貴女に触れたくて~記憶喪失『幸せとは』~
「愛してる…結婚しよう」
彼女を抱き締めて、出立前の夜約束をした。
「はい…ずっとあなたの傍にいたい」
薄い茶色い髪の長い髪が風になびき、潤んだ蒼い目が僕を見つめている。
「ああ…嬉しい。こんなに幸せな気持ち…嬉しい」
隣同士の領地。18歳の僕と15歳のブランシェス。幼馴染みとして、幼少期から僕の学園卒業間近まで共に過ごしてきた。
僕はブランシェスだけをずっと想ってきた…学園在籍時に隣国と戦争になり、半年間戦いに行くことになったが、彼女はずっと待ってくれた。
明日、帰れる…やっと結婚できる。
婚約指輪に触れ、彼女への想いを反芻する。
ドドドドーン!!!爆音と共に地面が揺れ、あちこちで大声が聞こえてくる。
立ち上がろうとした…その瞬間。暗転した…。
*********************
「ねえジーク様、週末カフェに行きませんか?」
騎士団の練習場に見学に来た伯爵家御令嬢が声を掛けて来る。
「まあ、ジーク様はお疲れなのですから!私と湖に行くことになっておりますのよ」
侯爵家御令嬢が周囲の令嬢達を牽制している。
「あ~あ、またジークが食い散らかしているよ」
騎士仲間が笑い、からかってくる。
「疲れてはいませんが…御約束を先にしている御令嬢と週末を過ごす事をお許し下さいますか」
藍色の目を令嬢達に向け、微笑む。
「きゃああああ~」
黄色い声で興奮した御令嬢方の声が周囲に響く。
*****************
「ジーク様~素敵な景色ですわね。ふふふ、そしてジーク様も素敵です。」
御令嬢が腕を絡め歩みを進める。
湖の周辺には恋人同士や幼い子を連れた夫婦がゆったり静養している。
ドン!
突然、横から足元に誰かがぶつかり、転落しそうな小さな子どもと気が付き、受け止めようと抱えたがバランスが取れず後頭部を打ってしまった。
「きゃああああー!ジーク様!」
女性の悲鳴が聞こえてくる…ああ、起き上がらなくては。
周囲に人が集まり、手を貸してくれる。
「大丈夫か?医師を呼ぼうか?」
40代後半辺りの優しそうな紳士が声を掛けてくれる。
「ああ…はい、大丈夫そうです。御親切にありがとう御座います」
御礼を述べつつ、ゆっくりと立ち上がった。
「ジーク様…大丈夫ですか?」
「あなた!なんて失礼な!!この方に無礼ですわよ!」
御令嬢は2~3歳位の男の子に激昂している。
「ご…ごめんなさい…」
おびえた涙声で謝る可愛いらしい子ども。
「ジョシュア!離れちゃ駄目だとお父様から言われていたでしょ。何をしてしまったの?!」
母親だろうか…若い女性が走って来た。
「お母様ですか!?この子が『ブ…ブランシェス…』」
突然、頭の中に濁流のような記憶が入り込んで…
「ふふふ…ブランシェスは可愛いね。こんなに素敵な君とずっと過ごしたいな」
柔らかく艶のある彼女の髪を指に絡ませて、じっと目を見て微笑みながら、甘い甘い言葉を溢していく。
学園の制服をお互いに纒ながら、庭のテラスでランチを摘まむささやかな一時。
「ジーク…ここは人が少ないといっても恥ずかしいから。止めて頂戴。今は卒業パーティーに着る衣装の相談をしたいのよ。あなたの傍にいても相応しい格好をしたいの」
頬に朱を浮かべつつも、どこか嬉しそうな表情の君…。
甘い雰囲気から一転…場所は…ああ、戦争に行くことが決まった事を彼女に告げた日…。
「ジーク…ジーク、ずっとあなたを待っているわ。あなたの無事を毎日祈っている。でもね…本当は、傍にいたい。あなたと毎日過ごしたい…」
止まらない涙を流し、慟哭に胸を押さえ必死に言葉を綴るブランシェス…ああ、哀しみにくれる彼女もなんて綺麗なんだろう。
「どうして!どうしてなの!!」
「なんで…なんで忘れてしまったの…」
「思い出して…忘れるなんて嫌よー!嫌!嫌ーーー!!!」
痩せてしまったブランシェス…また泣かせてしまった。忘れる?忘れてしまった…?何を?…なに…。
「…さよなら…ジーク。愛してる。…愛してたわ」
「結婚が決まったの…私の両親も、あなたの御両親も婚約を解消を決めたわ…もう終わりにしなさいと…」
「本当に本当に…愛してた。本当に…とても好きだった」
「あなたの子どもを産みたかった…あなたの傍で生きて生きたかったのに…戦争のせい。あなたが悪い訳ではないのは分かっている」
「あなたが…記憶喪失になって3年…待てなかった私が悪いのよ」
痩せてしまったブランシェス…もう涙は流していなかった。婚約指輪を返され手の平に置かれるけれど、立ち去る彼女に何の言葉も発することなく…ああ、あの指輪…どこに置いてしまったのだろうか…。思い出せない…思い出せ!!!!!
「ブランシェス!!!!」
目を見開きお互いの視線が絡み合う。絡み合い、息ができない。
あああ、何で彼女を忘れていたのだろう。今の今まで!!!
手の震えが止まらない…呼吸を忘れてしまったかのようだ。
どうにか声を、声を出さなきゃ駄目だ。
「ブランシェス…ブランシェスだろう?僕だ…僕だよ。ジークだ」
あああ、やっと…やっと言えた。
何故、何で彼女を忘れていたのだろう。
自分の命よりも大切で、大切にしていたのに。
指折り結婚を数えていた存在なのに。
好きという感情も愛してるという感情も全て彼女から学んだのに…どおして。
「ジーク…ああ、あなた記憶が…記憶が戻ったの?……やっと思い出したのね。ええ、ブランシェスよ」
悲しげに憂いた目で言葉を紡ぐ彼女の表情は固く、とても苦しそうだった。
「ねえ、ジーク…あれから何年たったかしらね。苦しくて、悲しくて…この世界からいなくなりたい程絶望したの」
「あなたの記憶が戻るのをあなたの傍で待ちたかった…けれど…私を思い出すことなく…3年間。3年あなたは大勢の恋人を作ったのよ…」
「あなたと私の両親は、何度も何度も婚約破棄を薦めて…3年だけ待ってくれたわ。けれど…あなたは私を思い出すことが出来なかった」
「身を裂かれる程、辛かった…ボロボロの私を今の夫が支えて傍に寄り添ってくれたのよ」
少し微笑んで、目の前の子どもと視線を合わす。
「この子はね、今の夫と私が愛する子どもよ」
「今は、あの辛かった過去も過ぎ去った思い出も…若かった頃の記憶として向き合えるようになったの」
彼女は過去を思い出しながら、言葉を綴る。
「だから…あなたが私を思い出すことは…あなた自身を苦しめるかもしれない…私は、私を思い出した、あなたに会えて…やっと終わらせることができる」
「ジーク…今までありがとう。大好きだった」
「そして…さようなら」
「あなたの幸せを祈っているわ」
彼女は微笑んで別れの挨拶をすると、子どもを抱っこして何事もなかったかのように、子どもと会話をしながら去っていった。
少し離れた所に、彼女の夫だろうか…彼女と子どもごと抱き締めて歩き去っていった。
僕は、力が抜け落ちたように地面に膝をつき、動けなくなっていた。
*****************
ああ、あれから何十年経ったのだろうか…僕は、歩み始めたであろう彼女との関係が既に破綻していた事実を受け止めることが出来なかった。
騎士団では常に前線に出してもらい、死に逝く無謀な闘いを挑んでいった。死にたかった…けれど、死ぬことなく武勲をあげ続けていった。
季節が何度も何度も変わって…彼女の子ども達は巣立ち、彼女は大勢の孫に囲まれて…彼女は天寿を全うして逝った。
ああ、彼女は家族に恵まれて、幸せに逝ったんだな…。
時々、社交界で彼女や、その家族を見掛けた。彼女は僕と目が合うと、ちょっと微笑んで会話することなく去っていった。
ああ、僕の幸せな記憶は幼い時、君と過ごした日々だった。一緒に花を摘み、一緒に学校に通い、一緒に衣装を合わせ、一緒に指輪を選んだ。
ああ、なんて素敵な日々だったのだろうか…あの時、当たり前のように過ごした毎日。
大好きだったよブランシェス。
普通の…たわいもない日常が、本当に幸せだったのに。
君と結婚したかったな…君と一緒に人生を歩みたかった。
愛してたよブランシェス。
君を苦しめて、本当に本当にごめん。
あの日、記憶を失って…本当に本当にごめん。
なんで、思い出せなかったのだろう。
時間はあったのに…。
なんで…君以外の女性と過ごしてしまったのだろう。
君以上に素敵な女性はいなかったのに…。
ああ、ゆっくり意識が落ちてきた。
ようやく…眠りにつける。
僕は、永遠にブランシェス…君を愛している。
(完)