婚約破棄の届出書類は私が処理いたしますので、どうぞお気になさらず
「——イレーネ。君との婚約は、今日をもって破棄する」
王太子リヒトの声が、執務室に落ちた。
窓から差す春の光が、積み上げた婚姻台帳の背表紙を照らしている。
「理由を伺ってもよろしいですか」
イレーネ・ヴァイスは手元の羽根ペンを置いた。インク壺の蓋を閉め、書きかけの照合記録に栞を挟む。
「……聞いたのか? 理由を」
「はい。届出書類に必要ですので」
椅子から立ち上がり、棚の3段目から様式第7号を取り出す。『婚約解消届出書』。日付と届出者の欄に、流れるような筆跡で記入していく。
「リヒト殿下。届出理由は『性格の不一致』と『その他』のどちらになさいますか。『その他』は自由記述で200字以内です」
リヒトの隣で、男爵令嬢ロゼッタが不安そうに袖を引いている。
「——性格の不一致だ! お前は事務のことしか頭にない、血の通わない女だ。俺にはロゼッタが——」
「『性格の不一致』ですね。承知しました」
受理印を押す。朱肉の匂いがかすかに広がった。
「処理完了です。控えは3営業日以内にお届けします。——それと」
引き出しから1冊の薄い冊子を取り出す。
「婚姻台帳管理室の業務引き継ぎ要項です。後任の方にお渡しください」
「後任?」
「婚約者の便宜で任期を超えて在職しておりました。解消された以上、この職に留まる根拠がありません」
外套を羽織り、私物の鞄を手に取った。棚の台帳の背表紙を一度だけ指先でなぞる。
「8年間、お世話になりました」
扉の閉まる音は、静かだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
翌朝、王宮は混乱の底にあった。
「台帳が——読めません」
後任のハインツが青い顔で駆け込んできた。
「婚姻台帳の照合作業が全面停止です。台帳の照合暗号が解読できません」
「ただの婚姻記録だろう」
「いいえ。イレーネ前管理官の体系は、重婚防止・身分詐称防止・領地婚姻制限の三重検証を暗号化して一本に統合したものです。7名の文官に当たりましたが、全員が匙を投げました」
ハインツは続けた。
「本日予定のガルシュタイン伯爵家の婚姻届、受理できません。照合が通らない限り、王国すべての貴族婚姻が法的に成立しません。——殿下の新たな婚約届も」
リヒトの顔から血の気が引いた。
窓の外で、小鳥がのんきに鳴いている。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
同じ頃。王都の外れの安宿で、イレーネは荷造りをしていた。
実家には帰れない。婚約破棄の報せが届けば、あの温厚な父でさえどんな顔をするか。
(事務しか頭にない女。まあ、その通りだし)
自嘲は、しかしあまり苦くなかった。台帳の隅々まで手が届いた瞬間の充実は、リヒトの隣にいるどの時間より鮮やかだった。
扉を叩く音がした。
「イレーネ・ヴァイス殿でいらっしゃいますか」
開けると、見慣れない男が立っていた。黒髪に灰色の瞳。外套の胸元に銀の百合紋。隣国ヴェステルラント公爵家の紋章だった。
「突然の訪問をお詫びします。ヴェステルラント公爵家当主、ヴェルナーです」
「……公爵閣下が、なぜ」
「あなたの仕事を見せていただきたい」
懐から1冊の台帳を取り出す。3年前、両国間の外交婚姻を処理した際にイレーネが写しを送った照合台帳だった。
「我が国の法務官僚が6名がかりで3ヶ月。ようやく暗号体系の一端を理解しました」
灰色の瞳がまっすぐにイレーネを見た。
「この台帳を作った人間は、天才です。——公爵領に新設する法務記録院の初代院長として、あなたを迎えたい」
「過分なお言葉です。ですが、なぜ今」
「今朝、あなたが王宮を去ったと聞きました。3年、待っていたのです」
イレーネは目を瞬いた。
「以前から……ご存じだったのですか」
「3年前の台帳の余白に、あなたは名前も書かなかった。署名欄には役職名だけ。けれどすべての訂正箇所に、小さな注釈がついていた」
ヴェルナーが1頁を開いてみせた。
「ここ。『第3条2項の表記揺れ、貴国の慣例に合わせ修正済み。ご確認ください』——外交文書の訂正に相手国の慣例を調べて合わせる文官が、どれだけいますか」
あの注釈は、ただの癖だった。相手が読みやすいように。それだけだった。
「あなたは誰にも気づかれない場所で、誰よりも丁寧に仕事をしていた。——考えてください。返事は明日までに」
「……明日?」
「王宮があなたを連れ戻しに来る前に」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
予言は当たった。翌日の昼、王宮から早馬が飛んできた。
「イレーネ様、お戻りください。台帳が完全に動きません」
「私はもう王宮の人間ではありません」
「条件はお出しします。給与を——」
「ハインツさん」
イレーネは穏やかに、しかしはっきりと言った。
「婚約破棄届は、私が正式に処理しました。受理印も押してあります。法的に有効な手続きを経て離職した以上、一方的に撤回することは台帳管理の原則に反します」
「ですが——」
「届出が正しく受理された以上、覆すことはできません。それが記録というものです」
ハインツは絶句した。
リヒトがイレーネを捨てた手続きが、そのままリヒトの首を絞めている。皮肉でも復讐でもない。制度が制度として正しく機能しているだけだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
3日で混乱は王国全土に及んだ。伯爵家の婚姻延期、男爵家の縁談白紙。貴族社交界に怒号が飛び交い、矛先はリヒトに集中した。
「殿下が婚約を破棄したから、管理官が去ったのだろう」
「男爵令嬢ひとりのために、婚姻制度を止めたのか」
侍従長クラウスの報告。
「午前だけで抗議の書簡が47通。大半は殿下への弾劾請願書です」
リヒトは初めて理解した。イレーネは婚約者の添え物ではなかった。あの女は8年間、王国の婚姻制度そのものを一人で支えていた。
それを「事務しかできない」と呼んだ。
ロゼッタが泣きながら縋る手を、初めて重いと感じた。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
同じ夕刻。イレーネはヴェルナーの馬車の前に立っていた。
「お返事を」
「——参ります」
ヴェルナーは深く頷いた。
「ひとつ訊いても。昨日、何を迷っていましたか」
「台帳です」
「台帳?」
「王宮の台帳は私が8年育てたものです。あの体系を他国に持ち出すことが正しいのか、少し」
ヴェルナーは目を見開いた。
——そして、初めて笑った。口元を押さえるように、けれど確かに。
「あなたは本当に、台帳のことしか頭にない」
「よく言われます」
「褒めています」
馬車が走り出した。王都の灯りが遠ざかる。
「イレーネ殿。先にお伝えしたいことがあります。あなたを迎えるのは、記録院のためだけではありません」
声が低くなった。
「3年前、あの注釈を読んだ日からずっと——あなたという人間に会いたかった。訂正の配慮も、表記揺れへの誠実さも。それは技術ではない。あなたの人間そのものです」
馬車の中は薄暗い。けれどヴェルナーの灰色の瞳がこちらを見ているのは、はっきりわかった。
「あなたを手放す気はありません。仕事も——それ以外も」
沈黙。車輪が石畳から土の道に変わる音がした。
「……閣下。それは業務上の提案ですか」
「いいえ」
「では、届出書類が必要になりますね」
ヴェルナーが声を立てて笑った。
「ああ。——その届出は、ぜひあなたに処理してほしい」
イレーネは8年間で初めて、仕事以外の理由で頬が熱くなった。
春の夜風が窓から吹き込む。鞄の中には羽根ペンと新しい台帳用紙が一束。
それだけあれば、どこでだってやっていける。今度は、隣に誰かがいる場所で。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇
後日。
ヴェステルラント公爵領の法務記録院は初年度にして大陸随一の評価を得た。院長イレーネの照合体系は「ヴァイス式」と呼ばれ、周辺5カ国が導入を求めた。
リヒト王太子は台帳復旧に2年を要し、婚姻停止の責を問われて継承順位を3位に落とした。
なお、イレーネが王宮に残した引き継ぎ要項の表紙にはこう書いてあった。
『本要項は業務概要を示すものであり、照合暗号の解読手順は含まれておりません。詳細は後任管理官が独自に構築してください。——前任管理官 イレーネ・ヴァイス』
完璧な事務処理だった。一点の悪意もなく、一切の手落ちもなく。
ただ、優秀すぎただけの話である。
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