74話 勇者ちゃんママの再来《Ultra MAMA》
今日、朝起きて瞼を開いたら世界が顔だった。
「……。なにやってんですか? つかいつからそこにいたんですか?」
一瞬ほど脳が停止したことは言うまでもない。
だが、意識の浮上とともに現実が重くのしかかってくる。
「私は……ご主人様に買われている犬。わんわん」
「そんな感情ゼロの犬のモノマネはじめて見ましたよ。あと俺は犬を買った覚えがありません」
「くぅ~ん」
と、本人は供述しているが、なにもかもが間違っていた。
彼女は、人であり犬ではない。もっと掘り下げるなら俺が間借りしている家の家主である。
「わんわん、わんわん、わぁんわぁん」
鳴くたび鼻先に甘ったるい吐息が吹きかけられた。
吐息だけではない。俺の身体にずっしりと大人の体重がのしかかっている。
しかも感情皆無の瞳の奥には、呆れきった俺という男が1人ほど、映っている。
「あの、もうバレてるんで、そろそろ退いてもらっても……」
「ふふふ。私がこの体勢でいる限りナエさんは起き上がれない。もし起き上がろうとすれば私にお顔がぶつかってしまうはず」
「え、なんの勝負なんですかそれ? なんで俺、朝一からそんな真剣勝負挑まれにゃならんのです?」
反抗しようにも恍惚が視界いっぱいに広がっていく。
半目の眦がとろりと下がる。艶めく唇の端が薄く孤を描いた。
状況を説明しよう。いま俺の上には布団越しに勇者ちゃんママが覆い被さっている。
そして俺の両頬横に肘を置くスフィンクスさながらの守護獣姿勢で見つめ合っていた。
そうでなくとも勇者ちゃんママはいろいろデカい。180cmはあろう巨体が容赦なく俺の身体を束縛している。
「わんわん。寂しいからご主人様に早く起きてほしいわん」
「誰がご主人様だ。そしてアンタがいるから起きられないんでしょうが」
「この場合の寂しいっていうのは熟れた女性が欲求を満たせず身体をもてあますという意味の寂しいだわん」
「言語が悠長だけど言ってることはただの下ネタじゃねぇか」
退路がない。なんて完璧な作戦なんだ。
上に逃げるににしても狭すぎて両肩が通らない。両脇は肘と腕でしっかりと塞がれている。
「(クソ……下に逃げたら重量級の胸に頭から飛びこむハメになっちまう。微妙に体重を浮かしてきてるのはそっちへ逃げさせるためのブラフか)」
「ああ……! ナエさんが悩んでる……! 理性の天秤の上で男の肉欲を滾らせてる……!」
なんてこった。こんなのもう迷宮入りじゃないか。
正直、いまの子の状況、まったくもって構わない。延長戦にもたれこむことさえ視野に入れていた。
だが彼女は、俺のダイアモンドエンジェル勇者ちゃん、レーシャ・ポリロの母である。このまま人妻と体温を共有しつづけるのは倫理的に危ういことになってしまう。
「ちなみに交渉とかって可能ですか?」
「しかと、聞き届ける」
本当になにを考えているのかわからない人だ。
いや、さいきん一緒に暮らしているうちにただの痴女に見える機会が多い。
わざとらしく尻を突きだし下のものを拾ったり。洗濯物を胸の上で畳みながら己の女性を浮かせてみたり。こっちを見ながら音を立てて蕎麦を啜ったり。数えたらキリがない。
「いまから俺は起き上がるのでレーシャちゃんママはそっと横にズレてください」
リピートアフターミー。
すると勇者ちゃんママはこくりと喉を鳴らす。
「いまからナエさんは起き上がるから私は貴方を唇で迎え、あとは流れで」
「すっごい曲解! アンタの耳には特殊なフィルターでもついてんじゃないの!」
「しかと、聞き届けた。すでに覚悟はできている、わん」
「シカトしてんじゃねぇよォ!! 毎日毎日寝起きドッキリ仕掛けてきやがってェ!!」
今日の勇者ちゃんママはいつにも増してハードだった。
こうやって人が焦り散らかすのを楽しんでいるのだ。つまり若い男の前で肝が据わっている。
「でもナエさんがお泊まりするようになっていい頃合い。そろそろ食べ頃だと思う」
「なにが……――俺がかァ!?」
「親子丼」
さらりと言い切りやがった。
しかも眉1つ動かさぬ完全な無表情で。
「テメェの願望に娘を巻きこむんじゃねぇ! 俺はともかくレーシャちゃんにだけは手をだすなぁ!」
ダメだ、コイツを早急になんとかしないと。
この人妻の頭のなかは危険すぎる。それくらい中2男子と同じくらいの思想に染まりきっていた。
「おかあああああああああさあああああああん!!!」
俺が四苦八苦していると、声が響き渡った。
階下より、どたどたとした足音とともに近づいてくる。
ようやくだった。この天国と地獄を5:5で混ぜた盤面の特効薬はひとつしか存在しない。
そしてダァン、と。勢いのある踏みこみとともに、短なスカートがふわりと舞い上がった。
「またそうやってナエ様を困らせてる! どうして1日も休まず人の嫌がることができるの!」
救世主。もとい勇者ちゃんの登場だった。
声を荒げるとともに肩が激しく上下に揺れている。
しかも身体には蜘蛛の糸のようなものがあちこちに絡まっており、着衣にも乱れがあった。
「あら、新記録。私お手製の足止め逆さ吊り辱め罠からもう脱出してくるなんて……さすが私の娘」
「(なにその卑猥そうな罠は!? 引っかかってる勇者ちゃんの姿を実況見分したかったんだけど!?)」
「家のなかにトラップ仕掛けるの止めてって言ってるでしょ! ともかく私が辿り着いたからにはさっさとナエ様の上から降りて!」
形勢逆転。さながら姫を助けにきた勇者のよう。
もしこのままでもう数秒遅かったら。事態はとり返しがつかなかったかもしれない。俺という姫は、勇者ちゃんママ魔王の魔の淵へと沈んでいたことだろう。
しかし颯爽と勇者ちゃんが辿り着いてくれた。これではもう母である彼女は手を引くしかあるまい。
「(ふぅ、どたばたがこう毎朝つづくとさすがに疲れる……――なっ!?)」
引かない。それどころか近づいてくる。
そしてそのまま勇者ちゃんママの顔が視界のすべてを制圧した。
「むちゅぅっ」
「あああああああああ!! ナエ様にちゅうしたああああああ!!」
大丈夫だ、勇者ちゃん、安心するんだ。
ぎりぎり首を横に捻ることで唇だけは守り抜くことに成功する。
俺の理性が残っていたことで、キミにトラウマを植え付けずに朝の騒動は、無事収束したのだった。
〇 〇 〇 〇 〇
「干し椎茸のお吸い物が五臓六腑に染み渡るぅ……」
「くすっ。それじゃあ空いたお皿は冷やしちゃいますねっ」
寝て覚めれば朝がくる。
朝食を終えたリビングには小麦と僅かな花の香りが立ちこめていた。
さすがに一四半期も居候すれば勝手もわかってくる。ここ『Flour & Flower』のバイトとしてもそろそろ1人前の太鼓判が押される頃合い。
「ナエ様もだいぶお仕事慣れてきましたよねっ。パンをこねて焼くのもお上手ですし手先がとっても器用ですっ」
「それはまあいろいろとバイトやってたからねぇ~。うちは両親が仲悪くてほとんど家にいなかったし家事全般は日常だったしさぁ~」
勇者ちゃんがテキパキとお茶を注いでくれた。
煎れてくれたカカオティーのチョコのような香りが意識をキリッとさせてくれる。
可愛い美少女と1つ屋根の下、同棲生活。4ヶ月もたてばさすがにドギマギしていられない。
いまや互いに勝手知ったるという歩調の合わせも完璧になっていた。
「そういえばレーシャちゃんっていつになったら敬語やめてくれるの? もう出会ってけっこうたつんだしそろそろため口でもいいんじゃないかな?」
「いえいえやはりここは粗相のないようにしなくてはいけません! 私なんかがナエ様にため口を使用するなんてバチが当たってしまいます!」
急に饒舌だった。
ちょっとした気分転換のつもりだったのだが、やけに頑な。
「誰もバチ当てたりしないと思うけど? ほらせっかくだし軽く俺のことをナエとかナエくんとか呼んでみたらどう?」
「いけません! ナエ様はナエ様です!」
この話題も実は1度や2度ではない。
しかしいつも勇者ちゃんはいっこうに譲ろうとしなかった。
こちらとしてはもっと気さくに気兼ねなく接して欲しいところなのだが。
「1回、ちょっとだけ敬語をやめてみようよ。レーシャちゃんもお母さんと話してるときは敬語じゃないわけだしさ」
「お母さん相手に敬語はよそよそしくなっちゃいますよ。でもナエ様はナエ様なんです」
むんっ。なぜかどや顔。
童顔に似合わぬ豊かなバストが押しだされて上品に波を打つ。
「なーえ。なーえ。なーえ」
「なえさーま。なえさーま。なえさーま」
クソ、可愛いかよ。
勇者ちゃんは丸瞳で俺をじっと見つめながら名を繰り返す。
自分の可愛さを自覚していないがゆえのあざとさ。これにはさすがの俺も胸打たれ黙るしかない。
いっぽうで勇者ちゃんママは、心なさそうな目つきでぼんやりとしている。
「娘が年ごろの男とイチャイチャしてる。そんな姿を母は和やかな気持ちで見つめるだけ」
「いや朝めちゃくちゃ暴走してたじゃねぇか。アンタのやったことと比べればこんなのイチャイチャにも入らんだろ」
なんでこんな美人なのに残念なのか。
おまけに娘にも通じるほどのナイスバディときている。
勇者ちゃんは小さくて、大きい。しかし母のほうは大きくて、大きい。
「ふひっ。娘相手だと優男なのに私に対しては急にSっぽくなるナエさん素敵……ふひひひひっ」
「(こえぇよ……笑いかたの湿度が高いって……)」
とはいえ今日はこの勇者ちゃんママに大切な話がある。
とても大切な。この世界の未来の雌雄を決する。それくらい真剣で真面目な話。
※つづく
(次話との区切りなし)
最後までご覧いただきありがとうございました!!!




