プロローグ 夏休みのとある日
新連載です。
お楽しみいただければ幸いです……!
「ねえ愛ちゃん、本当に大丈夫なの?」
綺麗な二重瞼を細め、夕子は困ったように眉を下げる。まるで保育園の先生みたいな微笑みに、愛は唇を尖らせた。
「大丈夫だって。私の見立てが正しければ、この甘さとしょっぱさは絶対スコーンに合うと思うの。ほらソーセージマフィンとかあるでしょ? イメージとしてはあんな感じ。だから大船に乗ったつもりで期待してていいよ」
腰に手を当て、愛はドンと自身の胸を叩く。全身を使ってやる気を表現する愛に、夕子はいたずらっぽく口角を吊り上げた。
「その船沈んだりして」
「縁起でもないこと言わないでよ。絶対美味しいって。上手くいったら一緒に食べよ。ハムとかも用意してあるし、挟んだら結構いい感じになるんじゃないかな」
「上手くいかなかったら?」
「そのときは二人で頑張って食べる」
「もー、それじゃどっちも同じじゃん」
夕子は気をゆるした声を上げると、じゃれつくように愛に身を寄せた。戯れるように肌をなでる彼女の笑い声がくすぐったくて、釣られて愛も相好を崩す。
夕子の身体はふわふわで、少しひんやりしてて気持ちがいい。その肌に思わず顔を埋めたくなる。
窓の外は快晴で、美味しそうな雲がゆったりと流れている。真夏の日差しがガラスをすり抜け、キッチンの明度をぐっと持ち上げていた。一つひとつのことが全部特別なことのように思える。フローリングに落ちた光の眩しさに、愛は愛おしげに目を細めた。
「あっ、できたみたい」
声を弾ませながら夕子がオーブンを指差す。さっきまで不安な表情をしてたくせになんとも楽しそうだ。素直じゃないな、と切り替えの速さにおかしくなる。
ミトンをつけ、愛はオーブンを開けた。焼き上がったスコーンは綺麗な狐色をしていて、胸が高まっていくのを感じる。
この瞬間を刻み込むように、愛は目いっぱいにその匂いを吸い込んだ。鼻腔をとおり抜ける、甘くて、少し獣臭い不思議な香り。これで原材料に羊肉が入っていないのだから不思議だ。でも想像していた以上にいい匂いに仕上がっていた。
キッチンに充満するこの形跡を、母はなんと言うだろうか。まあどんな反応をしようが関係ない。母には今日の夕子との出来事を、あとでちゃんと聞いてもらう義務があるのだ。あっ、母の分のスコーンを残しておくのもいいかもしれない。
耐熱プレートを持ち上げ、愛は夕子に歩み寄る。思わず唾を嚥下したのは、緊張のせいかもしれない。ごちゃ混ぜになった期待と不安が、舌の上にべたりと貼り付いている。
「夕子、食べてよ」
「もしかして毒味?」
「ううん。まずは夕子に食べてほしいの」
上手く笑えてる気がしない。愛の口端がぎこちなく上がるのを見てか、夕子の瞳から揶揄するような色が抜けていった。
「ありがと。じゃあ、いただきます」
熱そうにスコーンを手に取ると、夕子ははふはふとひと口頬張った。その口が咀嚼するたびに、プレートを持つ手に力が入っていく。彼女がいまなにを考えているのだろう。知りたくて、瞳の奥をのぞき込むように前のめりになる。たまらず吐き出した息は熱を帯び、小さく震えていた。
絹のような白さを放つ夕子の喉が上下する。愛は視界のすべてで彼女を捉え、強張る唇をゆっくりと開いた。
「ねえ、夕子」
「ん?」
「美味しい?」
愛の問いかけに、夕子の目線がゆっくりと愛のそれと重なっていく。
優しさを煮詰めたような表情で、夕子は幸せそうに微笑んだ。
☆評価・ブックマークをいただけるとうれしいです。
次話からもよろしくお願いします。