⑤これにて、お仕舞い
(1)
翌日、朝早くの事である。
吉原の針子、おかねが、少々高級な着物を扱う古着屋の者達を引き連れて、長屋を訪ねてきた。
おかねは、着物の修繕などを専門としている女なので、色は売らない。
だから、吉原大門から自由に出入り出来る。
お春とは、呼び出しになる前から、仲の良い女である。
今日は、お春が、吉原時代の着物売却を事前に頼んでおいたのだ。
古着屋が品物の査定をしている間、おかねはお春に。
「花風……いや、お春さんだっけ。もう、いっぱしの女将さんって感じだね~」
お春は微笑み、
「ありがとう、何とか落ち着いたわ」
と言いながら、お茶を出す。
「まだ、何日も経って無いのに、言葉も直しちゃって」
「あの時はご免なさいね。付き合わせて」
「いいのよ。こうなってくれれば、私も手伝った甲斐があるってものよ」
既に翔吉は、おかねに挨拶した後、仕事に入っている。
暫く話していると、
「おかねさん、終わりました」
古着屋達は代金と引き替えに、着物を持って出て行った。
「じゃ、おかねさん」
お春は素早く金を紙に包み、おかねの胸元に滑り込ませた。
「あら、いいのに。でもありがとう」
おかねは満面の笑みである。
「感謝の気持ちよ」
お春は部屋が片付き、晴れ晴れとした気分でお茶を啜る。
するといきなり、おかねが顔を上げ、
「あ、忘れるとこだった。知らせようと思った事が!」
などと、大声を上げる。
さすがにお春も、少々驚き、
「なあに?」
と、眉を寄せ、目を細めて聞くと、
「あのさ。あんたを受け出そうとした、あの旗本。覚えてる?」
突然、意外な事を言うものだから、お春は途端に咳き込み、同時に翔吉の槌が止まった。
晴れ晴れとした気分など、いっぺんに吹っ飛んでしまった。
「いやだ、おかねさん。何言い出すの」
お春は、翔吉にちょっと目をやりながら小声で、
「あの五百石の殿様でしょ。おかねさんも知ってる通り、一番初めに断ったけど、今頃なんなの?」
するとおかねは、真剣な顔で、
「ちょっと前に、その家来達が見世に押し寄せてさ。病気なんて嘘だろうって、大騒ぎだったのよ!」
「え~!」
お春には、その光景が脳裏に浮かぶ。
「そりゃ病気っていうのは、その通りだけど。だからって何だって言うのよ?」
「今後は、我が殿が世話したいので、今すぐ呼んで来いってさ」
お春はあまりの事に目を曇らせ、がっくり肩を落とした。
「何と言う事を……」
と俯き、着物を握りしめる。
おかねは、更に、
「当たり前だけど、見世は知らぬ存ぜぬさ。ただね」
「ただ何」
「どうも、あちこち探し始めたみたいなんだよ」
お春は、両手を畳に着け、言葉が出ない。
肩が微かに震えている。
「最後に会ってたのが旦那さんでしょ。錺職人だ! って探してるみたいなのよ」
仕事を止め、黙って話を聞いていた翔吉が、立ち上がって近づき、お春の肩にやさしく手を置き、隣に座った。
「私が手掛かりになったんですね、おかねさん」
おかねは苦笑いで、
「あら、ごめんなさいね。まだ旦那さんが誰なのかは分かってないみたいだけど」
翔吉も笑って首を振り、
「いや、いくらもしないうちに分かるんじゃないかな」
お春に笑いながら、顔を向け、
「ほら。こういうことになったでしょ」
その言葉には、お春は、さっと両手を付き、
「申し訳ありません」
今にも泣きそうな顔である。
「いいんだ、覚悟はしてたから」
おかねが、帰り仕度をしながら、
「じゃ私はこれで。あいつらの様子が分かったら、すぐに来るから」
と言って、立ち上がると、
「ああ、わざわざありがとう。無理しないでね」
と、お春はおかねを外まで送った。
戻ったお春に、
「さてと。どうしようか」
翔吉が静かに言った時、また障子が開いた。
「夕飯どうする?」
おさわが光太を連れて入ってきた。
「お姉ちゃん~」
光太は、早速、お春の膝に座る。
「光ちゃん、いらっしゃい」
と、優しく言ったものの、お春の顔は暗い。
おさわは、二人の、その妙な空気に気付き、
「何、喧嘩でもしたの?」
翔吉が首を振って、事情を説明した。
おさわは苦笑いで、お春に、
「ほ~、あんたにしちゃ、手抜かりだね」
お春も落胆した様子の顔で、
「はい。ここまでされるとは……」
「で、どんな侍なのさ?」
おさわが聞くと、お春は光太を抱きしめ、
「一度、顔を合わせただけの人なんですよ」
おさわは眉を寄せて、
「え、それって初会って事?」
「そうなんです」
「あそこで初回って言ったら……て事は、振った客って事?」
おさわは呆れ顔だ。
お春は虚空に目を向け、
「私が相手しないもんだから、他の妓に鞍替えして。それだって掟破りなのに、旗本の癖に、払いも悪い。付き馬さん行かせても知らぬ存ぜぬです」
おさわは興味深そうに、
「それで、どうなったんだい?」
「どうもこうも。そうなると終いには引負い(代理弁済)がその妓にかかるでしょう。私はその妓に押し付けた様なもんだし、あまりに気の毒だから、代わりに払ってあげて、それと引き替えに、出入禁止にして貰ったんです。ところが今度は、どこから聞きつけたのか、私の年季が近づくと身請けするなんて言ってきて。さすがに見世の親父様も怒って、訳の悪い客が何言ってんだ! って。私より見世の方が真っ先に断ったんですよ」
それを聞いて、おさわと翔吉は、さすがに大笑いだ。
「とんでもないね~忘八にさえ、叱られるってんじゃ。恐らくあんたの年季が明けたから、金使わなくて済むって算段じゃないの?」
忘八とは仁・義・礼・智・信・孝・悌の八つの徳目を全て失った者を指す。
通常は、廓通いの者。転じてこの頃は、遊女屋の主人と言う意味である。
お春は少々憤然として、
「旗本じゃ無かったら、逆さ桶の檻に入れられてるところです」
お春は、座りながら抱いている光太の頭に頬をのせ、ため息をつく。
横で話を聞いていた翔吉は、苦笑して、
「おさわさん。何だか遣り手と女郎の世間話みたいだよ」
と言うと、おさわも、
「あら、地が出ちゃった?」
また大笑いだ。
そして、翔吉はお春に、
「しかし、思っていた事とは丸っきり違うなぁ。そういう事なら大家さんに届けも出してるし、何も逃げる事は無いとが思うんだが……」
するとその時だった。
突然、障子がパン! と勢いよく開いた。
「ホントに病気になっちまえばいいんだよ!」
勘太が入ってきて、胸を張って、言い放つ。
驚いた翔吉は、目を丸くして
「いきなり現れやがった」
呆れた様に笑い出す。
しかし、おさわは眉を潜めて、
「今日は休みよ。あんた聞いてたの? 全く何してんだか」
その言葉を無視して、勘太はズルズル入ってきた。
「明日をも知れぬ病気になるしかねえ。と思うぞ、おりゃ~」
と、言うのだが翔吉は、
「そうは言ってもよ。そういう連中じゃ、引き摺っても連れて行きそうだし」
さすがに困った顔をしている。
お春は仕方が無いと言う面持ちで、光太をあやしている。
おさわが、睨み付けるように、
「も~あんた! 考えがあって言ってるんでしょうね」
勘太はニコニコして、顎をあげ、
「あたぼうよ。俺に任せとけ!」
自信満々の顔で言ってのける。
もちろん、他の二人も懐疑的である。
しかし、もはや、藁をも掴むという立場のお春は、
「こうなってしまっては、お頼りするほかありません。何卒お願いします」
悲しげに、勘太に頭を下げた。
「だいたいな。身請けなんざ、犬猫貰うのとは訳が違う。そんな事も分からねえ、奴らの思い通りなんかにさせるかよ!」
何だか、心の底から出たような強い言葉に、翔吉は反応する。
「ん? どうした?」
それには答えず、
「じゃ、任せときな。面白くなってきた!」
叫んだ勘太は、おさわの「どこに?」
の言葉を背に出て行ってしまった。
翔吉は勘太の、妙に入れ込んだ様子が疑問だった。
おさわにどういう事だと聞くと、おさわは渋い顔で、
「あの人は、蜜柑駕籠(捨て子)だったのよ」
その言葉には、さすがに翔吉も驚く。
お春も、目を大きくして、おさわを見つめている。
「初耳だ。確か私と同じで、早く死に別れたって聞いたぜ?」
「生き別れなのよ。まだ赤子の時、一石橋の袂に捨てられていて、今の棟梁の家に拾われたんだって」
それには翔吉も、
「そうなのか……」
暗い顔で、腕を組む。
「たぶん、大人の勝手な考えで、人生を変えられるのを見るのが、たまらなく嫌なんでしょ」
おさわの言葉に、お春は、
「そんな風には、全然見えませんけど……」
意外な面持ちだ。
しかし翔吉は、一転、眉を寄せ、
「まあ、あいつも苦労したんだな。とは思うけどさ。でも、それとこれとは話が別だぜ~。彼奴、ちゃんと目論みあって言ってるのかな?」
しかし、それには、おさわも素っ気なく、
「残念ながら、それは請け合いかねます」
と、ニッコリ笑い、翔吉は肩を落とす。
(2)
それから、それ程間を置かず、今度は入れ替わりに、紀州屋の主人夫婦がやってきた。
翔吉が、驚いて出迎え、
「旦那さん。女将さんまで……」
挨拶すると、お春も光吉をおさわに渡し、挨拶して座敷に招き入れた。
お春の前に座った女将のお滝が、おさわには軽く会釈し、
「あなたが有名なお春さんね。今後ともよろしくね」
笑顔で言うと、
「有名だなんて。こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」
頭を下げ、うっかり、
「旦那様もお久しゅうございます」
と、言ったものだから、仁左衛門と翔太の目がつり上がったと同時に、お滝の目が険しくなった。
「あんた、お春さんと会うのは初めてだったよね?」
刺々しく仁左衛門に言うので、さすがにお春も、事態に気付いた。
「い、いえ、女将さん。昨日、道端でお会いしましたの。ねえ翔吉さん」
「おおおう、旦那さん。忘れちゃ困りますよ~」
仁左衛門も慌てて、
「あ~ そうだったね」
と、何とか口裏を合わせる。
しかし、お滝は眉を寄せて、
「お春さん、さっき久しぶりとか言わなかったかい?」
「え? あ、はい昨日からと言う意味でございます」
かなりの動揺で言い訳していると、また障子が開いた。
おさわの、
「あ、お梅ちゃん」
と、言う言葉に、
「え? お梅?」
お滝以外は、一斉にそちらを見た。
見られた、お梅は立ちすくみ。何だか分からない重圧を浴びて、目がキョロキョロしている。
お春が、その勘違いに気付き、
「長屋に住む、娘さんなんです」
おさわと併せて紹介した。
お春は、微笑み、
「こっちにおいで」
小声でお梅を呼んだ。
翔吉と仁左衛門は胸をなで下ろしたが、お滝は、
「どうしたの二人とも?」
翔吉は、それには答えず、
「あ、そうだ。今日はお二人揃ってどうなさいました?」
仁左衛門も気を取り直して、
「あのさ。今日の朝方、どこかの家来だっていう二本差しの連中が来てね。私は隠れてて手代に相手させたんだけど、お前さんの家を教えろって言ってきたんだよ。知らないと言わせたけど、何だか剣呑に思えてさ。急ぎ知らせなきゃって事で出ようとしたら、この人も付いてきたって訳」
翔吉とお春は、それを聞き、
「それはそれは。誠にご迷惑をおかけし申し訳ありません」
仁左衛門が、
「お春さん。ありゃ、(身どもらが又きんしたと禿言い)って奴らかい?」
少し剽げてお春に聞くと、暗い顔で首を振り、
「いえ、浅黄裏ではございません。野暮だ何だと言われてはおりますが、ああいう人たちは、馬鹿にさえしなければ無体な真似はしないもんです。ところが旗本は、半可通の癖に、大尽気取りだから始末に負えません。そういう人達です」
少々強い口調で言った横で、おさわは大いに頷いている。
おさわが居た品川は、場所柄、参勤で江戸に来た侍の昼客が多いからだろう。
田舎者で、無粋の代名詞(浅黄裏)などと呼ばれてしまうその侍達だが、門限を破ったり騒ぎを起こすなど、発覚したら死活問題になりかねない。
粋とは言えぬ客だが、上客の部類なのだ。
遊び慣れた仁左衛門だから、その辺は承知していて、
「旗本かぁ。言われてみれば、そんな感じの連中だった」
しかしお滝の、
「とはいえ、やっぱり、お旗本相手じゃ、厄介至極よ」
という言葉を聞くと、これにも同意せざるを得ない。
お春は、事の顛末を説明し、
「やっと馴染んで来たこの生活を手離したくないんです。仕方がありませんので、お話しして納得して貰うしか」
と言うのだが、お滝は、
「連中。それで、引っ込むかな」
一同、頭を傾げ思い悩んでいると、勘太が一人の男を連れて、再び部屋に入ってきた。
おさわがその男を見て驚く。
「あれ? あんた役者の助三さんじゃない」
するとその男は、眉を寄せて、
「その名は止めて。アタシは六助」
少し、ナヨナヨとした男である。
本名は六助なのだが、助六役者より、三段は落ちる役者という意味で、周りからそう呼ばれてしまっている。
勘太は、六助を指さし、
「こいつは湯島でやってる宮芝居の役者でね。ちょうど良かったよ。月末で芝居が無えから」
宮芝居(宮地芝居)というのは、いわゆる江戸三座の芝居小屋ではなく、神社仏閣の境内で行われる小芝居の事である。
翔吉は怪訝な顔で、
「一体、どういうことだい? 何を企んでんだよ」
不安そうに問いかける。
「さっき言っただろ、お春さんには病気になってもらうのさ。助三は女形で裏方もやってるから、こいつに病人の化粧をしてもらうんだ」
あまりに突飛な事を言うものだから、
「え~」
一同は驚いた。
「それも、人三化七にね~」
勘太は、皆を見回し高笑いだ。
しかしそこで、
「ちょっと待ちなさい!」
と、六助が機嫌悪そうに、
「あたしは、このアホ大工が化粧道具持って一緒に来い。なんて言うもんだから訳も分からず来てんのよ! ちゃんと訳を話して頂戴」
怒って言うものだから、おさわが笑って、事の次第を話してやった。
すると六助は眉を寄せ、
「そりぁ、真面な事? そいつはいけ好かないね。事に相手が侍とあっちゃぁ、尚更だぁね」
すると勘太が、
「翔さん、こいつに後で手間賃払ってやってくれよ、貧乏役者だからよ」
翔吉に頼むと、六助は手を振りながら、
「この人が、吉原の呼び出しだったっていうお春さんね」
興味深そうに、お春の顔を繁々と見る。
お春は、若干、ぎこちない微笑みで挨拶した。
「うん、噂通り確かに別嬪ね。本物の呼び出しに、化粧出来るなんてありがたい限りよ。実は私ね、今度の盆興行のために考えていた事があるのよ。それをやらせてくれれば、銭なんざいらないよ」
と、早速お春の前に座り、持参した化粧箱らしきものを開けてゴソゴソし始めた。
勘太は、傍に居たお梅に、
「やっぱり、みすぼらしくしなきゃなんねえだろ。おかあちゃんのすごく汚い着物を一枚借りて来てくんねえか」
と頼むと、六助が、
「あっ、それとね。柔らかい飯を少しで良いから探してくれる? それと、あたり鉢(擂り鉢)とあたり棒もお願い」
「はぁい!」
お梅は、何が始まるのか興味津々の様で、嬉しそうに飛び出して行った。
そして六助は、
「それと誰か燭台と蝋燭。あと小さな太鼓みたいな物、用意してくれない?」
周りに頼む。
勘太が不思議そうに、
「燭台と太鼓だって? 何すんだそんな物」
「あんたみたいなアホ大工にゃわかんないわよ。さっさと探しておいで!」
すると、
「よし、それは私が探してくるよ」
なんと、仁左衛門が引き受けてしまったので、翔吉が慌てて、
「なにも旦那様まで」
「良いんだよ、近くに知り合いの店もあるし。何だか面白くなっちまったからね」
旦那夫婦揃って出て行ってしまった。
翔吉は苦笑いで、
「ああ、行っちまった。有り難いんだけど大丈夫かな」
心配そうに呟いた。
お春が準備している中、翔吉と勘太達は外へ出て、長屋に住む者を呼び集めていた。
「悪い侍が、お春さんを無理矢理連れて行っちまうかも知れねえ。みんな悪いが、手伝ってくれねえか」
言った横で、翔吉が深々と頭を下げる。
以前、お春に文句を言っていたおかみさん連中なども、半襟つけて集まって来る。
そんな中、お梅が着物とお椀に入れた白飯などを持って、連中の間を突っ切って、長屋に戻ってきた。
六助はお梅に、ご飯を摺って糊にしろと頼む。
それは直ぐに出来上がり、お梅は六助に、
「こんなんでいいですか?」
「はいありがとう。じゃこの扇子で、お春さんの顔に向けて優しく仰いでちょうだい」
と、白扇をポンと投げ渡した。
六助は、既に青白い顔になっているお春に、
「知り合えて良かったわ、役者は吉原には行けない事になってるからさ。今度色々教えてね」
静かに語りかけ、お春が頷こうとしたところに、飯で作った糊を、顔に容赦無く塗りつけていく。
そして鼻歌の様に、
「この五丁町に脛を踏み込む野郎らは、俺が名を聞いておけ♪ 大江戸八百八町に隠れもねえ、杏葉牡丹の紋付も桜匂う仲之町。花川戸六助とも花風の六助ともいう若え者……何てね~」
などと、助六の台詞を、機嫌良く口ずさみながら整形していく。
そして、仕上げの化粧を施すと、
「ほれ、面相拝みやがれ!」
と、周りに言い放った。
どうやら完成した様だ。
その出来上がったお春の顔を見て、おさわは口に手を当て、
「いや~すごいね」
と、感嘆の声を上げる。
既に戻っていた、旦那夫婦の女将お滝も、
「このまま芝居に出れるんじゃないの」
などと笑って言うので、お春も鏡で出来映えを見た。
すると、思わず息を飲み、
「ひゃぁ。今まで綺麗になるための化粧はしてきたけど、お化けになっちゃったのは初めてよ!」
と、何やら嬉しそうだ。
「じゃ、そのボロを着させてあげて、それと雨戸締めて、燭台の準備よ」
六助が、号令を掛ける。
そして、お春に、
「お春さん。侍達が居なくなるまでは廓の言葉で。いつもより半分の大きさの声で喋ること。分かった? あとお梅ちゃんは、部屋の陰から、その太鼓に布かぶせて、その上からゆっくり小さく叩きなさい。ド。ド。ドって調子でね」
お春とお梅は、大きく頷く。
着物を着せられたお春が、横になろうとした時、おさわが突然、
「ちょっと待って、お梅ちゃん。水一杯持ってきて」
それを受け取ると、
「お春さん、目をつぶって。ちょっと我慢してね」
水を口に含み、お春の顔から着物まで霧を吹いた。
六助は、笑顔で、
「おお、本水は良い表現ですねぇ」
と、感心し、
「お春さん。それを引っ掛けてやりなさい。みんなは、うつるうつると言ってやればいいんだよ」
怪しげに笑った。
するとそこに、吉原のお針子、おかねが飛び込んで来た。
しかし、お春の顔を見た瞬間。
「げ!」
と声を上げ、危うく気を失いかけたが、同時に入ってきた翔吉と勘太が背中を支えると、何とか気を取り戻し、
「し、お春さん、あの連中が、も、もうすぐ来るよ」
震える声で教えてくれた。
「ありがとう、おかねさん」
それを聞いた勘太は、
「いよいよ芝居の始まりだ! さあ、脅かし役は外に出て!」
翔吉も腹をくくった様だ。大きく頷いて、外に出た。
勘太は、外の皆に向かって、
「みんな聞いてくれ! お春さんは明日をも知れぬ身体だ。それを腹に入れて、それぞれ勝手に悲しんでくれ。頼んだぜ」
翔吉も真剣な顔で、
「すみません。どうか私の女房を助けてやって下さい」
と言った後、地に手を突いて懇願した。
幼い光太も、何故か翔吉と一緒に手をついている。
外に出てきた、おさわが、
「いい、お春さ~んって、涙流す振りしてくれりゃいいから!」
と言った時、向こうの方から近づいてくる、侍らしき人影が見えた。
「来たよ!」
身なりの良い武士が、大股で、三人ばかりやってきた。
おさわが真っ先に、
「可哀想にね~」
悲しそうに、大声を上げる。
それに、つられてみんなも「お春さん~」とそれぞれ声を上げ出し始めた。
翔吉は唾を目の下に付け、その侍達に寄って行く。
「これはお侍様方、この様な所に何か御用でござりましょうか?」
フンフンと、鼻を鳴らしながら聞いた。
侍達は、いきなり妙な雰囲気の連中に取り囲まれ、些か気味悪さを感じていた。
しかし、一番年を食った侍が進み出て、
「わ、わしは駿河台にある旗本家の用人じゃ! この長屋にお春、元の名を花風と申す者が、おるであろう」
用人とは、大名家における、家老の様な地位の者である。
翔吉は、腰を低くして揉み手をしながら、
「へえ、居るには居るのですが……」
泣き出す、振りをする。
今度は勘太が、
「明日をも知れぬお春さんに、何の用ですかい」
「何と!」
些か、戸惑う用人だったが、主人の厳命は果たさねばならぬ。
「花風は、我が殿がお世話すると仰せじゃ、連れて行くので、そこを通せ!」
威厳を装い怒鳴るのだが、廻りの連中は、
「お春さんは気の毒じゃ~」
と、騒ぎ立てる。
そして、お滝が妙に低い声で
「お言葉ではございますがお侍様。あの人はもう、人前に出られる姿ではございません。お止めになった方がよろしゅうございます」
かなり怪しく言うと、今度はおさわが、
「近づいて、膿に触れると移る様にございます。瘡かコロリか、はたまた新しい病か。難病奇病とお医者が申しておりました。そのような者を連れて行ったらお家の大事。お止めになった方がよろしゅうございます」
(ナンマイダブ)と唱えながら、そこに蹲る。
しかし用人は、
「ええい、やかましい! それなら直に見なければ殿に報告も出来ん。そこをどけ!」
などと言うものだから、翔吉が、
「承知致しました。ただし、決して触りません様に申し上げておきます。私は申し上げましたからね。よろしいですね、申し上げましたよ」
翔吉達を横目に、ようやく用人は、供を従えて、腰高障子を勢いよく開けた。
部屋の中は、真っ暗であった。
入って行った侍の後ろから、勘太が素早く障子を閉めてしまう。
そして同時に、寝ているお春が弱々しい掠れた様な声で、
「ど、な、た、でありんすか~」
と、言った途端。妖しげな太鼓が鳴り始める。
「花風であるな。今から我らと一緒に屋敷に参るのじゃ」
用人が、居丈高に言うと、
「お、お言葉ではござんすが……明日をも知れぬこの私でありんす。こんな身体ではお役には立てんしょう。どうか、お許しなんし……」
お春は、苦しげな声で虚空に手を伸ばす。
「ええい、暗い! 明かりはどうした。顔を見せい!」
用人が、苛ついた様に言うと、
「この顔でござりんしょうか」
ゆっくりと身体を起こすのと同時に、六助が隠しておいた燭台でお春の顔を下から照らす。
同時にお梅が、更に、太鼓を小さく細かく叩き出す。
下から光を浴びるその顔は、右目を中心に青黒く腫れ上がり、髪はザンバラで蝋燭の火に反射して弱々しい妙な光を放っている。その上、顔全体に、黒い出来物の様なものが、更に膿の様なものを吹き出している。そして、切り傷の様な所から、血も滴り落ちる……。
と……用人達の目には映った。
そんな顔を、いきなり間近に見た用人は、
「ギャー」
と、衝撃で腰を抜かし、後ろにひっくり返ってしまった。
他の侍達も、あまりの姿に、後ろの障子に張り付いて、硬直してしまっている。
すると六助が、横から、怪しげな物言いで、
「近づいてはなりません。移りますぞ~」
大声で脅す。
お春は髪を振り乱し、四つん這いで、腰を抜かしている男達にゆっくり近づき、
「申し訳ござりんせん~」
手を振り、水を振りまく。
すると、六助が早口で、
「あ! それは膿でございます! 早く洗い流さねば大変な事になりますぞ!」
さすがにそれには、
「うわ~」
と、侍達は声を上げ、慌てて障子を開け、外に飛び出した。
用人に至っては、驚愕の顔で、地に手を付け、妙な格好で表に出て来た。
同時に後ろで、まるで引き幕のように「ピシャリ」と障子が閉まる。
そこへすかさず勘太が、ようやく身を起こした用人の側に近づき、
「ご覧下さいましたか? どうで、もう明日には寿命も尽きましょう。どうかこの旨、お殿様にお伝え下さいませ。そして出来ましたら、この世のご縁に、気の毒なお春の為、葬式代でもお下げ渡し下さりますれば、お殿様のお情けが江戸市中に響き渡りましょう」
などと、チャッカリした事を言っているので、蹲っている翔吉は、
(勘太のやつ、抜け目ねえな)
無言のまま、心で笑っている。
しかし、動揺の収まらない用人は、勘太の言うがまま、であった。
「そ、そうだな。殿にはそう伝えよう」
そして、
「こ、これでよかろう」
震える手で、懐紙に一両小判を荒荒しく包み、押しやった。
するとそこに、六助が外まで出てきて、大声で、
「お早くお戻りなさいませ! もう来てはなりませんよ! 一刻も早く、膿を水で洗い流さねば~」
などと、容赦無い追い打ちをかけた。
それを聞いた侍達は、気味の悪さと恐怖で「わ~」と悲鳴を上げ、一目散に走り去って行った。
駆けていく足音が遠くなっていくと、蹲っていた翔吉と光太が、恐る恐る頭を上げ、
「行ったか!」
翔吉が聞くと、これも外に出てきたお梅が、
「走って行っちゃったよ!」
嬉しそうに叫んだ。
「お~!」
途端に、長屋の衆から一斉に歓声が上がる。
まるで、勝ち鬨の様だ。
すると、
「本当に、行っちゃいましたか?」
なんとお春が、そのまんまの顔で外に出てきた。
その顔を見た一同は、一斉に、
「ギャー」
と皆尻餅をついた。その形相は、陽の下でも充分恐ろしい。
「あ、あれ?」
周りを見回すお春に、翔吉が、
「恐えよ、お春」
苦笑すると、みんなも大笑いだ。
そして、勘太が機嫌良く、
「みんなありがとう。よ~し、お礼に今日はみんなにご馳走してやる。やつら、金置いて行きやがったからな。そして、今日は翔吉とお春さんの祝言だ!」
「え、祝言?」
驚いた顔で翔吉が言うと、勘吉が、
「今のうちに、さっさと盆事しちまった方がいいぜ」
そう言って、翔吉の肩を叩く。
おさわも、嬉しそうに、
「そうだよ翔さん。やることやれば、もう誰も文句つけられないから。ねえお春さん」
振り向くと、そこに居たお春がおどけて、
「この顔で?」
両手を上げ、
「うらめしや~」
などと言うものだから、おさわの顔がみるみる青ざめ、
「やめなさいって。夢に出てくるでしょ!」
本気で怖がっている様子に、みんなはまた、大笑いだ。
そしてその夜、部屋の中は勿論、外に縁台も出して、長屋中の人が集まり祝言となった。
高砂のお春は、高島田で純白の小袖である。
その姿を目にした翔吉は、
(やっと、きりりしゃんに戻った)
と、嬉しそうだ。
高砂の廻りには、勘太おさわを始め、大家夫婦、幽霊騒動で協力した連中が座っている。
仲人役のおさわが、光太を抱きながら、
「お化けの恰好は、ホント怖かったからさ、やっぱり、そっちの方がいいよ」
六助が満面の笑みで、
「そりゃ、何よりのお褒めの言葉。御礼申し上げまする」
上機嫌で盃を空ける。
「あれは、一生、忘れません」
お春も微笑む。
翔吉は、損料屋で借りてきた黒の羽織で、晴れ晴れとした表情である。
「お春。その小袖は、八朔で使ってたもんかい?」
八朔は吉原の紋日の一つで、八月一日。全ての女郎は純白の小袖を身につける日である。
「あれは、とっくに質屋ですよ」
お春は、笑いながら即答した。
「真夏ですから、汗臭くなって着れたもんじゃなくなるんです。これはいつか着る時があればと自分の為に買ったものなんですよ。娘に伝えられたら……なんて夢見ながら」
「そうか、まず一つ目は夢が叶ったな」
お春は和やかに頷き、
「ええ。ホンに嬉しい……」
すると翔太は、
「しかし、こんなに盛大な祝言になるとは思わなかった」
外にも広がる祝い客を見回して呟くと、お春は突然、キリッと前を向き、
「良いのでありんす。江戸一番の呼び出し、花風の祝言にございますれば、これぐらいは、当然でござりんしょう」
お春が突然、きりりしゃんの花風になって言うものだから、翔吉は驚いた。
すると、
「いよ、花風太夫!」
横でそれを聞いていたおさわが、笑って声を掛けると、皆からも、次々声が掛かった。
お春は手を付き、皆に向かい、
「皆様。吉原の呼び出し花風も、本日で見世仕舞いにござりんす。ホンにありがとうござりんした。今後は、翔吉女房、お春を末永く。よろしくお願い申し上げます」
祝いに来てくれた長屋の人々に、深々と頭を下げた。
拍手喝采である。
そして、頭を上げたお春は、横の翔吉に囁く。
「お母様は、私が嫁で、お許し下さいますでしょうか?」
翔吉は、お春の言葉の思いがすぐに分かった。
「むしろ、私に怒ってると思うよ」
「え、何故です?」
「さっさと、嫁に貰えば良かったのにってさ」
「そうですか?」
「たぶん、おっかあは喜んでる。安心してると思うよ。折を見て、一緒に墓参りしてくれるとありがたいんだけど」
お春は、心から幸せそうな笑顔で、
「はい。是非ご挨拶したいと思ってます」
「そして、新宿の先まっつぐ行けば信濃だ。そちらにも行って、ご挨拶しないとね」
この言葉が嬉しくて、お春は何も言えず。
涙を浮かべ、翔吉に頭を下げた。
(3)
時は流れて、それから五年後……。
「こんにちは、いつもお世話になってます」
風呂敷包みを抱え、片手に小さい女の子の手を取りながら、お春は暖簾をくぐった。
「あら、お春さん。おや、なっちゃんまで。いらっしゃい。大きくなったわね」
お滝と、若い娘が奥から出て来た。
娘は、長屋にいたお梅である。
お春は、笑顔で、
「ご注文の分と三本。お持ちしました」
なっちゃんと呼ばれたお夏は、お春の手を離れ、框を昇ってお滝の膝に、
「おばちゃん」
と、ニコニコしながら、チョコンと座った。
「これ、お夏」
お春が慌ててたしなめるが、遅かった。
勿論、この子は、翔吉とお春の娘である。
さすがに期待していなかったので、夫婦が喜んだのは当然だが、二人の事情を知るおさわや周りの人達も、大層驚いた。
早めに身請けされたおさわと違い、お春の様に年季一杯まで勤め上げた女郎に子供が出来ることは、一般的に無理と思われていたからだ。
そのお夏も数えの三歳になり、もうすぐ七五三のお祝いである。
「あ~よしよし可愛いね~おかあちゃんに似て良かった」
お滝は笑う。
「すみません女将さん。そう言えば、おさわさんにも同じ事言われて、あの人ちょっとむくれてましたよ」
「はは、さすがにお春さんの娘だから母親似じゃないとね。でも、幸せそうで何よりよ」
「ありがとうございます」
そしてお梅も、
「お師匠様、いらっしゃいませ」
深くお辞儀をした。
「お梅ちゃん、もう慣れた?」
お梅より先にお滝が、
「お春さんの仕込みだもん、大助かりよ」
お梅は、恥ずかしげに頷いた。
お春は、和やかに手を振って、
「仕込みだなんて。ちょっと手習いの真似事しただけですから」
「客の応対や、若い娘が喜ぶ品揃えとか評判が高くなってさ、助かってるわよ」
「そう言って頂くとありがたいです」
お春は、心からそう思い、深く頭を下げた。
「じゃお梅。お茶となっちゃんにお菓子でも持って来てくれる?」
「はい」
お梅は、店の奥に下がって行く。
「すみません、お夏にまで」
お滝に礼を言うと、
「ところでお春さん。あれから、あのお武家。どうなったか知ってる?」
「あのって、例のお旗本ですか? いえ全く」
お春は首を振る。
「なんでもね、御家断絶で江戸から追放になったらしいわよ」
「え!」
お春は目を丸くして驚いた。
確かに迷惑な旗本ではあったものの、大身の旗本が御家断絶とは、かなりの大事である。
「でも、あれはもう、随分と前の事だし」
店の奥では、お梅とお夏が、お菓子を食べながら楽しそうに笑っている。
お滝は手を振り、
「ところがね。性懲りも無く、同じ様な事をあちこちでやってたらしいのよ。あげくに刃傷沙汰まで起こして、それでとうとう、御目付に睨まれちまったらしくてね」
「あらあら、それは……」
「あんときに心、入れ替えときゃ良かったんだけどねぇ」
その時、店に若い娘二人が入ってきた。早速お梅が、口をぬぐって立ち上がり、
「いらっしゃいませ」
客の前にソソっと進み出る。
それを横目で見ながらお滝が、
「それとさ、うちの旦那が聞いてきたんだけど。あの時、あんたをお化けにした役者、覚えてる?」
「ええ、もちろん。六助さんでしょ。そういえば最近、お見かけしませんねぇ」
「ほらあの後。湯島であの事、芝居にしてたじゃない」
「はいはい、確かうちの人が、手間賃代わりにって」
「それがさ、その芝居を中村座の四代目鶴屋なんとか、っていう人が見てね。芝居はともかく、お化けの化粧にえらく惚れ込んじゃったらしくて、今度の盆興行の為に引き抜いたんだってさ」
「まあ! それって凄い出世じゃないですか、中村座だなんて」
「えっとね……東海道四谷怪談とか言ってたかなぁ、お春さんの、あのなりを、
尾上菊五郎がやるんだってよ~」
しかしお春は、少々困った様な顔で、
「でも女将さん。菊五郎さんって言われても、あのお化けの顔じゃ、喜んで良いのかどうかわかりませんよ」
「それもそうだね」
二人は、声を上げて笑う。
すると、接客をしているお梅が、
「女将さん、花風かんざし、よろしいですか?」
と聞いてきたので、
「花風かんざしは、若い子に評判良くて大変よ。あなた手書きの箱書きも人気でね~」
お滝は、簪の箱を持って立ち上がり、
「はい、はい、今届きましたので」
客の方へ進んでいった。
そこへお夏が、お春の膝に戻ってきて、
「おかあちゃん。おとうちゃんのかんざしはきれいだよね」
ちょっと、たどたどしく言いながら、翔吉が作ってくれた、小さな向日葵の簪を抜いて、可愛い笑顔でお春に見せる。
お春は和やかに、お夏の頭を優しく撫で、
「うん。とってもね」
その時、暖簾を吹き上げ、少し早い、春の暖かい風が吹き込んできた。
お春は、ちょっと乱れた髪をたくし上げ、若い娘達が、翔吉のかんざしを見て笑っている姿に目をやり、心の中で手を合わせていた。
ーおわりー
いかがでしたでしょうか?
喜んで頂ければ、幸いです。
ありがとうございます。
さて、「四谷怪談」まで出てきましたが、もちろん史実ではありません。
別に小岩さんが登場するわけでは無いので、必要無いかも知れませんが、これを書いた時。私、お岩さんの墓参りにも伺いました。
今の私に、祟りがあっても、さして気にはならないのですが(笑)
このお岩さんと言う人は、気の毒な人だし、お墓ですが、お会いしたかったと言う事もありましたので……。
演者は、必ずお参りした方が良いと言われる方ですが、その祟りは、平将門に並ぶ程、恐ろしいものだと言われます。
将門は、史実上、まあ分かりますが、お岩さんの場合はね〰〰。
伝わっている話によると、怪談の様に気の毒な方ではなく、ごく普通の女将さんだったとも、言われています。
ならば何故? 南北はこの人を使って怪談にしたのでしょう?
私自身は、彼女の墓前で、名前を使われただけと信じております。と、申し上げました。
ということで、旗本の攻撃も躱し、お春は幸せに暮らして行きました。
彼女の小さな野望も見事、成就しました。
一つのお話と、喜んで頂けば幸いです。
さて今後ですが、まだ決まっていません。
お華かな~(笑)
では、次回作品もよろしくお願い申し上げます。