愛しきみと
「すまなかったね、結局ずぶぬれだ」
わたしは食卓にサラダを並べなから詫びた。
「いえ、そんな。教授に言われた通りに着替えは持ってきましたし、今日も猛暑日予報がでてましたから、平気です」
矢ノ浦は襟が少し伸びたTシャツ姿で笑ってみせた。
「小さいくせにあばれるから、もう還暦過ぎたらそいつを洗うのはむりでね」
当の暴れ犬、アコは定位置の窓際のバスケットで日向ぼっこをしている。レースのカーテン越しに日差しを浴びて、体を乾かす算段らしい。
「やつも、ほどほどの年齢だから、いいかげん落ち着きそうなものだが」
アコを譲られるとき、シェパードとミニチュアダックスフントの雑種だと説明された。ロングコートの血も混ざっていたらしく、垂れ耳でふさふさとした被毛に覆われている。短い足に微妙にダックスではない顔つきがアンバランスだ。
「本棚の整理までやって貰えて助かった」
本棚から持ち出した本はもとの場所に戻ることなく、リビングのテーブルに積み重なって山をなしていたから。
「すごいですよね。リビングの作り付けの本棚。二面の壁が天井まで本棚だなんて、夢ですよ」
わたしは笑みを作ると、矢ノ浦の前に湯気のたつ皿をおいた。
「まってました、山崎教授のカレー!」
矢ノ浦は待ちきれないのか既に右手にスプーンを握っている。
「これくらいしか礼ができんが、いくらでもおかわりしてくれ」
「もう、これが楽しみで楽しみで。みんなから噂で聞いていましたから。本棚を整理している間も、カレーのいいにおいがして拷問でした」
言うのももどかしげに、矢ノ浦はカレーをすくったスプーンを口に入れた。
矢ノ浦は、二重の大きな目をさらに大きくした。
何度か顎を動かすと天然パーマらしい長めの前髪もゆれる。ごくん、と喉が動くと、親指を立ててみせた。うまいらしい。わたしもうなずくと、あとは一緒にカレーを食べた。
――暑いときには、辛いものをたべなくちゃね!
そう言って猫の額の家庭菜園から収穫したトマト、ピーマン、茄子、ズッキーニ、おくら。籠いっぱいの野菜を自慢げに見せて笑う。ソバカスを散らした頬と短めのおかっぱ頭の……。
「教授?」
スプーンをもったまま体が止まっていたようだ。ずり落ちた眼鏡を押し上げ、辛口のカレーを銀のスプーンにすくう。
「そういえば、絵本もたくさんありましたけど。教授はなんでもお読みになるんですね」
口にしたスプーンがいきなり金属の味しかしなくなった。すうっと腹の辺りが冷えていく。落ち着け、ゆっくり何気ないように話すんだ。
「いや、あれは亡くなった妻の物だ。妻の和歌子は幼児教育が専門だったんだ。講義で読み聞かせの実演もするから、そのための絵本だよ」
ときおり裏声というか、ヘンテコな声で読み聞かせの練習をしていたのを思い出す。左手に開いた絵本を持ち、本文はほとんど見ずに読み上げる。声は変幻自在だった。
不意を突かれたように矢ノ浦の手が止まる。
「あ、あ、すみません」
スプーンを手放して、両手を膝のうえにのせて矢ノ浦はうなだれた。
「そんなにかしこまらないでくれ。妻が亡くなったのは、もう五年も前のことだし」
そう、五年もたったんだ。何でもないことだ、何でもないことだ……。わたしはカレーを食べる。もう味がしなくなった。ただ、スプーンを咥えている感触だけだ。
「残念なことに、わたしたちには子どもはできなくてね」
「はあ」
複雑な顔をして、矢ノ浦もカレーを食べた。
「彼女が残したものは、あの犬とこのカレーのレシピだ。たまに作らないと忘れてしまうからね、時々きみたちの手を煩わす」
「煩わすなんて、そんなことないです。いつでも呼んでください」
矢ノ浦は大きな瞳をうるませながら答えた。
瞳をうるませながら、カレーを三杯食べた。
矢ノ浦を見送ってから、久しぶりにリビングとキッチンを掃除した。ここのところ、論文を書くのを理由に散らかし放題だった。アコは掃除機の音に辟易して二階へ姿を消した。 たぶん妻の書斎に避難しているのだろう。妻が仮眠用のベッド代わりにと置いたソファで寝ているはずだ。
妻の部屋は亡くなってからもそのままにしてある。書きかけの原稿用紙やノートパソコン、メモ用のノート、愛用の万年筆や付箋が貼られた辞書たち。ついさっきまで、そこに妻がいたみたいに。よくアコをお腹に抱いて眠っていた。
そっと階段を上がって部屋を覗けば、和歌子が眠っているかもしれない。
そんなこと、ありはしない。天井をみあげていた顔を戻して掃除機のスイッチを入れた。休み休み夕方まで続けると、部屋は片付いてすっきりしたが、がわたしはくたびれた。
コーヒーでも淹れようかと思ったが、豆を切らしていた。
ふう、とため息をつく。
余裕ができた本棚には、昔の写真が並べられた。矢ノ浦が結婚式の写真を見て「教授、若っ!」とか叫んでいたが、老いぼれにも若い日があったのだ。
ソファに体を預けて、逆さまに見上げる写真たち。
結婚式の写真の隣、まだいくぶん髪が豊かなわたしと、家に来て間もないアコを抱く、はじけんばかりの笑顔の妻の写真がある。庭仕事をしていたお隣の旦那さんに玄関先で撮ってもらった一枚だ。「山崎さん、もう少し笑ってくださいよ」と、お隣さんに言われたことを覚えている。
生き物を飼うことを長年望んでいたから、妻の喜びようときたらなかったのだ。
アコを迎えるときに、ひと悶着あった。
「いまから犬を飼うなんて。犬と人間の寿命競争じゃないか」
暗にというか、あからさまに反対するわたしに妻は平気のへいざで答えた。
「大丈夫よ。わたしのおばあちゃん、九十まで生きたし」
「お義母さんは七十手前じゃなかったか?」
わたしの指摘に、妻は肩をすくめて舌をペロッと出すとウインクした。
ごまかすときの妻の仕草だ。
結局、引き取ったアコを妻は甘やかし放題で、お手と待てくらいしか覚えなかったし、わたしの言葉にはたいがい従わない。
よいしょと身を起こすと、いつの間にか部屋のすみには暗がりがわだかまっていた。
夕暮れ時のほの暗い部屋にいると、和歌子の闘病生活を思い出す。長い夜を痛みと闘う、病室の暗さを思い出させる。点滴が刺された和歌子の手を握って夜を過ごした。ぽつりぽつりと昔の思い出を語りながら。学食の日替わり定食のおかずを当てた回数とか、アコを洗おうとして頭からびしょ濡れになったこととか。他愛のないことを。
なにが、おばあちゃんは九十まで生きた、だ。
なんで……五十半ばで先に逝くか。
――暗い場所にいつまでもいないで。明るくなれば、元気も出るわ。
部屋に灯りをつける。とたんにやみは霧散する。
「アコ、夕飯だ。降りてこいよ」
わたしは昼の残りを食べよう。立ち上がってキッチンへいき、アコの皿へいつものフードをカップで計って入れると、かたかたと足音をさせてアコが階段を降りてきた。
……アコをお願いね。
ほかにもっとましなお願いはなかったのか、和歌子。
週に三回程、講義を受け持っている。すでに退官しているが、まだ大学からお声がかかる。何十年と通ったあげく、さらに通わなくてはいけないのは、面倒だがしかたない。
「アコ、行くぞ」
帽子をかぶって玄関で待つと、すぐにアコがやってくる。首輪にリードを着け、アコを抱き上げてドアを出ると、すでに日差しはきつい。
大学までは歩いて行ける距離だ。夏は朝の涼しいうちに移動する。
もう、蝉がさかんに鳴いている。なるべく日陰を選んで歩く。
ここの遊歩道脇には、桜並木がある。花が終わって終わりではなく、夏には木を提供してくれる。ありがたいことだ。
「お前の火傷防止のためでもあるんだからな、感謝しろよ」
真夏のアスファルトや地面は高温になり、犬の肉球を焼くのだ。犬にも自分の健康にも気を配らなくてはならない。年をとるのは難儀だな。
――健康に気を付けて。散歩ていどでいいから、毎日体を動かして。
時々、木の枝が作るトンネルをくぐって進む。朝練らしい運動部の高校生に挨拶されたり、朝散歩の常連と会釈を交わす。
途中のパン屋で朝ごはんを買う。
ここの店主と奥さんとは長い付き合いだから、わたしが買い物に来るのはある意味生存確認みたいなものだ。
大学へ行くと、早々と登校している学生たちがいる。
「おはようございます、教授。アコちゃん、散歩に行こう」
挨拶もそこそこに、アコは女子学生たちにさらわれていく。アコは学生たちには愛想がよくて従順だ。講義の間、シッターをしてくれるのはいいが、半日は帰ってこない。
研究室で一息ついていると、まもなくだれか彼かが顔を出す。お茶を淹れてくれるが、それはあくまで彼や彼女たちが飲むついでのようなものだ。自分で淹れたコーヒーの横に、湯のみ茶碗が並ぶ。
――なるべく、たくさんの人と付き合ってね。顔見知り程度でもいいから。話題に詰まったら、お天気の話でもして。
「いつまでも暑いな」
パン屋で買った厚焼き玉子を挟んだサンドイッチをかじる。年寄りに優しい柔らかさだ。
「でも先生は、いつもコーヒーはホットなんですね」
男子学生は不格好で大きなおにぎりを三個、テーブルに乗せている。
――おなかが弱いんだから、夏でも冷たいものは控えて。
「君らみたいに、体を冷やしてはいられない年齢なんだよ。しかし、おにぎりが大きいね、キヨトくん」
手作りです、と答えると2リットルのペットボトルを傾け、気持ちいいほどのスピードで飲み干していく。
と、ドアに切羽詰まったようなノックがしたかと思うと、女生徒がなだれ込む。
「先生ーっ! 矢ノ浦くんが先生の特製カレー、食べたって本当ですか」
わたしが頷くと、悲鳴とも怒号ともいえぬ声をあげて、女子学生らは不当だと訴えた。
「女子は最低三名でないと、家に上がらせられんよ。しかし、とうめんそれほどの人手はいらない」
以前、カレー目当ての女子学生たちに頼み込まれて手伝ってもらった時は、かしましいこと、かしましいこと。彼女たちが帰ってもしばらく耳が聞こえにくかったほどなので、できればご遠慮願う。
「えーっ! 悔しいーっ! 矢ノ浦、許せん。奴はどこだ!」
「あいつ、今日は午後から」
二個目のおにぎりを頬ばりながら、キヨトくんが答えた。
矢ノ浦氏、命拾いをしたな。わたしはマグカップを傾ける。
「だったら先生、いつかここでカレーパーティーしましょうよ」
おにぎりを食べ終わったキヨトくんが提案する。
「それ! いいこと言う、キヨト。わたし、手伝います!」
威勢よく手をあげる女子が四人……五人。
そんなに勢い込むほどのカレーじゃないのに。
――あら、カレーだけは絶品って言っていたのはだれ?
「あ、あ、わかった、わかった。涼しくなったら……年内にやろう。それより、もう講義の時間だ。準備させてくれ」
はーい! と返事をすると踊るような足取りで、女子たちは去っていった。
「台風一過か……」
「言い出しっぺだし、もちオレも手伝うっすよ。伝説のヤマザキカレー、食べたいっすから」
キヨトくんは飲み終えたペットボトルのラベルをはがすと、両手でボトルを小さくつぶした。力仕事を頼もう。
「教室まで荷物、持っす」
最近の学生は折り目正しい。覇気がないというのかも知れないが、小粒ながらきっちりしていると感じる。
「先生の『平家物語』聞いていて、ほんと不思議なんすけど」
「質問かね」
キヨトくんは、眉間にしわを寄せて細い目をきゅっとつぶった。
「質問ていうか……平家は清盛ひとりがいなくなっただけで短い間に総崩れしていくの、なんていうか」
平家の中で権力争いをする間もなく、源氏に攻め立てられやがて滅亡する。
たった一人が消えただけで、世界が変わる。
和歌子の病気が分かったとき、わたしは何もできなかった。病も余命も受け入れていく君の横で、ただ黙っているしかなかった。唇をかみしめ、こぶしを握りしめ……。
キヨトくん、君はまだ体験していなだけだよ。
キヨトくんに礼を言って荷物を受け取り、教室の扉を開ける。
講義の後は、いつもへとへとになる。
「先生、座って話せばいいのに」
研究室の椅子に座ると、もう動けない。情けないとこだが。
「壇ノ浦だぞ。立ち上がりたくもなるさ」
はいはいと、朝にカレーっっと叫んでいた女子学生が、手際よくコーヒーを淹れて出してくれる。。目の前のコーヒーの香りが研究室のあちこちに重なる古い本のにおいと混じっていく。
「申し訳ないだろう、彼らに」
「そんな、千年前に死んだ人たちなのに」
平家も源氏も彼らからすれば、千年前も昨日も同じことだろう。わたしたちは、知っている。彼らがすべて滅んでしまうことを。歴史の一ページに綴られた記録を知る者として、わたしたちは彼らのことを愚かだとか、憐れだとか思う。けれど、勝者も敗者ももうどちらもこの世にいない。
それは、わたしたちも同じなのだ。
いずれ、こちらからいなくなる。彼らほどの名を残さず。
「先生?」
学生たちの声が遠のく。ふわりと肩に小さな毛布がかけられる。
ちょっと、静かに、なんて声が聞こえる。
それでもおしゃべりの声は高くなる。鍋は誰が持ってくるか、いや先に参加メンバーを募るべきだ、それから参加費を集めて……。
一眠りなどできない。せめてドアを閉めないと嫌みのひとつも飛んでくる例えばーー。
「ほんと、騒がしいな、山崎先生のとこは」
ああ、となりの部屋の川村教授だ。寝たふりを決め込もうかと思ったがそうもいかない。わたしはノロノロと頭を上げた。
「すみません、騒がしくして。ドアを閉めさせますので」
扉のところまで歩いていって、ドアノブを握る。こってりとしたポマードのにおいが川村教授のわざとらしい黒髪からしている。
「まったく、人でなしのくせに、学生には人気があるときた」
閉じていく扉を手で止めて、川村教授がぼそりと聞こえよがしに独り言をする。
「奥様一筋の川村教授にとっては、わたしごときは、薄情でしょう、ええたしかに」
川村教授は眉間にしわを寄せ一気に顔が赤くなる。それを無視して、では、と小さく頭をさげてわたしは扉を閉め切った。
「せんせー、大人げないと思います」
「そうですよ、毎回毎回小言の言い合い」
女子学生たちにたしなめられるも、言い返せずにはいられない。あいつには、長く付き合っている愛人がいることなど、たいがいの同僚たちは知っている。とんだ愛妻家だ。
「それより、カレーの作り方なら、レシピを渡すから君たちで作ればいい」
わたしの提案に、振り返った学生たちが「は?」と口をそろえた。
「あのですね、これは教授が作るからこそ価値があるんです」
「そうですよ、ロマンスグレーでイケおじな教授がエプロン姿で料理するからこそ、価値があるんです」
「ちょっとまて、調理はわたしがやるのか?」
なぜか皆がうなずく。「もちろん、手伝いますよ」とは言うけれどあくまでメインで調理するのはわたしらしい。
下手すると、給食みたいにデカい鍋に大量のカレーを作らされるのか。冷たい汗が背中を流れる。
「……さ、さてもう帰ろうかな。アコ、アコはどこだ。帰るぞ」
わたしは部屋に置かれたアコの定位置、籐の籠に寝ているアコを無理やり抱き上げリードをつける。
「ちょっと教授ーっ。約束ですからね」
ほうほうのていで大学を後にする。レシピを渡すと言ったのに、なぜこうなる。こちらはすでにヨボヨボの老人なんだぞ。
外へ出ると、真昼の陽ざしが照り付けていた。数メートル歩いただけで、汗が体中からどっと吹き出すのが分かる。シャツが汗で湿っていく。黒く短い影を見ながら、朝来た道を引き返す。
アコは七歳だ。人の年齢に換算したら、まだわたしよりは若いか。本当に、犬と自分との年齢の競争だ。自分に何かあったらどうするか、真剣に考えた方がいい。
やはり、アコが生んだ子犬を縁に、誰かしかと付き合いをしていればよかったのだろうか。付き合いか、それも面倒だ。中元やらお歳暮やら、犬の写真入り年賀状やらが発生するのだろう。無理だ。妻がいればこそのお付き合いになってしまう。
まあ、それも「たられば」だ。アコは子を産まなかった。いや、人の都合で産ませなかったのだ。
アコが家から脱走したことがあった。家に来てから一年後のことだった。八方手を尽くしたが、見つからなかった。しかし妻が半狂乱になって探し回った二日後にしれっと帰って来た時には、身ごもっていたのだ。
腹の子をどうするか、二人で何度も話し合った。
妻は、生ませてあげたい。大学の学生たちに知らせれば、きっと引き取り手が見つかるはずだからと。
わたしは言った。引き取り手がそんなにかんたんに見つかるはずがない。見つからず、あげく全部我が家で育てることになる。そんなのは無理だ、と。
話し合いの果てに、アコは手術を受けた。子犬は生まれなかった。妻がアコのたった一度の恋を成就させられなかったことを深く悔やんでいることは知っていた。
時々、アコを抱いてささやいていた「ごめんね」と。
「アコ、足は熱くないか」
犬の肉球を心配するような輩になってしまったが、仕方ない。人間が靴を履いていたって焼けるように熱いのだ。わたしは顔のほてりを感じ、ひたいの汗を拭いた。真昼の暑さをなめていた。もう少し涼しくなってから帰るべきだったか。アコを抱き上げようとかがんだとき、くらっとした。
頭を下げたのがまずかったか、歩道のガードレールに手をかけて立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。地面に膝をついたまま、視界に黒い紗がかかっていく。そういえば、あまり水分をとっていなかったか……。暑いくせに、冷たい汗が全身から流れる。そのまま意識が遠のいていく。
抱き上げ損ねたアコが耳元で鳴いたような気がした。
「だから、夏場は水分をこまめにとってってあれほど言ってたのに。さあ、立って」
どこからか、聞き覚えのある声がする。救急隊員とかじゃないのか。周りが真っ暗でも見えない。ただ、わたしの手をつかむ白い手だけがぼんやりと見える。
「歩いて。ここにいたら駄目だから」
「和歌子、和歌子なのか」
「……チッ、チガイマス」
いや、わざと声を変えようとしているが、たしかに妻の和歌子だ。絵本を読むとき、時々使っていた声じゃないか。
「和歌子さん、山崎和歌子さんでしょう、わたしの妻の和歌子さん」
しつこく尋ねるわたしに、肯定はしないが、あきれたようにため息が聞こえた。
「わたしは死んだのか」
「ちがいます、まだ死んでないったら。歩いて、歩いてここから抜けるの」
ぐいっと手を引っ張られて体が立ち上がる。さっきは足に力が入らなかったが、今はそうでもない。なんとか足は動く。
「死んだら死んだで、もういいんだ。生きていても、いつだって君の声が聞こえる。消化試合みたいな暮らしだ」
手は強く握られた。わたしより小さな手、細い指。繋がれた手が暗闇の中、ぼんやりと光る。
「君が病気になったとき、もっとうろたえればよかった。亡くなったとき、もっと泣けばよかった。犬だってもっとはやくから飼えばよかったんだ。なんでも遅いんだ、取り返しがつかないんだ」
重い足を引きずるように歩く。あまりにも痛いのは、ここがよく聞く針の山なのか。君はこんなところにいるのか。
「病気ニナッタトキ、毎日面会時間ギリギリまでいたと……聞キマシタ。お葬式のあとに一人で泣イテイタトモ、キキマシタ。和歌子は知っていたと……思イマス」
時々まざる変な話し方に、わたしは和歌子が絵本を片手に読み聞かせの練習をしていた時のことを思い出した。桃色の怪獣に奇妙な声を当てて見せていた。いつもわたしは吹き出してしまったいたが、今はなつかしさで胸がいっぱいだ。知らず知らずのうちに、頬に熱いものが伝う。
「誰から聞いたんだ、誰にも話していないぞ」
しばらく返事はなかった。足を進めれば痛みはとれて、徐々に周りが明るくなっていく。ほの暗い闇の中に白い光りがさしていくる。
わたしとつないだ手のさきに、和歌子が好きだった星と月のブレスレットがあった。棺に入れるときに身に着けて見送ったものだ。白い手首の先、細かい花柄のブラウスが見えた。和歌子のお気に入りだった服だ。
細い肩につくかつかないかで揃えられた髪、耳たぶに揺れる誕生日に贈ったトパーズのイヤリング。体の輪郭が光になぞられる。
「和歌子、お願いだ顔を顔を見せてくれ!」
明るさが増す。別れの予感に気が焦る。
「ヨモツヒラサカでは振り返ってはならない」
いきなりイザナギが黄泉の国までイザナミを連れ戻しに来た神話を持ち出すなんて卑怯だ。今のわたしたちは男女も立場も逆転しているじゃないか。
「今はあべこべだろう、ちょっとくらい顔を見せてくれ」
わたしの懇願に、和歌子が足を止める。勢いあまって、わたしは和歌子の背中に顔をぶつけた。ふわりとシトラスの香りがした。妻が好きだったベルガモットの……。
「大丈夫、また飽きるほど見られるときが来るから」
背中を向けたまま、和歌子は顔をぬぐう。ふるえる声は、もう声音を作ってはいなかった。
「それはいつだ、あと何年後だ。それとも明日なかのか、教えてくれ」
もう、いやなんだ。君だけを黄泉の国に残していくのは。
「きっと……そのうち」
「具体的に言ってくれないと困る」
ぼんやりした返答に、わたしが意地になる。
「えっと、あと十年? くらいかな」
「あっ、ほんとは分からないんだろう、和歌子」
まばゆい光りを背にして、和歌子は振り返った。小首をかしげ、ウインクすると小さく舌を出した。いつもの時のように。
「それ、ごまかすときの――」
まるで崖から落ちるときのような浮遊感があってから、急に体がずんと重くなった。
和歌子、と叫んだつもりだったが、現実は咳き込んだだけだった。目を開けると、白い天井が見えて腕には点滴が刺さっていた。首やわきの下が冷やされて気持ちがいい。
熱中症で運び込まれた病院で、わたしは妻とつないでいたはずの手を何度も動かした。
二日ほど、入院してきた。歳が歳だから、慎重に扱われたんだろう。
「おかえりなさい!」
ドアを開けると、ゼミ生ら十数名に拍手で迎えられた。
「元気になってよかったー」
「アコちゃん、よかったね。お父さんだよ」
入院中お世話をしてくれた女子学生が、アコをわたしへと差し出した。
「犬の父親になった覚えはない」
いつもどおり舌を出して息をしているアコを受け取る。
「倒れた教授のために、近所のパン屋さんに駆け込んだんですよ。アコちゃんは名犬です」
たまたま腹がへって、パン屋へ駆け込んだんじゃないか。
「わたしの家にいるとき、教授が心配なのか、あまりごはんを食べなかったんですよ」
いつもと違うフードだったからじゃないか。アコはゼミ室でいつものフードに食いついている。
アコのわがままは、いつも一緒にいるからなんとなく分かる。
わたしと一緒にいる……?
――病気ニナッタトキ、毎日面会時間ギリギリまでいたと……聞キマシタ。お葬式のあとに一人で泣イテイタトモ。キキマシタ――
聞きました、と妻は言った。誰から聞いたのだろう。
わたしはご飯の入れ物に顔を突っ込むアコを見た。
「おまえだろう、アコ」
アコは一瞬だけわたしのほうを見たが、すぐにまたフードにかぶりついた。
アコ、とんだ名犬だな。
「快気祝いに、カレーを作るか」
わたしの提案に反対する学生はいなかった。
いつか、向こう側へ行く。そのときには、また和歌子の顔もじっくりとみられる。こんどは飽きるほど、話をしよう。
その時まで、まだこちらで楽しむことができるだろう。
わたしはアコの頭を撫でた。アコはちょこっと、舌を出して見せた。