令和7年10月29日…④ 後悔ある死
今日で序章の最後です。今までよりちょっと長くてすいません。
「それは良かった。最後の晩餐ですからね」
「……それは……どう言う……意味です?」
山村は朦朧とし始めた頭で考えるも良く分からない。
李がアゴで合図すると給仕の小姐は無言で部屋から出ていく。
何やら不穏な雰囲気になった。
さらには次第に視界がぐるぐると回り始め、李明の姿が歪んでいるように見える。
思考がまとまらない。
「李さんすいません、私ちょっと……酔いすぎたようです。ご迷惑を……」
山村のその様子を見ながら、李はニヤリとしながら椅子から立ち上がった。
李から剣呑な気配が漂ってくる。
これまでの人生で初めて感じるような、静かで暗い威圧感に、山村は毛が逆立つような不気味さを覚えた。
そのせいで少し酔いが醒めるが、体の変調はそのままだ。
「私の本当の名前は李明じゃないよ。もちろん本名は教えられないけどね」
山村は、いつもと違う李の様子から、自分が今重要な局面にあると直感した。
ふらつく足を叩いて喝を入れ、何とか立ち上がり、テーブルから離れた。
そして、異変を上司に伝えるべく、スラックスのポケットに手を入れ、手の感覚だけで中のスマホの操作を始める。
目がまわる。
山村のスマホには、不測の事態に備え、緊急の際は周囲の音を拾ってそれを組織に飛ばせるようなアプリが仕込んである。
李は微笑を浮かべながら告げる。
「没用。さっきこの部屋で電話を使えなくしました。そして、この部屋はさっきの店の中じゃないです。誰も助けに来れませんよ」
李の言うことはちょっと俄かに理解し難い。
山村はポケットからスマホを取り出してみた。
李の言う通り圏外になっている。
一体どうやって?と思ったが、考えても無駄。罠に嵌められたと確信する。
しかしどこで?
いつ?
一連の接触が工作だと気づかれたのか?
李は勝ち誇った顔で、山村の苦悶の表情を見つめながら告げる。
「あなた達の国には、そのうちスパイを防止する法律が出来るかも知れないけど、私達はずっと前からこの国のあちこちに潜っているよ。仲間がいろんな会社に勤めているね。例えばあなたの携帯のメールを仕事で読める立場の人もいる。みんな金で動くね」
李は楽しそうに続ける。
「あなたを最初から疑っている訳ではなかったね。でも私に近づく日本人は怪しいから、みんな点検することになっているよ。カウンタースパイなら排除する為にね。私はその為にこの国にいるのだから。あなた宛のメールは隠語が多くて解読班も苦労したよ」
山村は、絶望的な話を聞かされながらも、どうにかしてこの場から脱出する方法を考え始めている。
しかし、どうやらこのふらつく体を駆使し、李を力づくで排除して脱出するしか方法は無さそうだった。
「李さんよ……俺を殺しても良いことはないぜ。すぐに官憲の手が回るぞ」
「それは大丈夫。死体が見つからないと殺人になんないね。それに捕まる前に国に帰る。私が活動できなくなっても、いくらでも代わりがいるよ。ま、違った名前で海から再入国してもいいし。私の国は優秀なあなたを今後生かして活動させる方が有害と判断したね」
山村は口ではどうにもならないようだと思い、武器になりそうな物を探して辺りを見回した。
しかし山村が得意とするような長物はない。
李は、スラックスのベルトの金具を外すと、一気に引き抜いた。
ベルトと思っていた物はシャラランという金属音とともに直線的に硬直し、一本の剣になった。
「これ腰帯剣、知ってますか?」
李は不敵に笑い、右手に腰帯剣を構え、半身になって山村の数歩前に立った。
その姿は急に恐ろしい程大きく見えた。
ブレの無い姿で隙らしいものが一切無い。うなじの辺りがチリチリする。
山村は、剣道の試合では、全国大会上位の猛者達とこれまで何度か戦ったことはあるが、李からはその猛者達より遥かに圧力を感じるし、何よりそんなヤツから刃物を向けられることが心底怖い。
山村はこの時初めて、李の本当の強さを認識した。
「怖えな……あんた、本当はすごく強かったんだね」
李は、冷たい目で山村を見据えながら、抑揚なく語る。
「私たちは、子供の頃からみんなで殺し合いながら集団生活してきたよ。スポーツの強さとは別ね。あなたも強いよ。見て分かる。だから用心して、自分の強さを隠してきたし、薬を飲ませて、弱らせてから殺すね」
「氷砂糖に何か入れてたか」
「回答正確!」
李は小馬鹿にしたようにそう言うやいなや、3メートル以上ある距離を、まるで無重力下で地面を滑るように一気に詰め、右手の腰帯剣を山村の胸目掛けて真っ直ぐ突き出してきた。
奇妙な動きだったが、これまで経験したことのない凄まじい突きの速さと正確さ。
本調子ならいざ知らず、朦朧とする頭と視界では避けきれない。
勘で咄嗟に半身になって身をよじるが、白シャツ越しに左の大胸筋を切り裂かれ、そこから血が滴り始める。
山村は、最初からどうにか指を犠牲にしてでも剣を掴もうと思っていたが、突きの戻りが速すぎて無理だと悟る。
「好!避けたね」
李は剣が戻ると、さらに前進し、手首を返して切り裂く技を三度繰り出した。
山村はかろうじて頸動脈への斬撃を避けたが、前腕や大腿部を切り裂かれ、鮮血が飛び散った。
何とか傷を負いつつも前方に飛び込み、丸テーブルの下に潜り込む。
そしてテーブルの真ん中にある支柱を持ち上げ、食器等が乗って全部で50キログラム程の重さになっているテーブルを李に向けて精一杯放り投げた。
「動脈ばっか狙いやがってクソが!」
李は罵声にニヤリとする。
李は、一瞬視界前面をテーブルで遮られたが、冷静に瞬時に横に移動し、とどめを刺すべくテーブルの向こう側、山村のいるはずの位置に突きを繰り出そうとした。
いない?
李が少しだけ怪訝な目になる、がすぐに気付いた。
山村は投げたテーブルと同時に自らも飛び、身を縮めてテーブルの裏の死角に身を隠していたのだった。
山村は着地と同時に斜めになっているテーブルの支柱に全体重をかけ、高さ70センチ程の支柱をへし折った。
そして床に散らばっている器の欠片を拾い、間髪入れず李に向けて投げつける。
李は落ち着いて一歩飛び下がり、顔に向かって飛んできた欠片を、チュインという乾いた音とともに、手首を返しただけの剣で真っ二つにした。
その間、山村は根元から折れた支柱を拾い上げ、良い塩梅にくびれている方を柄にして、木刀に見立て、正眼に構えて一呼吸いれた。
そして、裂帛の気迫と共に、雄叫びをあげる。
さらに傷から血が流れ出し、全身血まみれとなったが、山村は覚悟が決まって少し落ち着いていた。
その姿を見た李は、昂った様子で山村に告げる。
「致死毒にしなかったのは、面白くないからだ。良かった!思っていたとおりに楽しめる相手で」
「抜かせ。あんたは俺よか強ぇな。でも死んでも一本取ってやる」
「やってみせろ日本人」
山村と李は、お互いに一足一刀の間合いのまま睨みあっていた。
山村は、すでにぼろぼろの体だが、不思議と澄んだ頭で相手を見ることができている。
先を取るか、先の先を取るか、後を取るか、後の先を取るか、ゆっくり流れているような脳内の時間の中でシミュレーションを行う……がどうしても李の方が早い。
山村はフッと肩の力を抜き、覚悟を決める。
どうせ何合も切り結ぶ体力は既に無い。
李も同時に脱力する。
その時だった。
山村は正眼の構えのまま、大きく一歩を踏み出して、右足を目一杯踏み込んだ。
そして全速の体当たりの要領で腕をほとんど動かさずに突きを繰り出す。
突きが当たらなくても、壁まで気合いで吹っ飛ばして、柄でミゾ落ちをかち上げてそのまま鼻の下の人中に頭突きをくれてやる!
「イヤァァァァーー!!」
カン高い気迫の発声とともに、山村が李に突進する。
李にはその動きは見えていたが、予想していたよりもかなり速かった。
中途半端な避け方だと体勢を崩され、追撃される勢いだと分かる。
山村の鋭い踏み込み足の震脚に、長い武の年月を感じて感動すら覚えた。
それでも李は、このくらいのレベルの相手に対しては、速度に応じて自然に体に染みついた最適な動きが繰り出せてしまう。
「ハァッ!」
李が一声上げた後、右手の腰帯剣は、手首を返す動きにあわせ生き物のようにうねり、山村が握る支柱にまとわりついたかと見えると、一気にそれをバラバラに分割してしまった。
そして、武器を失ったまま突進してくる山村の横を超速ですり抜けつつ、肩口から逆袈裟に胴まで深く切り裂いた。
山村の目は、その一部始終を捉えていた。
あんなヒラヒラと薄い剣で腕ほどもある太さの支柱をバラバラにするその技量、その直後に自分の胴体を切り裂いた斬撃の鋭さ、信じがたい移動速度の速さ。
まさに武芸の高みを見せつけられた。
自分が既に一端の剣士になっていると思い込み、修行をサボって遊んでいる間も、きっとこの男は毎日苦しみ抜いて、血と汗と涙を流していたに違いない。
そう思うと、山村は己に悔いるところばかりだった。
思えば、剣道をしているときも、どこか本気で日本一を目指していなかった。
冷めた目で、トップになるのは選ばれし者等の特権だと諦めていた。
世界中で活躍している野球選手やボクサーなどを見ても、自分には才能がなかったからなと遠い世界を見ている感覚だった。
しかし、本当は気付いていた。
彼らは一心不乱に、がむしゃらに、直向きに自分を信じて努力して生きてきた、その結果が現れているだけだと。
誰だってそんな生き方には憧れるものだが、いつしか日々暮らしているうちに自分には無理だと心に蓋をして、言い訳をしながら毎日を送ってしまっている。
今日だって、敵と自分の差は、その生き様にあったと間違いなく思う。
もし、あの日、サボらなかったら?
もし、あの時間、修行していれば?
もし、もっと自分がひたむきに生きていたら?
悔しい。悔しい。
もっと毎日努力していたら、悔しい思いをせずに済んだのに……。
もっと強かったら、この強敵にすごいと思わせられたのに……。
もっと本気で生きていたら、きっと毎日くだらない悩み事も少なかったのに……。
悔しい……。
山村は、そのまま仰向けに倒れた。
もうほとんど何も見えない。
血を失い過ぎて少し寒い。
とにかく強烈な悔恨がある。
「……悔……しい……」
か細い声のその悔しさは、自分に向けたものだ。
李は山村の顔のそばにしゃがみ込んで、声をかける。
「山さん、強かったよ。でも、才能あるのに、努力が中途半端だったね」
李の物言いは、長年の友であるかのような気軽さだ。
本気の言葉だと分かり、山村の悔恨は深くなる。
まさか死ぬ段になって、こんなに悔しい思いをするなんて思っていなかった。
俺は……自分の生き様に悔いが残った………。
そんな、脳が燃えるような残念感と、自分への怒りが、真っ白に目の前をつつむ。
山村の鼓動は、その強烈な悔恨を抱えたまま、そこで途絶えた。
令和7年10月29日、山村良、死亡。
次から本編に入っていきます。




