存在
「存在を感じる。これって凄いことだよ。」
酒を飲むと僕の上司は唐突によく分からないことを言い出す。新卒で入社して二年この人の下で働いているが、会社の中では美人な方でスタイルもいいのに、皆がさりげなくこの人との飲みを避けているのは、こういった理由があるからだ。結婚して六年、四歳の子供がいて、二十八歳の頃に結婚したと言っていたから、三十四、五歳になるのか。正面から見ると透き通るような肌で、だいぶ若々しくみえるな。
『ええと、どういう意味でしょうか。』
「君って謝らないよね。」
えぇ~。
「君の働き方を見ているとよく分かるけど、何か物事が上手くいかないときに、君ってやり方とか、知識とかそういう質問ばかりするよね。でも、そんな小手先の小さな問題ではなくて、根本的には君の能動性と受動性の問題だと思うの。つまり君は受け身ってこと。自分から何か主体的に働きかけて自分で決断することが大事なんだよね。」
『…すいません。』
「うん。受け身であることが悪いと一律否定することはできないけど、君の場合は受け身であることが、自分以外の何かに責任を押し付ける原因になっているんじゃないかな。そして、それは謝らないことに繋がる。例えば君が入社して日が浅い頃に、私は、上司は友達じゃないから気を付けてね、と言ったのに対し、君は、尊敬する友人にはなれるのではないでしょうか、なんて生意気にも返してきたね。私はそういう関係性も有りか、と思って君とは友人のように食事に行ったり、飲みに行ったり、遊びに行ったんだけどね。いつだか君を厳しく叱った時に、君は、やっぱり友人のようにはなれないんですね、って言ったの。それも、見えない括弧で(あなたが言ったように)という雰囲気を出しながらね。」
うぅ、マズい流れだ。飲むといつも説教になるなぁ…。
「でも、それって君がそうしたことだよね。私はそのつもりでいたのに、そのつもりにさせた君が、私が言った、と言う。どこに問題を帰結させるかが課題なんだけど、大抵のことを他の物事や人のせいにする。だから上手くいかない。」
普段は無口なクールビューティーなのに酒が進むと人が変わったように流暢に話しだす。僕が入社した当時から、私はモテない、と呟いていたので謙遜だと考えていたけど、完全に原因が特定できた。
「さらに言うと、そうすることで仕事がうまくいかないだけではなく、周りの人を知らず知らずの内に傷つけることになるんだよ。自分ではそう思っていないだろうけど。何故かと言うと、自分で決断しなかったり、誰かが言ったことだけを基にして行動すると、周りの人が決断しなきゃいけないし、その責任を全て背負わせることになる。要するに、君は責任を負うことを避けている、ないし、最終的に自分が傷つくことから逃げている。判断しない、考えない、できないかもしれないことはやらない、言わない。それじゃあいつまでも前に進まないよ。周りの人が十字架を背負っていることに気付いてる? 私も重いものを背負っているんだけどなぁ。」
『…いえ、すいません、自覚してませんでした。』
「まぁ、染みついているものは中々直せないけどね。君の行動規範はなんだろうね。」
『行動規範…ですか。』
「行動心理学的にはルール化と習慣化、その好子による強化随伴性。哲学的にはイデアかな。」
この人は頭もいいからなぁ。言葉が分からないこともよくある。
「つまり何を基準に判断し、行動しているか、ということ。言葉だけ聞けばシンプルかもしれないけど、今言っているのはもっと感覚的なことね。例えば子供がいる人は簡単に浮気をしないけど、もし浮気相手がものすごく好きな人だったとすると、感情的にはそうしたいと思うよね。理性も社会性もあるから、そういう行動をしないだけであって、その人の行動規範はその好きな人である、ということ。愛する子供ではなくね。これって凄いことだよ。」
なるほど。
「そして、その行動規範は満たされなければ、さらに強くなる。その物事から離れているから辛くなり、辛くなるからさらに強化される。だから、それに対処するために自分の行動規範を把握することが大事なの。君の行動規範は何?」
『ええと、何か美味しいものを食べたい、とかでしょうか。』
「…。その大トロ食べていいよ。私は、大抵の人の行動規範は自然と満たされるものだと思うの。でも、満たすことができない人もいる。不幸なのは、どんなに頑張っても逆の方向に進むこと。行動規範に基づいて行動しているのに、それにたどり着くことは無く、どんどん間違った方向に進むこと。どうすればいいかも分からず、起こした行動は全部裏目に出る。しかも一般的には正しいことをしているのに。もう自分の生き方や考え方そのものが原因になっているんだとしたら、絶望的だよね。なぜなら、それを変えてしまったら、アイデンティティを喪失することにもつながる、端的に言うと自分じゃなくなるってこと。自分の求めることが、自分である以上、絶対にできないなんてね。」
この人の行動規範は仕事かなぁ。
『会社を大きくすることが行動規範、ですかね。』
「私? 違うよ。そんな大義名分は行動規範にならないよ。もっと感覚的で、感情的で、幼稚なことだよ。さっきの話でいうと、旦那や子供を差し置いて、一番ってことになる。理性が無ければとんでもない判断をするんだろうね。」
主語がよく分からなくなってきた。うわ~、もう八杯目か。僕も眠くなってきたなぁ。
「大抵の人がとてもシンプルなことで、簡単なことで、理解しやすいことだと思う。多分に漏れずそうなんだろうね。特別であったり、大事であったり、大切であったり、そういう存在でありたかった。」
うん、何となく分かるような、分からないような。一気に酔いが回ってきた。
「どうすればいいんだろう、どう考えればいいんだろう、考えなければいいのだろうか、でも、それはできるのだろうか。堂々巡りと雲散霧消。皆、いろいろ考えているんだろうなぁ。でも上手くいかない。きっと、私だけが上手くできない。ずっと一緒に働いている君に好かれることはなかった。」
いやいや、そんなことは…。
「唯一、いや……。」
耳が遠のいていく。意識が薄れていく。
「私の中に、君の存在を感じる。これって凄いことだよ。」
「…ちょっと聞いてる?」
「後で今日の話も反芻してごらん。」
「伝わるか分からないけど。」
「…寝てるな。…いいけど。」
「要するにね………………
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翌週、会社に行くと、あの人は会社を辞めていた。事前に会社には伝えていたらしく、粛々と引き継ぎが行われ、僕には新しい上司がついた。あの人の連絡先は変わっていて、その後、会うことは無かった。
何年か経って、あの人が言っていた言葉一つ一つの意味がようやく分かり始めた。最後の夜に教えてもらったこと、それが特に糧となった。今でも、一言一句、しっかり覚えている。
もちろん、最後の言葉も。
「要するにね、君が好きだってことだよ。」
長くて分かりにくい告白。
今ではしっかりと理解できます。
僕にとってあなたは特別でした。
大事でした。
大切でした。
僕の行動規範はあなたでした。
でも、伝える前にあなたはいなくなってしまいました。
『僕の中に、あなたの存在を感じます。これって凄いことですね。』




