22話 蠱惑の香《Scent Of Curse》
王宮の花
気高くも
儚い
1輪の華
呪われた
乙女
絹を滑らせたような足音が赤絨毯に吸われていく。
ステンドグラス越しに差しこむ陽光が、白金の廊を美しく染めていた。
そこにまるで天上の道を歩むよう。廊下を包む静謐を破ることなく、1人の騎士はまっすぐに足を進める。
白亜の如き朝に照らされた緑銀の髪は、まるで宝石の如き聡明な輝きをまとう。戦装束は花弁のように華やかで、それでいて一切の隙を感じさせない。
戦場に咲く1輪の花。だがその花は、鋼を帯びている。
「あらっ」
「お疲れ様です」
しばらくすると、廊下で部下の1人を視界に捉えた。
女性は微かに驚いたような吐息を漏らす。
だが、見知った部下の顔にすぐさま柔和な笑みを浮かべる。
「ご苦労様。ご報告かしら?」
勇ましい表情の女性騎士は、肩口に銀の装飾を抱く。
どうやら彼女の目的が自分であることに気づく。手にした書簡が入り用であことを物語っていた。
「辺境の村、アークフェン周辺にて、突如大規模なダンジョンが確認されました。おそらくはゴブリン種族の本拠地。王都より緊急要請が回っております」
「またゴブリン、ですか。つづけてください」
短く応じて、足を止めず、部下に視線すら向けなかった。
それが信頼の証であることを彼女はよく理解している。
「あまりに前例のない発生でありなお巨大化する可能性も否定できない。アフロディーテ隊はすぐさま都を出立し危惧される不測の事態を早急に解消せよとのことです」
よく噛まないものだ。
しかもはきはきと滑舌もよく聴きとりやすい。
女性は内心で感心しつつ、伏していた眼差しをあげる。
「それは王宮から直々のお達しですの?」
「公的な指令です」
「そうですか」
部下の手前鵜呑みにするも、不満がないと言えば嘘だった。
こちらは都仕え。無頼の小銭稼ぎ連中ではない。たかがゴブリン如きに嬉々として時間を裂くほど暇ではないのだ。
なにより――……ゴブリンの巣は臭いし汚いですもの。指示を下された部下の小言が聞くまでもなく脳裏へまざまざと横切る。
そんな文句を悟ったかのように部下の女性はつづけた。
「残念ながら緊急の要請でもあります。ですのでご不満もあるでしょうがここはこらえてください」
「まあまあそんなそんな。まさかまさか上からの指令に名誉や誇りはあれど背くなんて、とてもとても」
「ならば鼻を摘まみ煙を払う所作をお止めください。言動が矛盾なさっておりますゆえ」
とはいえ伝令をこなす彼女さえ乗り気ではない様子が満ち満ちていた。
命に背けば騎士ではなくなってしまう。統率と秩序、それが王国騎士団の矜持である。
内心否定し、胸の奥が使えようとも、それが命令ならば規律に則るのが騎士の在りかたなのだ。
木漏れ日のような吐息を艶やかな唇からほふ、とこぼす。
「ご奉公の件、確かに我が騎士団が承りました。早速で申し訳ないのですが、騎士たちには準備を整え次第、即時出立することをお伝えになって」
声に不満を滲ませることはない。
凛とした威厳を籠めて真摯な指示を飛ばすことこそ長の務め。
「はっ」
それを受け、伝令の女性もまた槍を通すように背を直立に正す。
格式ある所作で踵を返すと、鉄装具を奏でながら勇ましい歩みで去って行く。
国と市政に尽くす誓いは、――彼女も含め――剣として生きると決めた覚悟の元に済ませてある。
応じる、許諾する。否定するは騎士にあらず。そこに疑いや疑念はない。準ずるという使命感のみを心に宿す。
「……他になにか?」
足を止め、振り返らずに問うた。
微かな気配の揺れが柱の陰の死角から生じていたからだ。
ゆるゆると、影から1人の男が姿を現す。
「女性のみで構成される花のアフロディーテ隊にゴブリン退治とは。下々の輩に任せておけばよいものを。王宮もずいぶんと、可憐な姫騎士殿に似合わぬ下賤な任をお下しになられる」
刺繍の細工がこれでもかと詰め込まれた外套が踊る。
幾重にも重ねた襞つきの礼装に、黄金の鎖と宝飾が首元から覗く。
鼻先を軽く上げ、緩んだ口元は卑しい。歩み寄る様は、実に悠長で、そして挑発的だった。
「麗しき花弁が小鬼如きの血に濡れるのは見ていて忍びない。それに王宮から小鳥たちが去ってしまうのも華やかさに飢えてしまいますな」
目を細めて、品定めするように視線を這わせてくる。
そのときだった。背筋をつうっと冷たいものが走り、肌の奥に粟が立つ。
「(まただ)」
つど、こうして現れては、隙を見ては距離を詰めてくる。まるで影のように。
しかしその正体は、王政にも深く食い込む家門を背負う高位の貴族。
それゆえ、剣を抜くことも、声高に拒絶することもできない。
「なにを勘違いなさっているのか知りませんが、我々は崇高なる騎士です。飼われている愛玩動物のように形容されるのは――甚だ遺憾ですわ」
声は凜としていたが、その語尾にはかすかに棘があった。
「これはこれは失礼を。なにぶん、こちらは騎士としての教養が皆無でして。……ご容赦を願いたい」
そう言って軽く胸に手を当て、わざとらしい一礼を入れる。
当然そこに忠も義もない。演技じみて人を小馬鹿にするようなもの。
心などこもこもっていない、ただの貴族としての正しい形をなぞっただけの仕草だった。
「(……道理と礼儀を知らぬ痴れ者が。へりくだる軽い頭しかもたないわりに気質のみ高いときている)」
煩わしい。
だが咎めも、斬り伏せることも許されない。
それがいかに理不尽であっても、剣を帯びる者の責務は、社会の秩序を壊さないことにある。
「騎士の発足と維持にかかる国の金も……決して小さくはありません。あくまで剣というものは持ち手がいて奮われることをゆめゆめお忘れなきよう」
男はくぐもった声でそう言った。
その声音には、かすかな笑みが滲んでいた。
「では伺いますが貴殿は騎士に忠義以外のなにをお求めになられるのでしょう?」
「いえいえ私は騎士に忠義以外を求めてはおりませんよ。ただ――」
目に見えぬ圧力が胸元に居座るようだった。
鎧越しでも感じとれる物色するような目線が足先から毛先まで蠢く。
「忠義にも、様々な形があるのではないでしょうか?」
湿った声音にまぎれて、男の舌が無遠慮に唇をなぞる。
濁った眼が、戦鎧の隙間からあふれんばかりの胸元へと落ちた。
脂ぎった指先が、鎧の縁に添えられる。触れるか、触れないか。まるで絵筆で輪郭をなぞるかのように、甲冑の金線をなぞっていく。
「男より品はあっても力で女性が勝る道理はなく、到底及ばない。私はそんなことを考えたこともないですが、宮殿内で汝らをお飾りの騎士と呼ぶ声もあるとか」
「……っ」
「存続させるのであれば長である貴方が誠意を示すことも一考する余地はありましょう。よろしければ私が貴方がた騎士団に加担して差し上げることも大いに可能です」
ずいぶん浮かれ、遠回しな物言いだった。
単に下れと言っている。隊の存続を請う代わりにこの身を明け渡せ、と。
「(少々都に長く居着きすぎてしまった。此度の遠征は幸運かもしれない)」
1歩でも隙を見せれば、あらぬ噂を流されかねない。
そんな危機感が押し寄せ、奥歯を軋ませた。
「それでは。良き旅路を」
そう言って、男がふくよかな体をゆすりながら、ひとまず踵を返す。
ようやく喉奥に詰まっていた息が落ちる。
冷徹さを保ちつつも、僅かに気が緩んだ。緩んでしまった。
「――ああ、それと」
吐きだしかけた安堵が、凍りつく。
男のぬめるような声に筋肉が強ばって指先がじわりと痺れた。
「帰還の際は、鎧姿のまま。決して湯浴みせずに我が屋敷へお越しください」
ぞわり、と背筋を蟻が這う。
羞恥でも、怒りでもなく、名状しがたい。
穢れが肌に触れた気がした。
「(これは罪か。罰か。あるいは、災厄か)」
無礼の意図も、汚辱の欲も、あからさまに放たれた毒。
避け得ぬ運命。それは剣では斬れぬ呪いのようなもの。
「なにせ花の香りは濃いほど、蜜が溢れるというものですからねェ!」
男の目は血走っており、正気ではなかった。
まるで傀儡にでもされているかのよう。人格さえ塗り潰さん狂気を秘める。
「……よしなに」
この身は呪われている。
花の香は、獣をも酔わせる媚薬となる。
高笑いを携え去って行く男の背を見送る。
花の乙女の瞳の奥には、憂いと恐怖が錯綜していた。
〇 〇 〇 〇 〇
2章 裏はオモテナシ、裏の裏だったらロクデナシ Start