Ⅱ
時は流れ、世間はゴールデンウィークで行楽ムード真っ盛りである。
一方明彦はというと、
「その式は因数分解をして……」
「こうですか?」
「えっと、そこは教科書の36ページを……」
自室で勉強に励んでいた。
「あの、立花先輩?」
「なに?」
「やっぱり電話じゃ分かんないんで、どっかに集まりません?」
しかも室内には明彦一人である。
美華がやっぱり直接教えるのは無理、との事なのでこんな状態になっているのだが――
口頭で「因数分解が――」や「その公式を――」などと言われてもさっぱり分からない。
実際問題、明彦は計算問題を殆んど解けずに三十分近くを経過させていた。
「そっ、そそそそんな、無理無理無理!!
だっ、だって二人で勉強って… …近づくじゃない!
心も体も!」
「先輩、落ち着いて下さい。
訳が分かりませんよ……」
「でっ、でも……漫画とかでよくあるイベントだし……」
「あれはなんやかんやいってファンタジーですから!
実際には起こり得ませんから!」
明彦が呆れ気味に口調を強くする。
とにもかくにも電話では説得のしようがない。
まぁ何を説得するのかは明彦自信分からないが、それでも電話よりは直接話した方がいいのは分かる。
更にそれは勉強もに当てはまる。
さすがに自分の進学が掛かっているとなれば明彦も必死である。
「うぅ……でも……」
煮え切らない美華に、明彦は聞こえないように携帯電話を離して溜め息をつく。
「じゃあこれでどうですか――」
―数十分後―
「なんでこうなったのよ……」
校内の図書館で明彦の隣に座った雪菜が不機嫌そうに言う。
「すまん。
立花先輩が二人っきりはどうしても嫌だって言うから……」
明彦は向かいに座る美華に聞こえないように声を潜めて謝罪と状況説明をする。
「図書館で一緒に勉強しようって言うから来てみれば……
女子高生二人を手込めにしていったい何をするつもりなの?」
「おい、その言い方は止めろ」
「違うの?」
「違うわ」
明彦がそう言うと、雪菜はやれやれと言った様子で自分の勉強に取り掛かる。
「はぁ……」
明彦も疲労感の籠った溜め息をついて勉強に取り掛かる。
「冬野さん、大丈夫?
分からない所があったら言ってね」
「えっ……?
ああ、はい」
突然そう言われ、雪菜が驚いた様子で答える。
「あのっ、先輩。
ここの問題なんですけど……」
美華は顔とかが近付くのが嫌らしいので、明彦はノートの向きを変えて美華の方へ差し出し、教科書を立てて問題を指差す。
「あっ、ここはね――」
美華は赤いペンでノートに書き込み、解き方を説明する。
その様子を雪菜がいつもよりもジトッとした目で見つめる。
「いやぁ~捗ったな」
図書館で美華と別れ、雪菜と明彦が寮へ向かう。
「勉強はね」
伸びをしながら言う明彦に、雪菜がぼそりと呟く。
「どうゆう意味だよ」
意味深気な台詞を言う雪菜に明彦がジトッとした目線を送る。
「広瀬君は先輩の人見知りを直したいんじゃないの?」
「いや、直したいって言うか、頼まれたって言うか……」
「だったら私とじゃなくて先輩と帰った方がいいんじゃないの?」
「うっ……確かに……」
雪菜の的確な意見に明彦が苦い顔を浮かべる。
「はぁ……人に頼る前に少しは自分で考えたらどう?」
そんな明彦の様子を見て、雪菜が呆れたように溜め息をつく。
「だって実質神崎を部屋から出せたのは冬野のおかげだしさ……
前、お前が言った見たいに俺は平々凡々に、平和に生きてきたから、傷付いた人の心なんて分からない。
でも、冬野はそれが多分分かる。
まぁその原因なんて知らないし、詮索しようとも思わないけどさ。
兎に角、俺にはお前のアドバイスが必要なんだよ」
真面目な顔でそんな長台詞をいい終えると、雪菜は唖然とした表情を浮かべていた。
「なにそれ、新手の口説き文句?」
「お前の脳味噌はお花畑か?
んな訳ねぇだろ」
開口一番にふざけた事を言う雪菜に、明彦は苛立ちを孕んだ言葉をぶつける。
「中間テスト赤点必至の広瀬君には言われたくない。
なんなら今から私の事先輩って呼ぶ?」
「勝手に留年させんな。
いざとなれば土下座してでも進学してやるわ」
「そんな事するよりもっと勉強頑張りなよ……」
力強く言う明彦に、雪菜が呆れた様子で言う。
「だから今頑張ってるだろ?
土下座は最悪の場合だよ」
「そういう時って大体そうなるよね」
「おいおい、怖い事言うなよ……これでも結構不安で押し潰されそうなんだぞ?」
サラッと恐ろしい事を言う雪菜に、明彦は顔を青くさせて言う。
「ふぅん」
雪菜は心配しているのか、相槌を打ちながら数秒間明彦を見つめる。
しかし、相変わらず無表情なのでその真意は分からない。
「じゃぁそうね……
自分で考えてどうしても分からなかったら連絡して。
機嫌が良かったらアドバイスでもなんでもしてあげる」
そして、そう言い残すと雪菜は足早に寮の玄関へと消えていった。
どうやら話している間にいつのまにか寮に着いてしまったらしい。
「機嫌が良かったらって……
なんじゃそりゃ」
明彦はそう呟きながら笑みを漏らすと、寮の中へと歩みを進める。
が、その途中であることに気づく。
何故雪菜は美華の件について知っていたのか、と。
「やっぱりあいつ知ってんじゃねぇか……」
明彦の疲労と怒りが入り交じった呟きが茜色の空に吸い込まれる。
―翌日―
「ねぇ、これが自分で考えた結果なの?」
昨日と同じく校内の図書館で明彦の隣に座った雪菜が不機嫌そうに尋ねる。
「いやいや、これは別バラだろ。
ってか昨日と同じシチュエーションなんだから気づけよ」
明彦もやはり昨日と同じく声を潜めて言う。
「じゃあ帰る」
「まてまて、悪かったって!
ぶっちゃけお前がいないと俺の勉強が進まないんだよ!」
おもむろに席を立とうとする雪菜を明彦が慌てて静止する。
必死さが伝わったのか、無事に雪菜が席につき、明彦が安堵の溜め息をつく。
そしてこれまた昨日と同じく勉強会が始まるのだが――
今日は何故か美華の様子がおかしい。
「あの、先輩……」
「ごっ、ごごごごめんね、ちょっと、今、解きかけの問題があるから……
冬野さんに、訊いて?
終わったらまた教えてあげるから」
「先輩、これなんですけど」
「それはきっと教科書の最後の方に解説が載ってるから……」
「先輩――」
「ふっ、ふふふ冬野さんは、どっ、どう?
分からない所とか、ない?」
と言った具合に真本に取り合ってくれない。
明彦がどうしたものかと考えているうちに勉強会は終了。
各々解散することになった。
「あのっ、立花先輩!」
明彦が雪菜のアドバイスを元に勇んで美華を呼び止める。
「……?」
美華が不思議そうな表情で顔を明彦に向ける。
「寮までちょっと話して行きませんか?」
「えっ、ええと……
ごっ、ごごごごめん。
あの、わっ、私本屋さんに、その……用事が……」
美華はそう言うと、明彦の返事も聞かずに逃げるように図書館から出ていってしまった。
「どうしちゃったんだろうな……先輩」
結局今日も雪菜と共に帰る事になった明彦。
美華の態度の理由が分からずに、明彦は頭を抱えていた。
「私、やっぱり明日からもう来ない」
「え゛っ、ちょっ何でそうなるんだよ!?」
雪菜の突然の呟きに、明彦が驚いた様子で言う。
「ってか言っただろ、お前がいないと俺の勉強が――」
「実際、今日の勉強は進んだの?」
続く明彦の言葉を遮って雪菜が問いつめる。
「いや、それは……」
一応進めてはいたものの、昨日と比べたらそれは雲泥の差であったため、明彦は答えを濁らせる。
「でしょ?
それに、私が居ると先輩の逃げ道になっちゃうから」
「逃げ道?」
「そう。
多分だけど先輩は広瀬君の思惑をうっすらと感じ取ってる。
先輩、勘が良さそうだから」
「むう……そう言われたらそうかもな……」
「だから、私はいない方がいい。
後は広瀬君しだい」
「……分かったよ。
冬野がそう言うならそうする」
明彦は納得したようであったが、まだ諦めきれない様子で応える。
「大丈夫、そんな心配そうな表情しないで。
広瀬君は神崎さんを助けたんだから、自信もって」
「だから何回も言ってるだろ?
それは冬野のおかげだよ。
俺の力じゃない、俺はお前がいないと――」
「そんなことない。
私はヒントをあげただけ、最終的に行動したのは広瀬君。
自信持って」
「なにもできない」そう言おうとした明彦の言葉を塗り潰すように雪菜が言う。
その時一瞬、本当に一瞬だけ雪菜が微笑んだような気がした。
が、明彦が瞬きをすると、いつもの無愛想な表情の雪菜に戻っていた。
「お前、今笑ってなかったか?」
「はぁ?
なに言ってんの?
ついに目まで悪くなった?」
思わず尋ねた明彦に雪菜が辛辣な言葉を並べる。
「おっかしいな……」
「いい?
私が笑うなんて天地がひっくり返ってもあり得ないから!
もしも私が笑って見えたのならそれは幻影。
もしくは眼球が未知の細菌に侵されてるだけ。
分かった!?」
「おっ、おう……
なんか、ごめん……」
捲し立てるような雪菜の言葉に気圧された様子で明彦が訳も分からず謝る。
「ところで思ったんだけどさ」
「なに?」
明彦が気を取り直して話題を本筋に戻そうとすると、雪菜が不機嫌そうに応える。
「もしも立花先輩が俺の思惑を感じ取った上で俺の事避けんならさ、これ以上踏み込まない方がいいんじゃねぇの?」
「なんで?」
「だって先輩は一応自分の意思でニコ研入ってる訳だし、変わりたいって気持ちも人一倍強いと思うんだ。
でもそれはあくまで先輩自身がする事だ。
俺らの自分勝手な優しさでそれを急かせちゃ可哀想だろ。
下手したらそのせいで先輩に変なプレッシャーが掛かっちゃうかもしれない。
ってか現にそれを感じてるから先輩は俺を避けてるんだと思う」
「ふぅん。
広瀬君にしてはいい見解ね。
でも残念ながら私には何とも言えない。
それこそ立花先輩自身の問題。
成り行きでどうにかするしかないよ」
「そうだよなぁ……」
明彦が疲労感たっぷりの溜め息と共に言葉を漏らす。
「じゃあ、私はこれで」
「ああ、じゃあな」
寮の入り口が見え、雪菜は明彦と挨拶を交わした後に一足先にその中へ入っていく。
明彦も少し遅れて寮の中へ入る。
雪菜の姿はもうなかった。
「あいつどんだけ部屋戻んのはえぇんだよ……」
呆れと驚きが混ざったような声音で呟くと、明彦は自室へと向かった。
部屋のドアを開け、リュックサックを投げ捨てるように置くと、明彦が盛大に溜め息をついてベッドに寝転がる。
状況を確認しよう。
まず、美華は明彦――もとい薫の思惑をうっすらと感じ取っており、明彦と距離を取っている。
少なくとも雪菜の予想だとそうなっている。
これは恐らくこれ以上自分の事に介入するなという美華なりの警告なのだろう。
だとするとこれ以上の展開は望めないかもしれない。
下手に踏み込むと、神崎の時のように心を抉るような失言をしてしまうかもしれないからだ。
加えて雪菜の力を借りれないときたので状況は悪化の一途を辿っている。
「これ、詰んでないか?」
明彦が絶望に近い表情を浮かべながら呟く。
(取り敢えず神崎の時みたいに経緯ぐらい分かればな……
それで元からだったら終わりだけど)
そう思いながら明彦はポケットから携帯電話を取り出す。
電話帳を開き、美華の項目をタップする。
携帯電話のディスプレイに美華のメールアドレスと電話番号が表示される。
明彦は電話番号をタップしようととたが、躊躇って指を空中で泳がせる。
はたしてここでその経緯を訊いて本当に素直に話してくれるだろうか。
そもそもそれを訊いてしまったらこちらの思惑をばらすようなものだ。
明彦は美華の項目を閉じ、今度は雪菜の項目を開く。
(さて、どうしようか……)
一応考えはしたが、助けを仰ぐにはまだ早くないだろうか。
(でも今日あいつ機嫌良さそうだったしな……なんか優しかったし)
明彦は「よし」と決意して雪菜宛に新規メールを作成しようとする。
ヴヴヴ――
その時、突然自分の携帯電話が唸りをあげる。
「ぬおっ!!」
それに驚いた明彦の手の中で携帯電話が跳ねる。
明彦はそれをなんとか掴み取ると、軽く溜め息をついてディスプレイを見る。
美華からの電話であった。
予想だにしなかった美華からの電話に明彦は焦る。
出るべきか、否か。
咄嗟に二つの選択肢が頭を過る。
向こうから電話をかけるということは何か話したいことがあるからだ。
ならば、こちらの話はどうであれ電話に出るのが道理だろう。
明彦は脳内で即座にそう結論づける。
「もし、もし……?」
少しぎこちなく明彦が言う。
「…………」
「もしもし?」
前と同じ展開に安心したのか、今度ははっきりとした口調で言う。
「あっ、ああああの、広瀬……君?」
「そうですよ」
なんとなくおびえた様子の美華に、なるべく優しい声で明彦が答える。
「ひうぅぅ……やっぱり、怒ってる?」
「なんでそうなるんですか……」
何故か泣きそうな声の美華に、明彦が呆れ気味に言う。
「だっ、だって……私、今日態度悪かったから……」
「べつに気なしてないし怒ってないですよ。
それで、なんのようですか?」
「あっ、あの……その事で……謝りたくて……
ごめんね、そっ、その、明日からは、ちゃんと教えるから……」
「べつにいいですって」
そう言おうとしたが、明彦は口を閉じた。
これは一発逆転、千載一遇のチャンスではないだろうか。
そう考えたのだ。
「先輩、明日からはちゃんと教えてくれるんですよね」
「えっ……?
うっ、うん……そうだけど……」
明彦のただならぬ気迫を察知したのか、美華が戸惑った様子で言う。
「じゃあ、明日は先輩の部屋で勉強しましょう!」
「ええっ!?」
突然な明彦の提案に美華が驚愕の声を上げる。
「しかも冬野はもう来ないので二人 っきりです!」
「ええっ!?
そっ、そんな、ダメだよ……」
「なにがダメなんですか?」
「そっ、その、えっ、エッチなのはダメだよ!」
「先輩、話を飛躍させ過ぎです!
俺は勉強を教えてほしいだけですから!」
暴走気味の美華を落ち着かせようと明彦がツッコミを入れる。
「でっ、でも……」
「先輩、俺は今日結構傷ついたんですよ?
勉強もあまり進みませんでした」
多少強引だが、美華が押しに弱い事は薫との会話で実証済みなので、明彦は更にプッシュしていく。
「うぅぅ……やっぱり怒ってる……?」
「そりゃ完全に怒ってないと言えば嘘になりますね」
「でも、さっき怒ってないって……」
「それは先輩の対応次第です。
要求を呑んでくれますか?」
「はぅぅ……わかったよ……
私も悪かったって思ってるし……」
美華は諦めたようにそう言うと、溜め息をついて続ける。
「明日、十時ぐらいに702号室に来て……」
「はい、よろしくお願いいたします」
明彦がそう返した数秒後に美華との通話が途絶える。
(なんだこの罪悪感……)
いくら目的の為とはいえ、相当無茶苦茶な事を言った挙げ句自分の要求をごり押しするという諸行はやり過ぎた気がしてならない。
顔から離し、薄暗くなった携帯電話の液晶画面を見ながら明彦は罪悪感に押し潰されそうになっていた。
(……明日、ちゃんと謝ろ)
「すいません、先輩……」
明彦はそう謝ると、充電器を携帯電話に接続して明日の準備を整える。