④裏店の擾乱?
(1)
翌日、晴れた早朝。
隣の勘太が、長屋から仕事に出ようとすると、厠から戻るお春と、丁度出会した。
お春は笑顔で近づき、
「おはようございます。勘太さんですね? 春と申します。お隣にしばらくご厄介になることになりました。どうぞよろしくお願いします」
と、丁寧に挨拶したが、勘太の目は中を浮き、道具箱を担いだまま硬直している。
「あ、お、おはようございます」
この一言が、精一杯という様子で、慌てて逃げるように行ってしまった。
すると後ろから、おさわが桶を持って、笑いながら出てきた。
「全く、しょうもないねぇ。おはよう。昨日は眠れたかい?」
「あ、おはようございます。昨日はお世話かけました。春でございます。よろしくお願いします」
「はい。私はさわ。こちらこそよろしくね。ありゃ、うちの亭主。大工やってるの。舞上がってるだけだから気にしないで。それと今日は、あんたを買い物に連れて行くって話、聞いてる?」
「ええ、聞いてます。よろしくお願いします」
お華は和やかに、頭を下げる。
「うん。じゃまたあとでね」
「はい」
しばらくして翔吉とお春は、大家の家に挨拶に出向いた。
「大家さん、翔吉でございます。朝方、失礼致します」
返事を聞き、翔吉は、静かに障子を開いた。
大家は新兵衛という。
この時代の大家(家守)というのは、現代のように土地家屋を所有している訳ではなく、長屋の雇われ管理管財人である。
また、自身番に詰めて、揉め事仲裁や、御上からのお触れの伝達、などといった御用も勤めたりもしている。
新兵衛は、満面の笑顔で二人を迎え入れた。
二人は入り口すぐに、並んで座る。
「翔吉さん待ってたよ。こちらが噂の人かい? いや、綺麗なお人だね~」
新兵衛が、幾分早口で言うと、そこに新兵衛の女房、おこうも現れ、
「あら~翔吉さん」
目を丸くして、新兵衛の隣に座る。
お春は、伏し目がちに、
「お初にお目にかかります、春にございます。よろしくお願い申し上げます」
と、頭を下げる。
新兵衛はニコニコして、
「噂はお聞きしてましたよ。お春さんですか。こちらこそよろしく。何でも大荷物でこられたとか」
お春は、少々恥ずかしげに、
「お騒がせしまして、誠に申し訳ありません」
それに続けて、翔吉の、
「大家さん。私ども、所帯を持つ事になりましたので、ご挨拶と届けに上がりました」
という言葉に、新兵衛が、
「いや~今まであんたにゃヤキモキさせられたが、とうとうですか。そりゃ良かった。それでお春さん、どちらからいらっしゃったのですか」
大家である以上、一応、身元ぐらいは聞いておかなければならない。
するとお春は、何のためらいも無く、
「へえ、吉原にございます」
と、笑顔で答えた。
一方、翔吉は、おこうに向かって、
「妙な事になっちまいました」
苦笑いで言う。
しかし、おこうは微笑み、大きく頷いた。
ところが、新兵衛の方は、二人の言葉に当然驚く。
「よ、吉原って、あの北国かい?」
「そうでございます」
お春は、和やかに頭を下げる。
新兵衛は目を大きく開け、慌てた様子で、翔吉に向かい、
「ち、ちょっと待ってくれ。翔吉さん。あんた吉原通いなんざ、してたのかい?」
当然ながら、翔吉は大きく首を振り、
「いえ一度も。たまたまこのお春。その時は花風さんの簪の注文がありまして、何となく」
「何となくって……え、花風だってぇ? それじゃ、あの富貴の?」
お春は僅かに頷き、
「お恥ずかしい事でございます」
新兵衛は更に驚いた。いや、驚愕と言っても良い。
その驚愕している新兵衛の横のおこうは、全く落ち着いた様子で、
「あんた、何を驚いているのさ」
笑いながら袖を引くと、新兵衛は、
「だってよ、富貴の花風っていや、今高尾って言われるぐらいの吉原一の花魁って、有名だからだよ」
そしてお春に、
「てことは、年季明けで?」
「はい」
「しかし、大名道具なんて言われたお前さんが、何で翔さんと……」
「それは大袈裟でございます。なんと申しましょうか、なんとなくでしょうか」
「お前さんもなんとなくかい!」
新兵衛は、さすがに大笑いした。
おこうも笑って、
「類は友ってことなのよ。それに、翔さんらしいわ」
という言葉に、翔吉はなるほどと思ったが、お春は少し首を傾げた。
そして翔吉は、
「と言うわけで、大家さん。人別の方もよろしくお願いします。寺も私と同じで構いませんので」
「そりゃ、造作も無いこと。何にせよ目出度いことじゃ」
新兵衛夫婦も嬉しそうである。
翔吉は、懐から紙包みを取り出して、
「つきましては、少ないですがお春の分の樽代でございます。どうぞお納め下さい」
樽代とは、現代で言う、入居時に払う礼金の事である。
新兵衛に包みを差し出すと、新兵衛よりおこうが先に、
「相変わらず律儀だね翔さん。でもね、これは私達から二人への祝儀ということで納めてくださいな。おっかさんも草場の陰で、さぞ喜んでると思うよ」
新兵衛も頷きながら、夫婦はにこやかに笑い包みを翔吉の前に返した。
「いつもいつも、ありがとうございます」
「取付身上(新家庭)ってのは、何かと大変……いや、あんたの所は、更に大変だろうけど、頑張っておくれ」
新兵衛の言葉に、翔吉とお春は頭を下げ、
「誠にありがとうございます」
と礼を言って、二人は大家の家を辞した。
帰り、翔吉は、
「とりあえず、これで立派な長屋の女だ。しかし、百両や今高尾。大名道具だのと、やたら二つ名があったんだね」
「自分でも驚いてしまいます。何だか人じゃないような」
「うん。本当にそうだったのかも知れない。ようやく人に戻ったって事か」
翔吉が冗談交じりで言うと、お春は大きく頷き、
「そういう事です」
二人は大笑いして部屋に戻っていった。
そのあと勘太の部屋に行き、翔吉は光太を預かると、お春とおさわは仲町の方に出掛けていった。
お春とおさわは、暫く、あれこれと買い物を済ませ、富岡八幡門前の茶屋で、甘酒飲みながら休んでいた。
「ねえ、お春さん? これからもあそこに住むつもり?」
「はい。出来ればそうしたいと思ってます。まあ、翔吉さん次第ですけど」
「ああ、あの人なら大丈夫よ」
「そうですかね?」
おさわは、笑顔で頷く。
そして、
「うん。それはともかく、派手に飛び込んできたね~。吉原の呼び出しともなると、あれぐらいしないとダメかい?」
お春は、慌てて手を振り、
「いえいえ、そんなつもりは無かったんですよ。ただ荷物が多くて。仕方ないから吉原の若衆に頼んだら、あんなになっちゃって」
二人は大笑いした。
「それにしても何だって、ただの簪職人の翔さんに、コロリとなっちゃったのよ」
「はい。自分でも驚いています」
微笑んで、甘酒を飲むお春。
「どこが良かったの」
「妙に気が合ったというか、色々話をしても、心に壁が無いっていうか……」
おさわは驚いて、
「壁が無い? 近所の娘なんかと喋っているの聞いてると、お城の石垣くらいあるんだけどね。一体、どうやって簪売ってるんだか、なんて思っちまうよ」
笑い合った後、おさわは、少々真面目な顔で、
「ところでさ。あんただから言うけど、私も前、品川に居てね。今の旦那に引っ張り上げてもらったのよ」
などと、いきなり言うものだから、お春は大いに驚き、
「おさわさんが?」
「そう。まあ、あたしはあんたと違って五寸の女郎(五百文の女郎)でさ。人の不幸に申し訳無いけど、あの頃火事が多くてね。都合良くさ……」
おさわは続けて、
「でも、あんたはあたしと違って、身請けだって引く手あまただっただろに」
お春は、首を振りながら、
「それ程の事はありませんよ。ただ、私の身請けはおさわさんと違って、あったとしても、囲いがちょっと広くなるだけのこと。結局、お茶引く場所が変わるだけですから。私、それだけは嫌だったんです。親類に身を寄せる場所も無いし、それなら一人で生きていこうと考えていたんです」
おさわは頷きながら、
「そう……。その気持ちは、良くわかるよ」
「吉原だと、そんな女が考える事といったら出家することなんですけど、さすがにそれには気が引けて……。そんな時、あの人が現れたんです」
おさわは笑顔で、
「何だか芝居じみた登場だ」
お春も笑顔で頷いて、
「最初は、一人暮らしの手助けして貰えれば、と思っていたんですけど、話をしてるうちに、飛び込んでしまおうなんて考え始めちゃって」
「そうか、それで一か八かの勝負に出たって事?」
お春は微笑み、
「まあ、そういうことです。翔吉さんには申し訳無いですけど」
二人は顔を見合わせ、また大笑いした。
「翔さん。あんたに手も触れないでしょ」
「そうなんですよ。寝る時は部屋も別だし。やっぱり嫌なんですかね」
お春は、少々、心配そうな顔になる。
しかし、おさわは首を振り、
「嫌というより、あんたがどうするのかわからない内はって、思ってるんじゃないかね。真面目な人だから」
「それなら嬉しいんですけど」
お春は微笑む。
すると突然、お春は口に手を当て笑った。
おさわは、
「なに、どうしたの?」
「今朝方、大家さんの女将さんが、類は友を呼ぶって言ってたのを思い出しちゃって……」
「ああ、あんたと私。南北揃っちゃったもんね」
お春は、おさわの顔を見詰め、
「それだけじゃ無いんです」
おさわが少し驚き、
「まだ、何かあるのかい?」
「おさわさん。翔吉さんのおっかさんの事。聞いてます?」
「いやさ。あの人、そういう事あんまり言わないんだよ。両親早く亡くしたって事ぐらいさ」
と、手を振る。
お春は、両手で茶碗を持ちながら、
「翔吉さん。内藤新宿の女郎の息子だと、言ってました」
それには、おさわもかなり驚き、慌てた様に、
「え! あの新宿の? おっかさんがって事?」
お春が頷くと、おさわは空を見上げ、そして自分の腿をパチンと叩き、
「そうだったんだ~」
と、小さく声を上げた。
「遊びに行くどころか、そこで育ったんで、どうも遊びに行く気にならないって」
「そうか、なるほどね。ずっと引っかかってたんだよ。あの遊び嫌いっていう言い訳がさ。そのくせ、妙に訳知り顔で、落ち着いたとこがあって。そうだったんだ」
「おさわさんの詳しい事は知らなかった様ですけど。ただ、たぶん玄人だったんだろうって言ってました」
おさわは苦笑して、
「く~見抜かれてたか。何だか悔しいねぇ」
「何でも、あの人が直ぐ、普通に話出来るのは、そういう人ぐらいだからって言ってましたよ」
「なんだそれ」
おさわが笑いながら言うと、
「子供の頃からあんな所にいたから、自然とそうなったって」
お春とおさわは、微笑みながら甘酒を飲む。
おさわはしみじみと、
「あたしん所でも子持ちってのは居たけど、女の子はそのまま女郎だし、男の子は身を持ち崩しちまう子が多くてさ。まあ、女郎屋で育っちまったら仕方無い事かも知れないけどね。でも、翔さんのおっかさんは立派だねぇ。ちゃんと後々のこと考えてたなんて、気持ちが分かるだけに切ないよ」
それには、お春は何回も頷き、
「何だか、私まで助けて頂いた様な気がします」
感慨深く言うと、おさわは、
「もう、のろけかい?」
と、笑いながら、
「そうするとさ、あんたら、丁度いい間柄なんだよ。言ってみれば身内の様なもんじゃないか。壁が無いのも当たり前だよ。同じ育ちだからね」
お春は大きく頷いた。
おさわは茶碗を横に置き、
「お春さん。しばらくは珍しい目で見られて、ひょっとしたら文句言ってくる人が居るかも知れないけど、気にしないようにね」
「翔吉さんにも同じ事言われました。大丈夫です。見世で折檻受けるよりはマシですから」
おさわは感心したように頷き、
「やっぱりそういうとこに目が行くか。そりゃそうだ。そういう繋がりだったら知らん顔も出来ないね。私も力になるよ」
「ありがたいです。よろしくお願いします」
お春は、深く頭を下げた。
(2)
翌日の朝。
お春は、おさわの所で朝食の支度に格闘している。
翔吉は、と言うと、いつものように朝から仕事を始めていた。
開け放たれた窓から春風が僅かに注ぎ込む中、いつもより気合いの入った様子で取りかかっていた。
だが……。暫くすると、何だか妙な気配を全身に感じた。
翔吉は少し頭を上げ、ゆっくり窓の外に視線を向けると、数々の丸い、黒い物が池に浮かんでいる。
「ん?」
と、顔を上げきった時、翔吉は驚愕した。
池の畔に、男達が並んで座り込み、こちらを眺めているのだ。
唖然とした翔吉は、苦笑いで頭を下げながら、ソロソロと障子を閉めた。
そこへ、隣の光太が、
「おじちゃん、おはよ~」
と、ニコニコしながら入ってきた。
何だか、仕事のやる気が折れてしまった翔吉は、
「おかあちゃんとお姉ちゃんが、ご飯作ってるよ」
と言いながら、上がってきた無邪気な光太に、
「そうかぁ、おなか空いたな、ああ参った参った」
などと、ぼやきながら机から離れ、光太を抱き上げてやった。
暫く光吉の遊び相手をしていたが、突然、入り口の障子が、パーンと勢いよく空いた。
お春か? と思って振り向くと、何やら、苦虫を噛みつぶしたような顔の近所のお女将さん連中だった。
先頭の一人が、突き刺さる様な声で、
「翔吉さん! ちょっとお話が!」
と、怒鳴るように言ったと思ったら、続々と人、いや、女将さん連中が入ってくる。
言うまでも無く、かなり剣呑な様子だ。
その頃お春は、隣で釜の前にしゃがんでいた。
「お米、もう炊けましたかね」
と、おさわに振り向き聞いた。
「ああ、もう大丈夫だよ。ふたは開けずにそのままにして、火を落としてちょうだい。それで翔さんと光太呼んでおいでよ」
お春は頷き、襷をほどき、小走りで隣に駆け寄った。
障子を開けた途端、何とも言い様の無い重圧を全身に受ける。。
光太を抱いて座る翔吉の前に、ズラリ並ぶおばさん連中の光景が、目に入って来たからだ。
途端に、お春の顔から笑顔が、さぁっと消え去ってしまった。
「お春。ちょっとこっちへ」
翔吉に呼ばれたお春は頷きながら、素早く部屋に上がり、回り込んで翔吉の隣へ。
「お春。こちらは長屋の女将さん達なんだけど、話を聞きたいって仰るんだよ」
お春は、頷きながら姿勢を正し、
「お初にお目にかかります、お春にございます」
深々と頭を下げる。
乗り込んで来ていたのは、近所の女将さん達五人。それと十代ぐらいの娘二人だった。
そのうちの女将さん一人がおもむろに、
「お伺いしますけど。あなた、吉原に居たってのは本当なの?」
お春は落ち着いた様子で、
「はい。富貴楼の呼び出しをやっておりました」
それを聞き、女将さん連中は途端にざわついた。
ただ、端の若い娘達は、元花魁など見るのが初めてだから、興味深そうにお春を見詰めている。
そして別の一人が、
「翔吉さんの女房になったっていうのは、本当なの?」
「はい。もう一緒に暮らしておりますし」
「困るのよね」
「はい? 何がでしょうか」
「女郎あがりなんていると、うちの旦那も落ち着かないし、子供の先行きにも良くないし」
少々、興奮気味にいう女性に向かってお春が、
「これは誠にもって申し訳ありません、翔吉共々、充分気をつけますので、どうかお許し下さいませ」
言葉とは裏腹の、一歩も引かない気迫は、さすがに呼び出しを彷彿とさせる態度であった。
そんな時、隣に行ったお春が、何時までも帰ってこないのを不審に思ったおさわが、
「どうした?」
と、言いながら、入って来た。
当然、こちらも顔色が変わる。
おやおや……と頭を掻きながら部屋に上がり、翔吉の反対側の隣に座り、小声で囁いた。
「早速、来ちまったね」
翔吉は、光太をおさわに渡しながら渋面で頷いた。
そして、おかみさん達の方に顔を向け、
「皆さん。大家さんにもご了承頂き、新しい生活を始めました。どうか、ご納得下さいますようお願い申し上げます」
お春も、続けて、
「決してご迷惑はおかけしませんので、どうかお許し下さい」
と、二人揃って頭を下げる。
しかし、女将さん連中は、厳しい顔で、
「でもね、うちの旦那も、池の周りうろちょろして落ち着かないし」
「うちの子にも女郎の嫁さんなんて、考えられたら困るし……」
などと、矢継ぎ早に、あれやこれや文句を言ってくる。
翔吉達は、その都度頭を下げる。
そんな中、それ迄おとなしく聞いていたおさわだったが、頂点に達したようだ。 光太を傍らに投げ出す勢いで、とうとう怒り出した。
「あんたら! 吉原で御職を張るってのは半端な事じゃ無いのよ! あんたらの何十倍の頭の良さと、努力があって出来んのよ! 子供の行く末だって? あんたら字もロクに書けやしないのに、偉そうな事言うんじゃないよ。この人はお大名に文だって書ける人なのよ!」
おかみさん達は、突然のおさわの勢いに驚いた。
とは言え、お春は慌てて、翔吉越しに、
「おさわさん……」
と止めようとしたが、それを振り払う様に、
「だいたいあんな商売、したくてやってると思ってるの? そんな女ひとりも居やしないよ。その女がやっと自由になって、ようやく普通の女になるって歩き始めたってのに、それを邪魔するのが女とは恐れ入った。それにだいたい、あんたたちの髪!」
おかみさん連中の髪を、なめるように指さし、
「その丸髷だよ。そしてそっちのあんた!」
今度は、端に座る女を指さし、
「あんたはその前結びの帯! みんな吉原からきたもんじゃない。そうだよねお春さん」
お春に同意を求める。
この時代、既婚女性の髪型は、三河あたりから江戸以北に向けて丸髷である。
ちなみに上方は、両輪という髪型だ。
丸髷も前帯も、吉原で有名な女郎だった、勝山が考案したと伝えられている。
お春は苦笑して、
「ええ……まあ、そういう事になってます」
としか言えない。
「ほれ見なさい! 迷惑だって言ってるものを頭に被っている女が、良く偉そうに言えたもんだね。いいかい! この人は翔さんと一緒になるの、あんたらの旦那なんぞ、知ったかだよ! 首に縄を付けて家に縛っておくなり、池にぶち込むなりしな!」
おさわは、肩で息して叫び終えた。
おかみさん達は、一斉に下を向き、声が出ない。
翔吉にしたら、言いたい事言ってくれたと、心の中で手を叩いている。
しかし、お春はそうもいかず、
「皆様、どうかお許し下さい。私はここで静かに暮らしたいと願っております。ご迷惑は決してお掛けしませんので……」
やはり、頭を下げざるを得ない。
とは言え、おさわの啖呵のおかげか、緊張が和らぎ、ようやく落ち着いた雰囲気が流れ始めた。
すると、お春はふと気付き、端に座っていた一人の娘に向かって、
「お名前は?」
まだ十二、三歳ぐらいの娘に聞いた。
その子は明るく、
「お梅です」
「そう、どっかで聞いた名前ね」
と、言いながら呼び寄せ、反対に座り直させた。
「ちょっと髪が乱れてるから、私が直してあげるね」
すると、吉原の頃から使っている小粋な布包みを、部屋の脇から持ってきて、
パッと開くと、髪結い道具が現れた。
そしてまた、水瓶の方に行き、鬢水に三枚櫛を浸して持って来て、
「翔吉さん。元結か水引みたいな紐をお願い出来ます?」
と、頼む。
「あいよ」
翔吉の返事を聞くと、お春は素早く娘の髪を解いた。
おかみさん達も、突然始まった事に注目している。
「いい、髪は自分で気づいて直して貰わなきゃ駄目よ。時折、鏡を見るようにね」
と、お春は娘に言いながら。あっという間に、髪を梳いて、素早く纏め、最後にキュキュっと結び、紐を切る。
すると艶やかな、潰れ島田の髪型が出来上がったのだ。
周りは、流れるような動きと、その出来映えにどよめいた。
「ごめんね。引っ越ししたばかりで髢もあまり無いから充分じゃないけど。ほら、鏡見てごらん。少しはお姉さんらしくなったでしょう?」
見つめた娘は、あまりの出来栄えに口に手を当て目を輝かせる。声も出ない。
もうひとりの娘が、
「お姉さんお姉さん、私もお願いします」
と寄ってくる。
おさわ、光太と翔吉は、少し離れたところに場所を移っていた。
「まあ、ああいうところに居たら当然なのかも知れないけど、大したもんだね」
「はは、髪結いより速えや。でも、おさわさんだって出来るんだろ? さっきの知ったかで分かったよ」
知ったかは、吉原・岡場所で広く使われていた言葉で、知るもんかと言う意味である。
おさわは口を尖らせて、
「何言ってんの。あんたの方こそ、新宿で育ったなんて黙っててさ」
翔吉は(あ)とお春の方を向いて、笑いながら、
「しゃべったな……」
お春は知らん顔で、娘達と話している。
「だっておさわさん。自慢する事でも無かろうよ。おさわさんが玄人だろうとは思ってたけど、いちいち聞くのも野暮でしょ。で、どこなの?」
おさわは、まだ怒った顔で、一言。
「品川」
「なるほど南国か」
すると、おさわは何やら嬉しそうな顔に変わり、
「あと、千住と板橋が居りゃ勢揃いだね」
などと、言う。
しかし、翔吉が意外そうな顔で、
「あれ、おさわさん知らなかったの? もう千住は居るよ」
と、言うものだから、おさわは驚いて、翔吉の顔を見る。
「え? 誰よ」
翔吉は和やかに、
「大家さんの女将さんだよ」
「ええ! ホントかい、それ」
おさわは驚きの顔だ。
翔吉は頷き、
「おさわさん。この長屋に入る時、ちょっとおかしく思わなかったかい?」
「言われてみれば、そうだね……。品川って言っても、特に何も言われなかったし、頼んでもいないのに、翔さんの隣だから、煩かろうと部屋賃まけてくれたり……」
「そう。あの女将さんは元々新宿に居てね。私のおっかぁと仲が良かったんだ。そのあと千住に流れたんだけど、おっかぁが死んだ後、あの人は身請けで大家の女房。それから何かと世話になってね。だから、おさわさんを何とも思わないし、俺の隣の方が安心だろうって事で、決めたんじゃないかな」
「そうなんだ。知らないところで色々話が回ってたんだね」
一方のお春は、女将さん連中や、娘達に、
「ちょっと待っててね」
奥の部屋から一つの行李を探って、色鮮やかな布きれの束を取り出し、持ってきた。
半襟である。
半襟は当時の町屋の女性にとって、今風に言えば、おしゃれの重要なアイテムだ。
襟の汚れ避けにもなり、そうそう安いものでもない。
「お近づきの印にございます、以前、吉原で頂いた物ですが、使っておりませんので、遠慮無く、皆さんでお分け下さい」
静かにおかみさん達の前に置いた。
さすがに、女将さん達は目を見開き、もう、文句どころじゃ無くなった。
おさわは(高い紙花だわ)と苦笑しながら立ち上がる。
紙花とは、遊女などに祝儀の代わりに渡す白紙。あとで金銭に換える。
「はいはい私が分けてあげるからね。あら! これ越後屋の札が着いてるじゃない!」
それには一同がどよめいた。
言わずと知れた、江戸一番の呉服問屋だ。
途端に、あちこちから手が出て奪い合いといった様子。
そしてそれが一段落すると、おさわがお春に了解をとり、
「残ったものは、他のおかみさんたちに配ってね、あたしのも残しておいてよ」
と、笑って言った。
髪を直して貰った娘達は、浮き浮きした様子で、満面の笑顔。
おかみさん達は思わぬ、そして上等の贈り物に満足したのか、お礼を言いながら帰っていった。
それを見送って、お春は立ち上がり、また行李から和紙に包まれたものを持ってきた。
「これはおさわさんに。光太ちゃんが大きくなったら、冬用の羽織にでも仕立て直して」
おさわはそれを受け取り、開いて見て驚き、興奮の様子。
鮮やかな青地に、屋形船の刺繍を施した打ち掛けである。
「打ち掛け! これ絹でしょ、しかも西陣じゃないの? これ。いいの? 本当に」
満面の笑みだ。
「何でも桐生の職人さんが仕立てたものらしいけど、今回は本当にお世話になったし、光太ちゃんの羽織には、丁度良い柄だと思って……」
笑顔で、お春が言うと、
「いやいや、私が着る」
おさわは即座に立ち上がり、自分に合わせて見ながら言った。
翔吉が苦笑して、
「さすがにこの界隈じゃ、思い切り浮いちまうよ~」
「いいの。部屋の中で着る」
などと言うものだから、翔吉とお春は大笑いした。
するとそこへ、現場が近かった勘太が、昼を取りに帰ってきた。
「何だ何だ。ぞろぞろ人が出て行ったぞ」
と、言いながら入ってきた。
光太が、
「ちゃん!」
勢い良く、飛びついた。
光太を受け止めた勘太は、着物を羽織っているおさわを目にし驚いた。
「ど、どうしたんだ、そりゃ」
おさわは、それには答えず、
「あら、もう昼だよ。お帰りあんた」
「一体何だい?」
勘太は翔吉に言うと、笑いながら、
「裏店の合戦だよ」
「何だって?」
そして、何だか急に翔吉が、笑いだし、
「なんだかさ。今のやりとり聞いてたら、光太が気の毒になっちまったよ」
翔吉が妙な事を言い出すので、おさわが、打ち掛けを畳みながら、
「光太? どういうこと?」
と問い質すと、翔吉は笑いながら、
「だってよ、光太が大きくなったら。迂闊に花見に行く。なんて言えねえだろうなって、思ってさ」
おさわが不思議そうに、
「光太が花見?」
「うん。お母ちゃんに御殿山に行く。なんて言ったら、川の上か下か? と聞かれ。隣のおばちゃんに、上野に行くと言えば、その日は高いよ。冷やかし程度にしときな。なんて言われっちまうんだろうなって……」
それを聞いた二人は、その意味に気付いた。
お春は眉を上げ、
「え~私はそんな事、言いませんよ」
しかし、お華もおさわも、目を合わせて、二人とも大笑いだ。
訳の分からぬ光太もニコニコしている。
「じゃ、みんなでお昼食べましょ」
そう言ったおさわとお春の二人は、用意をしに勘太の横をすり抜け外へ出た。
何だか仲間外れの様になってしまい、勘太が心細げに、
「翔さん、何だってんだ?」
「後で話すよ、面白いぞ~」
勘太は不満そうな顔である。
~つづく~
今回も、お読み頂きありがとうございます。
私の好きな「擾乱」が、また出て参りました(笑)
今回は、芸は身を助けるといった話。
それに、あんなに荷物があるはず無いと思いますが、まあ、幸運な人と言うことで、お許し下さい。
ところで、吉原の遊女は、幼い頃から、ありんす言葉を仕込まれていますので、いざ、町中に出ると、一番困るのがこの事。
長屋でいきなり、危険人物として、女将さん連中から、マークされるようです。 ある意味では、仕方ないでしょう。
でもやはり、お気の毒です。
しかし、やはり芸は身を助ける。
お陰で、お春はそれもくぐり抜け、新しい生活に入っていきます。
しかし、一寸先は闇。
お春に想定外の事が起こります。
次回最終回も、よろしくお願いします