政略婚約のはずですが、侯爵令息が私の選んだ忘れな草しか胸に飾ってくれません
選んでいただきありがとうございます。
ゆるっとふわっと設定も多いと思いますが、お楽しみいただければ幸いです。
あれ、気づいたら恋愛ものに…!?
今日は、婚約者であるエドワード・ハインツ侯爵令息の庭園で、ふたりきりの散策をする約束をしていた。
マヌール伯爵家の娘である私、テアと彼の婚約は、貿易のための街道を整備するために結ばれた政略だった。紙の上では、道と港と関税のための縁組。けれどエドワードは、そういう理由で結ばれた私を一度も粗末に扱わなかった。私もまた、政略という言葉で自分の気持ちを隠せないくらいには、彼を慕っている。
しかし残念ながら朝から雨だった。庭の芝生は濃い緑に沈んでいる。残念ながら庭園での散策の予定を変更し、温室で過ごすことにした。彼の家の温室は翼のように広く、外の音をやわらかく吸い込み、土と若い葉の匂いに変えて返す。
入口の小さな丸テーブルには、今日のための花がいくつか用意されていた。細い口のガラス瓶に、忘れな草、薄桃のスイートピー、ローズマリー、ミント、黄色いフリージア、白いカスミソウ。胸元のポケットに挿すための小さなピンと、髪に留める細い飾りは白い皿に整然と並んでいる。雨で広い庭園を歩けないので、エドワードが少し変わった遊びを思いついたのだ。庭園よりは広くないが、温室の花をめでる際に、お互いが選んだ花を身につける。
「どれがいい?」
エドワードが、黒の上衣の胸ポケットにまだ色のないまま、私を見る。
「……これを」
私は忘れな草をひと枝取り、茎の先を指で確かめた。小さな青の群れは派手ではないけれど、近くで見ると澄んだ瞳をいくつも束ねたように見える。そういえば、私の瞳もこの花に似た青だと、彼が以前言ってくれたことがある。彼が上衣の端をわずかに持ち上げ、胸ポケットの口を作った。私は白い皿からピンをひとつ拾い、青をまっすぐ立てる。
黒い布に、小さな春の灯りが点る。エドワードは満足そうに頷いた。
「似合いますわ」
「綺麗だ、テア。——いや、君の指が触れた瞬間、僕には何より綺麗に見えた」
ふいに熱のある言葉が落ちて、胸の奥が急に忙しくなる。私は視線を逸らし、手袋の端を自分で直した。落ち着きなさい、最初くらいはきちんとして。
私が胸の奥を持て余している間に、エドワードは黄色いフリージアを一本選んだ。彼は慎重な手つきでそれを私の紫の髪に挿す。柔らかな黄色は、彼の美しい金髪を小さく写したようで、鏡がなくても頬の熱だけで似合ってしまった気がした。
「少し奥も見たいです。柑橘の香りがしています」
「君が言うなら、どこへでも。歩幅は君に合わせるよ」
軽口だと分かっているのに、頬が熱くなる。私は小さく頷いて、彼の袖へ指をかけた。
その時だった。金具の硬い音がして、温室の扉が乱暴に開く。
「エド! やっぱりここだったのね。雨の日なら、きっと温室にいると思ったの。あら、胸に花を? じゃあ私はコレかな」
桜色の髪を雨に濡らし、外套をその場で脱ぎ捨てて、ルーナが笑顔で入ってきた。彼の幼馴染で、モーリー伯爵家の令嬢ルーナ。彼女は入口の丸テーブルをのぞき込み、そこに用意されていた薄桃のスイートピーを確認すると、迷いなく手に取った。こうして私たちの約束に割り込んでくるのは、これが初めてではない。観劇の日も、茶会の帰りも、彼女はいつも当然のようにエドワードの隣へ入ってきた。
「こんな雨の日に二人で温室なんて。私も混ぜてよ。ほら、エドはやっぱり明るい色が映えるの。こっちのほうが——」
彼女の指が当然の顔でエドワードの胸へ伸びる。
エドワードは半歩、静かに身を引いた。ぴたりと、彼女の指先は空を切る。胸ポケットの青はそのまま、微動だにしない。
「ルーナ。手を引け」
低く、鋭い。彼の声の温度が、明らかに変わった。
「今日はテアが選び、テアが挿した。今まで何度も伝えようと思っていたが、今日こそ言わせてもらう。僕の胸元に、君の指が触れることはない。これからも、ない」
「ちょっと、なにその言い方。私は幼馴染よ? このくらい、前から普通だったじゃない。ねえエド、こっちは可愛い色なの、あなたに一番似合——」
「僕にはその色は似合わない」
間髪入れず、彼は答えた。刃ではなく、絶対零度の石のような声で。
「少なくとも、今日は。テアが選んだ青以外、僕は胸に飾る気はない」
ルーナは瞬きを一度、二度。笑顔を貼り直して、今度は私を見る。目つきが鋭い。
「まあ、地味なのを選んだのね、テア。悪くはないけれど、エドは舞台映えする人でしょう? そういう人には、ぱっと目を引く色じゃないと。あなた、こういう場の勘が少し足りないのではなくて?」
「私は、これが好きですの」
自分の声が驚くほど落ち着いている。私は彼の胸の青にそっと触れた。雨の匂いと混じって、小さな甘さが立つ。
「それに、今日はふたりで歩く約束で参りましたから」
「ふたりって、なにそれ。今まで私もご一緒させてくれてたじゃない」
「今までは、そうだったのでしょうね」
言ってから、少し胸が痛んだ。私のワガママなのではないか。それでも、やはり私たちは貴族でもあるが、できれば二人の時間を邪魔されたくないのだ。
ルーナは肩をすくめて大げさにため息をついた。
「なにをそんなに張りつめてるのか分からないわ。ねえ、いいでしょう? エド。私、だってこの温室気に入ってるんだし、エドの家なんだから。私、昔から出入り自由だし」
エドワードは、安心させるように私の肩を抱いた。それから、笑わない目でルーナを見る。
「ここはハインツ侯爵家の温室だ、ルーナ。今日、君を招いた覚えはないが?」
「なにそれ、酷ー」
「酷いのは君の方だ。僕とテアの私的な時間に、許可なく割り込み、彼女の選んだものを否定し、僕の胸元に手を伸ばした。君の馴れ馴れしさを、僕はもう許さない。今日も、これからもだ」
言い切る声は、石畳のように固く平らだ。彼の冷徹さをこんな近くで見るのは初めてで、私は一瞬だけ息を飲んだ。けれど、同時に胸のどこかが救われる。
ルーナの口元が引きつる。「感じ悪い。ねえエド、あなた、本当に変わったわね。昔は、私が決めても『いいよ』って笑ってくれたのに」
「昔、だな。——幼馴染だったのは子供のころだけだよ。今はお互い立派な大人だ」
「……テア、貴方ってそんなに感じの悪い人だったのね。可哀想なふりをして、彼を囲って、縛る。地味で計算高い、典型的だわ」
私が何かを発する前に、エドワードの声が落ちた。
「やめろ」
「どうして? 私、あなたのために――」
「『あなたのために』が、僕の望みと同じとは限らない。それに、テアへの侮辱は、テアを選んだ僕自身に対する侮辱だと受け取る」
エドワードは、容赦なく続けた。
「ここでできる君の選択は二つだ。サロンで温かい飲み物を取って落ち着くか、馬車を呼んで帰るか。温室は、テアと僕のために用意した」
その時、執事が音もなく近づいた。銀の盆を胸の高さに保ち、視線はぶれない。
「お嬢様、サロンにお席を整えてございます」
言葉は柔らかく、しかし一点も動かない。壁のように自然で、押し返す力がある。
ルーナは私とエドワード、そして執事を順に睨みつけ、それから笑顔を乱暴に貼り直した。
「そう。つまり、追い出すのね」
「好きに受け取ってくれて構わない」
エドワードの声は、冷たいまま。
「ただ、ここには入れない」
「覚えておきなさいよ。こんな扱い、許さないんだから——」
「脅しのつもりなら、なおさら正式に扱おう」
彼は一段低く声を落とした。
「本日の無断立ち入りと私的時間の妨害について、君の家へ正式な書状を送る。誤解であるなら、文面で説明を」
ルーナの瞳が一瞬揺れ、すぐに意地で固まる。「……勝手にすれば」
彼女は小さなスイートピーの束を握りしめ、花弁をいくつも潰しながら外套を掴んだ。踵を返すと、敷物に落ちた雫の跡を執事が黙って拭う。扉が閉まる。外の雨音が一段深くなる。
私は、気づかれないように小さく息を吐いた。肩の力が抜け、指先の震えも遠ざかる。
「テア」
呼ばれて、顔を上げる。途端に、さっきまでの冷徹が嘘のように、彼の目がほどける。
「怖がらなくていい。ここは君の歩幅で歩く場所だ。——怖がらせたならすまない。けれど、君の場所を誰にも踏み荒らさせたくなかった」
「……はい。ありがとう、ございます」
声が自分のものではないみたいに震える。恥ずかしい。なのに、胸の真ん中はじんわり温かい。
「さっきの青、もう一度見せて」
彼が少し身を屈める。近い。呼吸がぶつかる距離だ。私は胸ポケットの忘れな草にそっと触れ、正面から彼を見る。
「やっぱり、似合います」
「君が選んだものは、いつだって僕に似合う。——君が選んでくれたというだけで、僕には特別になる」
「そういうの、ずるいです」
「熱くしているのは僕だけじゃない。君の頬も、少し」
「見ないでくださいませ」
「見る。僕だけが見る」
「そんな意地悪なこと言わないで」
低く笑われて、耳の裏まで熱くなる。こんなふうに甘くされるのに、慣れていない。慣れたくないような、慣れてしまいたいような。
「歩こう」
差し出された左腕に、私はためらいがちに、けれどはっきりと手を置いた。布越しの体温が、安心の合図みたいに伝わってくる。
「さっきの言葉、嬉しかった」
「どれのこと、ですの」
「“私は、これが好きですの”とはっきり言ってくれたこと。君の瞳の色だから」
「本当のことです。——わたくし、最初は少し緊張しておりましたけれど、今は……嬉しすぎて、どうしましょう」
口に出してから、顔が燃える。エドワードの目尻が、露骨に甘く緩んだ。
「どうもしなくていい。ここで、僕の腕に掴まっていればいい」
「……わたくしのわがままを、ひとつ聞いていただけますか」
「いくつでも」
「その顔を、他の人には見せないでください。できれば、私だけに」
「今日だけじゃない。ずっと、君だけに」
返ってくる言葉が真正面すぎて、逃げ道がなくて、どうしたらいいのかわからない。私は笑って誤魔化そうとして、上手くいかない。彼は、わざと何も言わず、歩幅を私に合わせた。
温室の奥へ進むと、柑橘の白い花が点々と咲いている。彼が葉をめくり、香りを確かめる指の動きが、やけに綺麗に見える。私はその手元に見惚れて、足元のホースに危うくつまずいた。
「おっと」
「……ちゃんと見ていますわよ」
「どこを?」
「あなたの手元を、です」
ああ、恥ずかしい。けれど、彼は声を出さずに笑い、私の手袋にそっと口づけた。布越しの熱が、ゆっくりと皮膚に降りてくる。
小さなサイドテーブルに、執事が置いていった籠がひとつ。レモンの皮の砂糖漬け、軽いビスケット、薄荷の砂糖。私はレモンをひとつ摘み、彼の前で一瞬止めて——思い直して、自分で口に入れた。
「やっぱり、市井で流行っている“あーん”は恥ずかしいです」
「では、次回へおあずけだね」
彼はククッと笑い、ビスケットを半分に割って、私に渡す。サク、と軽い音。砂糖が舌で溶けるにつれて、さっきまでの棘がほどけていく。
「テア」
「はい」
「君が選んだものを、君の手で僕の近くに置いてほしい。花でも、時間でも、言葉でも」
「じゃあ、これからも、そうします」
「ありがとう。僕は、それだけで充分だ」
彼の「充分だ」という言い方が好きだ。多くを求めず、けれど確かに受け取ってくれる響きがある。
やがて、温室のさらに奥の小さなベンチにたどり着いた。腰を下ろすと、硝子の屋根を打つ雨がほんの少し遠くなった気がした。外は灰色だが、ここには私たちの分だけ色がある。彼の胸の青。私の頬の熱。手袋越しに伝わる体温。
「幸せです」
気づけば、言葉が先に零れていた。照れで視線を落とす私の手を、彼は強くも弱くもないちょうどの力で握る。
「僕も」
それだけで足りた。私たちはしばらく、ただ雨を眺めた。世界が、必要な分だけ音を残している。
——その日の夕暮れ、侯爵家を通じ、モーリー伯爵家に正式な抗議文を出した。
翌朝早く、返書が届いた。定型の謝意と、「以後、娘には節度を守らせる」との一文。短いが、充分だった。——それだけで、二人の時間は守られる。
また別の日の午後。この日も運悪く雨。
「テア。今日の一輪は、何にする?」
「先日と同じでも、いいでしょうか」
「もちろん」
彼は、甘く笑う。
「いつまでも、君が一番好きだ」
頬が熱くなる。私は先日と同じ忘れな草を手に取り、彼の胸のポケットへそっと挿した。青が、またそこに灯る。次は違う花を選んでみよう。
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