だだだだって、パンツとか……下着が、その、丸見えなんだよ!?」
「あっ……」
漸く事の重大さに気づいた明彦が顔を真っ赤にさせる。
一方で美華も我に返ったのか、今の自分の発言を思い返して明彦以上に赤面する。
「ごっ、ごごごごめんなさいぃぃ!!」
殆んど涙声でそう言いながら美華が自分の部屋に駆け込む。
バタン――
そして、可憐な容姿からは想像もつかないような勢いでドアを閉める。
一瞬にして静寂に包まれた廊下で明彦が立ち尽くす。
(これは、あれだな……
ミスったな、男として……)
「はぁ……
謝る事が増えちゃったなぁ……」
暫しの間、明彦は自分の鈍感さを恨むのであった。
―数十分後―
計算したのか、はたまた偶然か、美 華は約束の十時きっかりにドアから顔を覗かせた。
「おっ、おおおお待たせ。
もう、いいよ」
未だに先程の余韻が残っているのか、美華の頬には僅かに赤らんでいた。
「あっ、はい」
明彦は読んでいた教科書を閉じ、部屋の中に入る。
家具や小物は全て清潔感のある淡い色で統一され、それらが几帳面に整えられている。
整然としたこの空間はまるで美術館のようであった。
一応部屋の中を見回すが、特に何も落ちてないし箪笥から何かがはみ出しているわかけでもない。
ちゃんと片付けてくれたのだと、明彦が安堵の溜め息をつく。
ふと美華の方を見ると、何故か泣きそうな目でこちらを見ていた。
「ひっ、ひひひ広瀬君、いっ今、探したよね!?
ぜっ、絶対探したよね!?」
「いやいやいやいやいや!!
確かに探しましたけど!!」
「やっぱり探してたんだ……」
瞳を涙で潤わせ、今にも襲われるのではないかと怯えた表情を浮かべる美華。
「やっ、疚しい気持ちはありませんでしたよ!?
ほら、途中でそんなの見つけちゃったら気まずいじゃないですか。
さっ、さあ勉強しましょう、勉強」
(ヤバい……もう既に気まずい……)
明彦はそう思いつつも、このままではいけないと慌てて勉強の準備を始める。
「うっ、うん……」
美華は多少戸惑った様子ではあったが、素直に頷いてテーブルの前に座る。
が、やはり気まずさは拭えず、二人はテーブルを挟んで座ったまま無言を貫いていた。
(どっ、どどどどうしよう……
私ったら緊張し過ぎて変な言動ばっかりして……
うぅぅ、謝るつもりで私の部屋で勉強してるのに……広瀬君絶対怒ってるよね……?)
美華は勉強をしているふりをして然り気無く上目遣いで明彦を見る。
明彦は黙々と勉強をしていた。
見方によれば怒っても見えるが、実際には違った。
(どうしよう……俺完全に変態だと思われてるよね?
完全にエロい事目的で先輩の部屋に侵入したと思われてるよね?
この気まずさ絶対今日だけで終わらないよな……)
明彦は勉強するふりをして然り気無く美華の方を見る。
美華は鬼か化け物でも見ているのではないかと思う程怯えた様子でこちらを見ていた。
(やっ、やっぱり怒ってる!?)
(やっぱり変態だと思われてる!?)
それから数十分間美華と明彦は一言も言葉を交わすどころか目も合わせずに悶々と勉学に励んだ。
当然問題など頭に入ってこない。
重苦しい沈黙が気まずさを加速させ、今や二人の間には窒息しそうな程の息苦しさがあった。
(こっ、このままじゃ駄目だ。
兎に角早急に謝罪をして軌道修正しないと……)
そう思い、明彦は思いきって口を開く。
「あっ、あのっ、先輩」
「あっ、ああああの、広瀬……君……」
美華も同じことを考えていたらしく、見事に二人の言葉が重なる。
「あっ、先輩、先どうぞ」
明彦は引き攣った笑顔を浮かべながら美華に手を差し出す。
「えっ!?
ひっ、ひひひ広瀬君からで、いいよ……」
「「…………」」
再び無言になる二人。
((きっ、気まずい……!))
(いやしかし、せっかくの会話のチャンスなんだ。
ここでいかなければ男が廃る!)
明彦はそう意気込むと、おもむろに土下座の体勢をとる。
「立花先輩、すいませんでした!」
「えっ、えっ!?
どっ、どどどどうしたの!?
その、きゅっ、急に土下座、なんて……」
明彦の突然の行動に困惑した表情を浮かべる美華。
「昨日電話で無茶苦茶な理由で強引に約束させた事、本当にすいませんでした!」
「そっ、そんな、いいって、私も、その悪かったんだし……」
深々と頭を下げる明彦を美華があたふたしながら宥める。
「あと、今日の事とか本当にすいませんでした!
俺、全然疚しい気持ちとかないんで、エロい事とか全然考えてないですから!
純粋に勉強を教えてほしくてここにいるつもりですから!」
「……え?」
予想だにしていなかった明彦の発言に、美華の目が点になる。
「……え?」
一方明彦も予想外の反応に、ゆっくりと下げていた顔を上げる。
「「…………」」
美華と明彦がお互いに顔を見合わせたまま暫く固まる。
「えと、俺の事変態だと思ってます……?」
明彦が恐る恐る尋ねる。
「えっ!?
なっ、ななななんで!?
私、また変な事した?」
美華がショックを受けた様子で驚いた声を上げると、申し訳なさそうに明彦を見る。
「いっ、いや、そういう訳じゃないんです。
違うんならべつに、いいんです……」
明彦は土下座の姿勢を崩すと、気恥ずかしそうに視線を逸らす。
「あの、えっと、ひっひひひ広瀬君は、その、おっ怒って……ない、の?」
「えっ、べつに怒ってないですけど……
俺、そんな態度悪かったですか?」
「うっ、ううん。
全然そんなことない、ごめん……」
「まぁでも「よかったぁ~」」
二人がほぼ同時に溜め息と共に安堵の言葉を漏らす。
「「プッ、アハハハハハ」」
それがなんだか可笑しくて、二人は思わず笑いを吹き出す。
「なんか、お互いに変な誤解してたみたいですね」
「そっ、そうだね」
明彦が目尻に溜まった笑い涙を拭いながら言うと、美華が僅かに笑いを混ぜながら答える。
「じゃあ、勉強、続けようか」
美華は一頻り笑うと、とても綺麗な笑顔を明彦に向ける。
「そうですね」
「なにか分からないところある?」
「あっここなんですけど――」
「じゃっ、じゃあ、また……」
部屋の玄関で美華が微笑みながら言う。
「はい、ありがとうございました」
それに合わせて明彦も微笑みを浮かべて礼を言う。
あれから勉強はとてつもなく捗った。
数式の公式や化学式も大体覚えたし、古文や英語の文法や訳も分かるようになった。
が、明彦はなにかが引っ掛かっていた。
(なんか忘れてるような……)
明彦はそれがなんなのか考えながら美華に背を向け、玄関から出ようとする。
(あ、人見知りの事訊いてない……!!)
通路に出て数歩歩いたところで思い出した明彦は、慌てて振り返り美華が今まさに閉めようとしているドアに手をかける。
が、
「ぃっつぅ~!!」
明彦の指はタイミング悪くドアに挟まれてしまう。
「えっ!?
だっ、だだだ大丈夫!?」
美華が慌ててドアを開き、痛みのあまりしゃがみこむ明彦に駆け寄る。
「ああ、はい……大丈夫です」
幸い大事には至らなかったようで、明彦は痛そうに手を振りながら立ち上がる。
「もっ、もう、なんであんなことしたの!
ダメでしょ!?」
子供を叱るような口調で言う美華。
申し訳ないが、その様子は大変可愛らしかった。
「すいません。
どうしても言いたいことがありまして……」
「言いたいこと?
何?」
美華が不思議そうに首を傾げる。
「あの、明日も立花先輩の部屋で勉強させてもらっていいですか?」
「えっ、えっ!?」
美華は慌てた様子であたふたと視線を泳がせる。
「…………えと……うん……いいよ」
そして、落ち着いたのか視線を落として暫く考えるような間を取った後、上目使いで明彦を見ながら答える。
「ありがとうございます。
じゃあ、明日も今日と同じぐらいの時間に来ますんで」
「うっ、うん……待ってる……」
「また明日」
「うん、また明日……」
明彦が言うと、美華が軽く手を振りながら返す。
明彦はそれを見ると、軽く会釈をしてその場を去る。
美華は明彦の背中が見えなくなるまで見届けると、ゆっくりの部屋の中に戻る。
パタン――
「はぁ~緊張したぁ~……」
ドアを閉め、そこに凭れながら美華が疲労の籠った溜め息をつく。
(でっ、でもでも、後半は結構ちゃんと話せたし……
うん、私頑張った!
成長した、うん!)
美華は胸の辺りでグッと拳を握り、何度か頷く。
(この調子で明日も!
……明日も。
明日も……?)
輝いていた美華の表情が一変して暗くなる。
(……なんで私、明日もいいなんて言っちゃったんだろ……)
流れに任せて言ってしまった言葉を今更になって後悔する美華は、どんよりとした表情でがっくりと項垂れるのであった。