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マスクの下

 私は比較的体が弱い。


 この季節になるとインフルエンザが流行りだし、世間は感染注意を呼びかける。私は、その凶悪な菌の恰好の的となるため、家から出るときは必ずマスクをする。


 一番危険な電車の中では極力息をしないように心掛け、会社についたらまず、うがい、手洗いをする。近くの部署ではマスク着用を強く呼びかけ、ほぼ全員がマスクをしている。ほぼ、全員。たった一人だけ、彼はマスクをつけない。


 彼は部長に言わせれば十年に一人いるかいないか、くらいの優秀な若手で、この会社の中では一番若いリーダーとして注目を浴びている。近々マネージェーに昇格する噂もちらほら。冷静沈着で鋭い眼光。もう少し笑ってもいいんじゃないか、と思うこともあるが、そんな彼だからこそ、インフルエンザの菌も近寄らないだろう、と妙に納得する。


 ある日、重要な取引先との提携案件がスタートするということで、私にプロジェクトに入って欲しいと声がかかった。そんな責任の重い仕事はできない…と部長にお断りの相談をした。すると「彼がリーダーだから、分からないことはどんどん聞きなさい。」と言われたため、渋々承諾した。彼がいれば、たぶん大丈夫だろう。


 プロジェクトがスタートしてすぐに、メンバーで親交を深めるための飲み会が開催された。そんなに知らない仲でもなかろう、と思っていたが、飲んだら彼がどうなるのか、気になってもいた。


 メンバー同士で軽い自己紹介をして、さぁ、リーダーから一言! と幹事が高らかに声をあげると

「いえ、大丈夫です。細かいことは後程。」

 と拍子抜けするほどクールに挨拶を断った。私を含め、皆苦笑いしながら飲み会は始まった。


 女性メンバーの多いプロジェクトチームなので、酔いが回ってくると当然の如く恋愛トークに花が咲く。彼氏の性癖がどうだとか、社内での不倫の噂だとか、結構えぐい話が出る。私はそういった話は苦手なので、その話題に入らないよう、そっちを向かずに隣の人と話していたが、

「リーダーって恋愛してるの?」

 と、彼に恋愛の話題が向いたため、顔を向けず、別の会話をしたまま、耳の神経に「聞け」と命令した。

『あぁ、人並みに恋愛はしますよ。』

「え~! 見えない! 告白とかしなさそう! 」

『いえ、普通にすると思います。』

 周りの女性社員がキャーキャー言いながら話を掘り下げていく。私も耳の神経を最大限するどくして聞く。女性社員のテンションから、彼は結構女性から人気があることも分かる。話に入りたいけど、入れない。…これは、嫉妬かもしれない。

「ねぇねぇ、どういう人が好きなの?」

『それは外見についてですか。内面のことですか。』

「キャハハ、どっちでもいいよ!」

『…背は、小さいほうが好きかもしれません。性格はおとなしい人がいいですね。』

「じゃあ、ミツコはNGだね!」

「ギャー! 」

 ドッと沸き起こる笑いの中、私は考える。背は彼より小さいな。おとなしい? 方かもしれない。ミツコ、凹んでないでもっと聞け。

「ねぇねぇ、リーダーって、Sっぽくない?」

「わかるかも! 何か鬼畜っぽいよね!」

 どんどんそっちの方向に行く。そういう話は彼にして欲しくないなぁ、と思いつつ耳を傾ける私。

『…さぁ。普通だと思いますけど。』

「ってか彼女いるの?」

 それだ!

『今はいません。』

「ねぇ、この中だったら誰が好み? 教えて!」

『えっ。ええと…』

「指さしてみて!」

 皆が彼の指先に注目する。私は、無意識に、つい振り向いてしまった。


 目が、合った。


 ドキッとして、とっさに目を逸らす。間違いなく目が合った。彼もそう思ったに違いない。急に恥ずかしくなる。たまたまだ。たまたま目があっただけ。彼は

『いえ、特に、いません。』

 と言った。

「ひどーい!」

「全員ダメってこと?」

「やっぱり鬼畜ね。」

 と誰かが言うと、また笑いが沸き起きた。


 私の心臓はまだ強く脈を打っている。私の頬は、赤くなっている。鏡を見なくてもわかる。隣の人が「酔った?」と言っていたから間違いない。



 インフルエンザの流行りが収まりつつある時期になっても、私は用心してマスクを外さない。プロジェクトは順調に進み、いよいよ取引先との提携が間近になってきた。本来であれば追い込みの時期で殺伐としているべきだが、プロジェクトメンバーの女子はちょっとした遊びをするくらい余裕があるようだ。


 その遊びは、まず、彼に「わかんなーい。」と声をかける。すると彼は席を立ち、呼んだ人の席の後ろに来る。そして、分かっているくせに、どのファイルですか? と言いながらマウスを動かし、画面のポインタを見当違いのところに置く。すると彼は「違う。ここ。」と指で画面を指す。当然、彼の体は寄り添うようにぐっと近づき、覆うような姿勢になる。…くだらない。そんな遊びをしている暇があれば仕事を進めてくれー。あんたの分も私がやってるんだよ?

 しかし、ミチコによると、そのとき彼から良い匂いがするらしく、私も試してみたいと思っていたのも事実。一度だけ、試してみたい。


 ほどなくチャンスがやってくる。仕事を終わらせずいそいそと帰った彼女たちのおかげで、彼と二人だけで残業になった。しかし、いざ言おうと思うと緊張する。下心が見透かされないだろうか。息をのんで、声を発する。

「あっ、あのっ」

 うわずった声で彼に声を掛ける。

『どうしました?』

 と彼が近くにやってくる。

「このファイル、どのフォルダに保存するんですか?」

『それは…』

 彼が近づいてくる。鼻に神経を集中させる。

『そのフォルダの二つ上。』

 彼は画面を指で指してくれなかった…。


 あれ、もしかして私、避けられてる?


 軽くショックを受けつつ。適切なフォルダにファイルを保存して、仕事を終えた。


 帰り道は彼と一緒の方向だったが、沈黙が続いていた。彼はいつもの無表情。いや! これくらいで凹んではいけない。もっと積極的にならなきゃ。

「あの、仕事のことで相談があるんですけど、ご飯でもどうですか?」


 と、ご飯に誘ってみたものの、彼は本当に終始仕事の話をしていた。親密になるような会話は無し。ずっと無表情のまま、この場合はこう、こういう場合はどう、と淡々と彼は話し続けた。途中、私に興味がないんだ…、とさらにショックを受けたため、とにかく酒に逃げた。結果、私はべろんべろんに酔ってしまい、店を出るときにはフラフラで、へたり込んでしまった。それでも彼は手も貸さずに、

『大丈夫?』

と聞くだけだった。

 なんか、もう…

「手も貸してくれない…」

『えっ』

「仕事の話しかしないし、手も貸してくれない。」

 まずい、溢れてる。

「皆には、体を寄せて仕事を教えるのに、私にはしてくれない。手も貸してくれないっ!」

『ごめん。』

 私は、彼が差し伸べてくれた手を振り払う。一人で立ち上がり、泣きそうな顔を彼に見られないよう歩く。彼は何も言わずについてくる。


 無言の二人。彼とは帰りの電車は逆方向だったが、ホームは一緒だった。ホームで電車を待っているとき、彼は話し出した。

『ホントは、緊張してるんだ。』

 へっ? 私は目を丸くして彼の無表情を見る。

『スピーチは苦手だから緊張する。責任感の思い仕事はプレッシャーに押しつぶされそうになる。』

 彼が? あのクールで仕事ができる彼が? 意外…。

『どらかというと、女性も苦手な方だ。』

 全然、見えない。あんなにモテてるのに。

『体を寄せれないのも、手を貸せないのも…』

 ホームに入ってきた電車の音で聞き取りづらい。

『ホントは、恥ずかしいだけなんだ。』

 今、恥ずかしい、と言った? 彼にそんな感情があるなんて。女性が苦手と言ってたし、単に表情に出ないだけなんだ。全然そんな風に見えない。すごい無表情のマスクをつけているもんだ、と感心した。彼は電車に乗り、こちらを向いて一言付け加えた。


『君に対しては、ね。』


 ドアは閉まり、アホ面をした私を残して電車は発車した。


 その日は眠れなかった。



 次の日、ウトウトして駅を乗り過ごし、遅刻ギリギリで私は出社した。幸い、彼は朝一の会議でいなかった。仕事をしている間も、昨日のことを思い出す。…それは、つまり…、いや、でも、違うか、いや、やっぱり。と昼まで考えていたので仕事は進まなかった。


 午後もモヤモヤと考えながらぼんやりしていると、後ろから、

『例の件、できましたか。』

 と声をかけられたので「ハイッ!」と変な声を出してしまった。後ろを向けない。

『資料印刷してもらいたいのですが、いいですか。』

 寝不足と、驚きと、彼がいるという事実が私を混乱させる。見当違いのファイルを開こうとしたら。

『違う。ここ。』

 と、彼は私を覆うように身を乗り出して、画面を指さす。


香る、彼の匂い。

その横顔は、いつもと変わらず無表情。


彼はマスクを外さない。

私のマスクは、赤くなった頬を隠してくれただろうか。


あぁ、恥ずかしくて目が回る。




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