コミックス五巻発売記念:朝焼けよりなお赤い
ふと思いついた、幸生のトマトチャレンジ二年目。
夏野菜がたわわに実り始めた頃のこと。
皆がまだ深い眠りの中にいる夜明け前に、幸生はパチリと目を開けてそっと身を起こした。
ほとんど音も立てずに布団から抜け出すと、寝間着にしている浴衣姿のまま静かに部屋を出た。
幸生は大きな体をしているが気配を消すことは得意だ。そのまま音もなく廊下を歩き、台所を抜けて裏口へと向かう。
音を立てないように慎重に裏口の扉を開くと、まだ真っ暗な庭へと滑るように出ていった。
魔砕村は夏でも朝晩は涼しい。早朝のひんやりとした空気の中を静かに歩き、幸生は裏の畑に向かう。
畑には色々な夏野菜が所狭しと植えられ、収穫されるときを待ち望んでいるかのようだ。
幸生はそんな畑の中、背の高い棚が作られた区画まで来ると静かに足を止めた。
緑に覆われた棚には丸い実が鈴生りにぶら下がっている。葉に隠れるようなそれらをそっと覗き込み、十分な大きさに育ったことを確かめると、幸生はうむ、と頷いた。
そして眉間の皺をぐっと寄せ、今にも怒鳴りつけるかと思うような形相を浮かべて口を開いた。
「……き、今日も、可愛い、な」
ものすごく言いづらそうに、小さな声で囁かれた褒め言葉が、トマト畑に密やかに響く。
「ええと、丸くて、大きくて、形がいい……その、う、美しい実だ、うむ……」
トマトより先に顔を赤くしながら、幸生はボソボソと褒め言葉を重ねた。それを聞いたトマトたちはさわさわと葉を揺らし、幸生の近くのものからボッ、ボッと順番に赤くなっていく。
幸生はゆっくりと棚の間に足を進め、短い言葉を重ねながらトマトたちを不器用に褒めていった。
「ふぅ……今朝はこんなところにしておくか」
棚の間を一往復し、幸生は額に流れる汗を拭って呟いた。
幸生は自分がトマトを不器用に褒めているところを、ヤナを始め誰にも見られたくない。なのでこんな日も昇らぬ早朝に毎日こっそりトマトを褒めているのだ。
ものすごく小さな声で褒めているので、幸生が通っていないところのトマトは青いままだ。
去年は一度に赤いトマトを作りすぎたので、今年は少しずつ赤くするように気をつけている。
もう少しスムーズに言葉が出るようになったら良いのにと思うが、照れくさいのだから仕方ない。
去年までよりはずっと上手にトマトを褒められるようになっているので、とりあえずはこれでいいと考えていた。
赤くなったトマトたちを前に、幸生はさてこれからどうするかと考えた。
空はようやく赤くなり始めたばかりで、まだ時間は大分早い。
今日はこのまま起きてしまうか、それとも布団に戻って二度寝するかと少しばかり迷う。
そんなことを考えて空を見上げていると、不意にすぐ後ろで物音がした。
じゃり、と土を踏む音に、幸生はハッと振り向いた。
「おはよう、幸生さん」
「っ!?」
いつの間に来ていたのか、幸生の後ろで微笑んでいたのは寝ているはずの雪乃だった。
雪乃は目を見開く幸生にくすりと笑い、すぐ側まで来てその顔を覗き込むように見上げた。
「最近、よく夜明け前に起きだしてるみたいだから、何してるのか気になってたのよ」
「う、む……その、な」
幸生の目がうろうろと泳ぐ。浮気現場を見つかった男のような反応に、雪乃は可笑しそうに目を細めて、その分厚い胸を指先でツンと突いた。
「ね、幸生さん。たまには私にも、あんな褒め言葉をくれてもいいのよ?」
「んなっ!?」
「トマトたちばっかり、ずるくないかしら。ね?」
雪乃はそう言いながらトマトたちをちらりと見て、それから可愛く首を傾げた。
愛しい妻に可愛く強請られ、幸生の首から上はもはやトマトよりも赤い。
幸生はしばらく黙ってだらだらと汗を流し、そしておもむろに両手を持ち上げ、手の平でそっと自分の顔を覆った。
乙女のように顔を隠しながら、幸生は少しばかり身を屈め、小さな小さな声を零した。
「……いつも、雪乃が一番、き、綺麗で……可愛い」
蚊の鳴くようなその声は、しかし確かに雪乃の耳に届いた。朝焼けよりも晴れやかな笑みを浮かべ、雪乃は幸生の頭にそっと手を伸ばす。
そんな二人の姿を、トマトたちだけが静かに見つめていた。
「むっ……! このとまと、なんかいつもとあじがちがう!」
その日の朝食の席で。
朝採りのトマトを口に運んだ空は、ハッと目を見開いてそう口にした。
「あら、美味しくなかった?」
雪乃が問うと、空は違うと首を横に振る。このトマトは幸生が褒めたトマトくらい甘いのだが、酸味も結構あるので味がはっきりしていて、全体的にすごく旨味が濃い、という感じがするのだ。
「ものすっごくおいしい! でもなんか、じぃじがほめたいつものより……こう、あまずっぱぁい! ってかんじ?」
その言葉を聞いて幸生がそっと視線を逸らす。
雪乃はにこにこと機嫌良さそうに微笑み、「美味しいならいいんじゃないかしら?」と原因は追求しなかった。
「そうだね……あまーい、っていうかんじのも、あまずっぱいのも、みんなおいしいからいっか!」
「……うむ」
空が褒めたトマトとも幸生が褒めたトマトとも違う、謎の第三のトマトは、それはそれでとても美味しかった。
そしてその後。
「なぁ幸生。お前んちのトマト、めちゃくちゃ美味いんだけどなんでだ? 何か育てるコツとかあんなら教えてくれよ」
「確かに……特にこのものすごく甘いやつは俺の好みだ。あと、こっちの甘酸っぱいのは楓が好きそうだな。うちでもトマトは育ててるが、こんな味にはなんねぇな」
「……」
酒でもどうだと訪ねて来た和義と善三は、つまみの一つとして出されたトマトを食べて口々に褒め、そして育て方を聞いてきた。
トマトの種類か、肥料か、それとも褒め方か?
そう問われ、幸生は貝のように口を噤んだ。
二人は美味しいトマトの秘密をしきりに知りたがり、雪乃やヤナにも問うたが二人は笑って首を横に振るだけだった。
結局何と言われようとも、幸生はこれに関してだけは絶対に口を開かなかった。
その代わり、善三は日頃の礼にと、ついでに和義も美味しいトマトを沢山分けてもらい、少々残念がりつつも嬉しそうに帰っていったのだった。
しかし、実は意外なところでその秘密の一端を知る者が現れていた。
「そんでね、たいぞうにいちゃん。ぼくんちのとまと、いろんなあじがするんだよ。どんなかんじでまぜたら、おいしいとまとそーすになるかなぁ」
「えー? トマトなんてどれもそんな大差ないだろ……」
「ぜんぜんちがうよ! ほら、みてみてよ!」
夏野菜や果物の査定に走り回って疲れ果てた泰造は、今日はそちらを休んで保育所に来ていた。保育所で子供に囲まれるのも疲れるが、気分転換にはなるからだ。
空の十時のおやつにいつものように付き合えば、少しばかり息抜きも出来る。
今日のおやつはおにぎりと、朝採れのトマトやキュウリだった。空は三種類のトマトを入れてもらった弁当箱を開き、それらを泰造に見てもらった。
「えーと、これは普通に美味いやつかな。糖度もまぁまぁ……空が褒めたヤツだな?」
「なんでわかるの?」
「備考欄に、『子供って可愛いよね!』って書いてあるから、多分?」
「……とまとのかんそう?」
「さぁ……何なんだろうなコレ。知らないし、知りたくないな……」
何事も見え過ぎる男はそう言ってトマトから目を逸らす。しかしそんなことを言われると空はますます気になってしまう。
「じゃあこっちは?」
泰造の腕をぐいぐい引いて視線を戻させ、空は次のトマトを指さした。
「これは空ではないっぽいかな。糖度は十六……たっか! 何これ果物!?」
「びこうらんは?」
「えーと、『不器用な褒めにしかない栄養がある』だとよ」
「あー……りかいした!」
「そうか……良かったな」
何を理解したのか知りたくない泰造はそれだけ言うとまた目を逸らした。
「さいごのもみてよ!」
「ハイハイ。えーと、こっちは糖度はさっきのと同じくらいだけど、酸味も強いっぽいかな。備考欄は……『てぇてぇものを見た……』って、何だ? 何言ってんのかわかんねぇな」
「てぇてぇ……んーと、とうとい、かなぁ?」
「どっかの方言か何かか?」
「さぁ……」
泰造の疑問に微笑んで首を傾げ、空はそっと誤魔化した。
一体トマトたちが何を見たのか、残念ながらその備考欄だけではわからない。
幸生の秘密はどうにか守られ、このとびきり甘酸っぱいトマトはこの後も気まぐれに採れることになったのだった。
幸生の一年目のトマトチャレンジは書籍の二巻に収録されています。
本日発売のコミックス五巻にも、オマケとしてコミカライズされてますので、そちらもものすごくお勧めです!
どうぞよろしくお願いします!




