③深川・花魁道中
(1)
五日後、雛形が出来上がった。
今回は翔吉一人で、吉原に向かった。
見世に到着して不思議だったのは、若衆に、簪の件でと言うと、
「部屋はおわかりですね」と言ったきり誰も案内に立たず、あっさり通された事。
前回来たとはいえ、あまりに無用心だ。と翔吉は思ったが、
(話が通っているのかな)
などと、勝手に納得し、一人で二階に上がった。
ここでも相変わらず、遣り手や若い女郎達は軽く会釈する程度で、あまり関心が無いようだ。
それはともかく、翔吉は奥に進み、花風の部屋の前で跪き、
「失礼します。あの~花魁。翔吉にございます。簪の雛形が出来上がりましたのでお持ちしやした」
襖越しに声を掛けた。
すると中から、
「お待ちしておりました。どうぞお入り下さい」
と、本人の声が返ってきた。
「ごめんなさい」
翔吉が襖を開けて入ると、なんと花風は、奥で何やら行李に荷物を詰めていた。
そして周りを見回すと、驚いた事に部屋の装飾。欄間や襖絵などが取り外されて無くなってしまっている。
翔吉は、あまりの変わり様に目を丸くして、
「これは……。何やらお忙しいところ失礼致しました」
苦笑して頭を下げる。
「申し訳ありません。とんだ世話場をお見せして」
花風は、なんと自分で翔吉の座布団を手にやってきた。
おや? と思いながら、今回は座布団の上に座った。
「あの、今日は禿さん達は、おいででないのですか?」
「ええ。あの子達は今度、新造になるので、支度で忙しいんですよ」
「ああ振り袖の。それはお目出たい事で」
翔吉の言葉を聞いた時、花風の眉が少し上がった。
そして花風は、ようやく翔吉の前に座る。
「しかし、一体どうなってるのです? この前寄らせて頂いた時と違って、色々と変わってますが」
翔吉が問いかけると、花風は少々、はにかんだ様子で頷き、
「ええ、全てが変わる事になりました」
「全て……、でございますか?」
「はい。実を申しますと、私近々、年季が終わるのでございますよ」
翔吉はそれで、その全てが理解出来た。
「これは誠にお目出たい事で、そう言えばお言葉も変えていらっしゃいますね」
「はい。故郷信濃には身を寄せる所はございませんし、この江戸で暮らしていかなければなりません。まだ、始めたところでござりんす……あ、あれ?」
二人は笑い合った。
「いや、えらく変わりましたよ。先日お会いしてから、それ程経ってないのに。それで、いつ頃年季明けなんですか?」
「ええ、まだご挨拶やら何やらで、ひと月位は係るとは思うのですけど」
「いずれにせよ、ご無事で年季を終えるのは、誠に稀有な事。そうしますと、どちらかに見受けがお決まりになったとか?」
花風程の花魁が、吉原を退く時は大抵、大商家や大身武家などに引かされる事が多い。
「いえ。そういうお話は全てお断り致しました」
などと言うものだから、翔吉は、少々驚いた。
しかし、深く聞くのも失礼だと思い、
「そ、そうですか。ではお忙しい所、お邪魔してはいけませんね。早速ですが、こちらが雛形にございます」
翔吉は箱から簪を取り出して、花風に手渡した。
白木の木彫りで、小さな造花を水の流れのようにあしらえてある。
雛形とはいえ、細かい技法で造られた簪で、普段の仕事なら完成品と言ってもおかしくない。
「いかがでしょうか?」
翔吉が聞くと、既に花風は、大きく目を見開いていて、
「いかがも何も、素晴らしいではありませんか。あの簪より、素敵で粋にございます」
師匠の簪より、大層粋だと言われ、翔吉は相好を崩し、
「そう言って頂くと有り難い。弟子の頃を思い出して作ってみました。では、早速仕上げたいと思います」
翔吉は雛形を受け取り、帰り支度をして立ち上がろうとすると、
「少々、お待ちを……」
花風は低い声で、翔吉を引き留めた。
翔吉は目をパチクリさせ、慌てて座り直す。
そして花風は、ジッと翔吉の目を見詰め、
「翔吉さん。少々お聞きしても、よろしいですか?」
と些か、冷たく言うものだから、翔吉は姿勢を正さずにいられない。
「はい? 何でございましょう」
「翔吉さんは、遊んだ事も、こういった所に来た事も無いと仰ってましたけど、あれは嘘ですね?」
いきなり言われた思わぬ言葉に、翔吉は驚いた。
「何故、そうお思いに?」
すると、花風はようやく笑って、
「禿の事や、年季の事。ああ自然にお答えになれるんですもの。振袖新造なんぞ、こういった場所を知らない方には言えません」
その言葉には、翔吉も盆の窪に手を当て、思わず大笑いしてしまった。
「こりゃトンチキでした! やはり吉原の呼び出しともなると、誤魔化しは利きませんか。確かに仰る通り、半分は嘘です。でも半分は本当なんでございます」
花風は、微かに首を傾げ、
「半分?」
翔吉は深く、頷いた。
「ええ、実は私。内藤新宿、飯盛女の息子でして……」
今度は、花風の方が大いに驚いた。
「ええ? そうなんざんすか」
と、言葉が戻ってしまった。
翔吉は、笑って頷きながら、語り始めた。
「物心ついた時には、あそこが全てでした。おっかぁも一生懸命育ててくれたんですけど、いつまでもあそこに居てはいけないと、探してくれたのが、先日申し上げた師匠にございます。おっかぁは元々、身体が弱かったものですから、私を送り出した後、直ぐに逝ってしまいました。新宿と吉原。格は違っても同じ女郎屋。色々耳に入ります。ですから大抵の事は分かるのですよ。ただ、そういった生まれですから遊びにはとても行けません。何だか、おっかぁと遊ぶみたいな気がして……。ですから半分なんです」
この言葉には、さすがに花風は、すまなそうな顔で、
「これは……誠にご無礼な事を申しました。申し訳ございません」
と、頭を深く下げ謝るが、翔吉は、それには笑って手を振り、
「謝る事はありません。ご不審に思うのは尤もですから。それはともかく、ご依頼の簪は、心血注いで創らせて頂きます」
翔吉は微笑みながら、こちらも頭を下げる。
すると花風は、
「ありがとうございます。あのそれでは今度は一つ、お願いをしてもよろしいでしょうか?」
「はい?」
「年季が明けますと、私はお江戸の町で、一人で生きて行かなければなりません。もし、ご迷惑でなければ、お力になって頂けますでしょうか?」
「え! 私がで?」
意外な申し出だったが、翔吉も、それはそれで尤もな事と思い、
「そりゃ、困った事がありましたら何時でも言って下さい」
穏やかに承諾した。
すると、花風は満面の笑みで、
「ありがとうございます。あ~良かった」
花風がえらく喜ぶものだから、翔吉は少々戸惑ったが、不安なのだろうと推測し、笑みを浮かべ、静かに席を辞した。
吉原を後にした翔吉は、早速。簪の材料を求めるべく、日本橋の町中に消えていった。
(2)
そして、いよいよ十日後。
今度は完成した簪を持って、吉原に向かう。
結局、銀製の、些か採算度外視といったものになってしまったが、雛形通り、我ながら良い簪が出来たと満足していた。
ところが吉原の見世に着くと、今日出て行ったと言われてしまう。
(一月後と言っていたのに……)
まあ、そのうち紀州屋さん通じて何か言ってくるだろう。などと思いながら、仕方無く、大門を後にした。
ところで、この日は三月の五日。
正に春の始まりで、草花は次々に花を開き始める。
翔吉は気を取り直し、浅草の松乳山や隅田の川縁を、簪用の絵でも描きながら、のんびり歩きながら帰ることにした。
しかし、同じ頃、深川の長屋では、結構な騒ぎになっていた。
深川長屋のおさわは、丁度その時、表の障子を開けた。
「買い物行くよ」
と、言いながら、光太の手を引いて表に出た。
そして木戸の方に目を向けた瞬間、目を大きく開けて、立ち止まり、愕然とした。
向こうの方から、漆黒の地に、あでやかな花の柄をあしらった着物の女を先頭に、揃いの法被を着た若衆らしき連中が、何やら荷物を肩にして、こちらに向かって、大人数で歩いて来るではないか。
その時、外に出ていた他の住人も自宅の壁にひっついて、目を丸くしてその光景を眺めている。
おさわは、その女を(玄人だ)とすぐ見極めたが、ただ、左褄ではない。
たとえば、芸者ならば、歩くときには左褄が仕来りである。
つまり、左手で着物の裾を持って歩くのだが、その女は右だったのだ。
(深川の芸者じゃない?)
だとすれば、朱傘でも差していれば、まるで、花魁道中の様にも見えた。
その様な事を考えている内に、その女がそばに近づいて来た。
柔和な笑顔を光太にも向けながら、
「少々お尋ね致します」
と頭を下げ、話しかける。
おさわは、若干どきまぎしながら答える。
「は、はい、何でしょう」
「あの、翔吉様のお宅はどちらでございましょうか?」
と、女が言った途端、おさわにはピンときた。
(まさか!)
しかし、動揺を隠し、
「し、翔吉さんですか。ここの隣、そこでございますよ」
平静を装い、指差しながら答えた。
「ありがとうございます。ああ良かった」
嬉しそうに言った女は、丁寧にお辞儀をし、再び向かおうとした時、おさわが、
「でも、今は外に出ている様ですよ」
「よろしいのです。中でお待ちしています」
笑顔を残し、一行を引き連れ、翔吉の部屋に向かって行った。
おさわは、(えらいこった!)と思っていると、傍らの光太は、可愛い笑顔で、
「綺麗なお姉さんだったね~」
などと、おさわを見上げて言う。
おさわは、苦笑いで、
「綺麗も何も、江戸一番の人かもよ。でも、どうなってんの?」
言いながら、光太を抱き上げて首を捻っている。
それから暫くして、翔吉がようやく深川に戻ってきた。
表札の並ぶ木戸を潜ると、先の方で何やら人だかりが出来ている。
何だ? と言う顔で歩いて行くと、井戸端に居た、おさわを見つけ、近づいて行った。
おさわも翔吉に気付き、駆け寄るなり、
「翔さん。あんた、どこに行ってたの!」
少々、興奮気味で声を上げた。
それには、さすがに翔吉も驚き、
「え? いや、ちょっと簪を例の所へ届けに……」
「あんた! なんか凄く綺麗な人が、あんたの部屋に来てるよ。えらい荷物と一緒に!」
などと、まるで叱りつける様に言うものだから、翔吉も仰天した。
「う、うちに?」
誰だろうと思った瞬間、頭に浮かんだ。
(あ!)
翔吉は、直ぐさま「すんません」と言いながら人をかき分け、部屋の障子を開けた。
そこには、「きりりしゃん」が、光を背に座っていた。
その後ろ姿が目に入った瞬間、翔吉は何やら、言いようの無い感覚に襲われてしまった。
すると、そのきりりしゃん花風は、ゆっくり振り向き、
「申し訳ありません、勝手に上がらせて頂きました」
翔吉は頭を高速で振り、妙な感覚から気を取り戻し、転がるように部屋へ上がる。
「花風さん、一体どうして……」
「ええ、今日は三月五日、年季の明ける日でございますから。本当はもう少しかかるかと思っていたのですが、世間並みにした方が縁起が良いだろうと見世の親父様が言ってくれまして……」
翔吉も、その事にようやく気付いた。
この時代、三月五日と言えば、世間の武家や商家の下男下女など、大抵の雇われ者は契約更新の日と相場が決まっている。
「そ、そうでしたか。それは花風さん、おめでとうございます」
座り直した翔吉は、震えた声で祝いを言うと、
「ありがとうございます。ですんで私、今日から元の名前に戻りました。お春と申します」
笑顔で、恥ずかしげに頭を下げた。
「あ、そ、そうですか」
翔吉も頷いたが、同時に、またもや首を激しく振り、
「いやいや、それより、お、お春さん。家に来るなんて言ってなかったじゃないですか」
すると、お春は途端に悲しげな顔で、
「ご迷惑でしたか? でも、力になってくれると仰ったから……」
そう言われると、翔吉は慌てて、今度は手を振り、
「いやいや、私が迷惑というよりも、ここは男の独り暮らしだし。私の事なんて殆ど知らないのに、怖く無かったんですか?」
「ええ何も。しばらく置いて頂くとありがたいです」
お春は笑顔で、柔やかに言われてしまう。
そこで翔吉はようやく、床に畳が敷いてあるのに気付いた。
「お春さん。畳まで持ってきたんですか?」
お春は素直に頷き、
「お布団以外は、一切合切持ってきました」
隣の部屋に積み重なる、行李に目をみはり、
「お布団以外って……畳持って来て、布団。持って来てないんですか?」
「さすがに飾夜具までは」
飾夜具は、お客が遊女に贈る布団の呼び名である。
翔吉も、その意味に気付き、
「あ、そ、それはそうですね。いや、そういう事ではなくて」
翔吉は頭に手をやる。
「お春さん。これじゃ全く、引っ越し女房ですよ」
と苦笑いだ。
そして、
「大変ですよこれから。大丈夫ですか?」
「ええ、やっと自由になれたんですもの。多少の事は何でもありません」
その時、翔吉はようやく思い出した。
「あ、簪」
出来上がった簪を、お春に差し出した。
お春は満面の笑顔で、すぐに髪に挿した。
「どうです? 似合いますか?」
翔吉は、向こうから鏡を持ってきて、
「ええ、とても」
と、微笑む。
お春は鏡に映った自分を見て、
「やっと、お春になれた」
生き生きとした笑顔で、呟いた。
しかし、事態はそれどころではない。
「お春さん。家に居るならどう考えても、嫁さんという触れ込みじゃないとおかしな話になります。尤もそれも、思い切り変だけど……」
「わかっております」
とは言いながら、まだ鏡の前で、子供の様に喜んでいる。
翔吉はその様子を見て(これも手練手管って言うんだろうか)と思った。
そして、
「ところでお春さん。ご飯とか焚けるのですか?」
一応、聞いてみたが、お春は、あっさり首を振る。
「そうだよね、そこからかぁ……」
翔吉はガックリと肩を落とす。
しばらくして「布団を持ってきます」とお春に言って、翔吉は表に出た。
横を見ると、そこには勘太夫婦が、興味津々の様子で話をしている。
翔吉は、早速、袖を引っ張られ、おさわに、
「翔さん、あれはやっぱり?」
「そう、花風。今はお春と言うんだ」
翔吉が元気無く言うと、夫婦は予想はしていたものの「お~」と仰天した。
すると勘太が、やけに嬉しそうに、
「おめえ、こりゃ一体どういう事だ?」
翔吉は、途方に暮れた顔で、
「勘さん、それはこっちで聞きたいよ~」
小さい声で嘆く。
変わって、おさわが、
「来るの知らなかったの?」
「そうなんだよ、困っちまったよ」
おさわも何だか嬉しそうに、
「近頃の吉原ってのは、三会目には家に来ちゃうんだね〰〰」
と、大笑いである。
「勘弁してよ、おさわさん」
翔吉は、今にも泣きそうだ。
すると勘太が、
「でもよ。突然嫁持ちで、しかも相手が吉原の呼び出しなんて。こりゃ、ここら辺でえらい騒ぎになるぞ。なあ」
おさわに言うと、大きく頷き、
「ああ派手に入って来ちゃうとね~。如何にも花魁道中ってなもんよ」
それには、翔吉も仰天し、
「げ! そうなの?」
おさわは笑いながら頷き、
「そりゃ、ゾロゾロとさ」
「ひぇ~参ったな……」
翔吉は両手で頭を抱きながら、うなだれる。
そして、覚悟をするのは、実は自分の方だったと悟った。
「おさわさん。すまないけど明日、お春さんを古着やら何やら買い物に連れてってくんないかな。あの人。荷物の割には必要な物が殆ど無いんだよ。光太は私が見てるからさ」
「そりゃ良いけど」
「ありがとう。これから布団を借りに行かなきゃ。じゃよろしく」
翔吉は、損料屋に向かって、脱兎の如く駆けだした。
損料屋とは現代で言う、いわゆるレンタルショップで、布団から褌まで貸してくれる。
火事の多い、江戸ならではの店だ。
掛けて行く、翔吉の後ろ姿を見送りながら、勘太は腕を組み、
「お前が言ってたのはこの事か?」
それには流石に、おさわは手を振り、
「いやいや、まさかこんな事とはね」
勘太は、そおっと隣に行こうとすると、おさわに袖口を引っ張られ、
「これから、いつでも会えるでしょ!」
と引き摺るように、部屋に連れて行かれた。
(3)
夕刻暗くなってから、翔吉はお春を連れだし、近所の大島町にある蕎麦屋へ向かった。
普段、翔吉が贔屓にしている店だ。
暖簾をくぐると店の娘が、
「あ、翔吉さん、いらっしゃい!」
と声を上げたが、後ろのお春を見て硬直してしまった。
普段、あり得ない光景だからだ。
「おきみちゃん、奥の小上がり良いかな?」
翔吉が指差しながら言うと、おきみは、
「え? はい、どうぞ」
余程驚いた様子で、慌てて奥に消えて行った。
ちょうど、客も引けていて静かだ。
二人は、蕎麦屋には珍しく、衝立で仕切られた小上がりに落ち着いた。
すると今度は、この店の女将が来た。
満面の笑顔で、
「翔吉さん。これはお珍しい取り合わせで、いらっしゃいませ」
お春をチラチラ見ながら言うと、
「ああ女将さん、この人は私の女房になったお春。今後ともよろしくね」
翔吉は平静を装い、お春も軽く笑顔で挨拶した。
女将は(え!)という顔で驚き、
「そ、そうなんですか。これはこれは、おめでとうございます」
「ありがとう」
そして翔吉は、酒と肴の注文をし、金を渡す。
「とりあえず、こんなもんでいいかな?」
「はいはい、結構でございます。少々お待ち下さいね」
女将は叫ぶように、調理場の方に飛んで行った。
そして翔吉は、
「すまないお春さん。女房と言っておけば、一応はみんな納得してくれるから。明日は大家にも、そう届けなきゃならないんだけど良いかい? 何かあれば、いつでも取り下げるから」
と、軽く頭を下げた。
「すまないなんてとんでもない。ご迷惑おかけして本当にすみません」
お春も、頭を下げると、
「迷惑じゃないよ。本当は喜ぶ事なのかも知れないけど……。何しろ突然の事で面食らっちまって」
翔吉は顔を撫で、
「でもお春さん。まさか最初から深川に来るために、私を吉原に呼んだわけじゃ無いだろう?」
それには、お春も頷き、
「はい。もう両親は亡くなってますし、ひとり弟がいますけど、あの子も所帯を持って田畑を継いでいる筈です。そんなところに姉だと言って、吉原の女が入って行くわけにもいかないし。最初は下女奉公でもして、一人で生きていこうと思ったんですけど」
「でも、それで何で私んとこへ?」
お春は微妙な笑顔で、ちょこっと首を傾げ、
「う~ん、まあ、何となく」
翔吉は目を丸くし、
「何となく~?」
訳が分からないが、何だか可笑しくて大笑いした。
お春も笑って、
「冗談でございます。仁左衛門の旦那様にお聞きしたら、深川で割と広い部屋にお一人だとお聞きしたので、とりあえず荷物だけでもお願いしようかと」
翔吉は苦笑いして、
「やっぱり旦那さんかぁ、ったくあの人は……。分かりました。お春さんの良いようにして下さい」
「ありがとうございます。良かった」
お春は嬉しそうに頭を下げた。
そんな時、お酒と肴が運ばれてきた。
肴と言っても、その頃の蕎麦屋だから、板わさや蕎麦つゆで煮込んだ野菜。そして、ちょっと張り込んで、小柱の天ぷらといったものである。
二人の猪口に酒が満たされると、翔吉は改めて、
「何はともあれ、無事の年季明け、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
と笑い合う。
「深川の蕎麦屋じゃ、吉原の台の物(仕出し)ってな訳にはいかないけど、勘弁して下さい」
お春は手を振り、
「良いのです。私はこういう事を望んでいたんですから。これで充分です」
笑って、二人は酒を口にした。
「ところで深川は、仮宅とかで、来た事があるのかい?」
仮宅とは、吉原が火事で炎上した際、再建されるまで仮営業する場所の事である。
「私の見世は深川に来た事無かったんですよ。ですから、今日も荷物を引いてくれた若衆さんと、ちょっと探してしまいました」
翔吉、笑顔で頷き、
「それにしても、よく身請けの話。断る事が出来ましたね。吉原の呼び出しだったら結構なものになるでしょう? 見世だって、そう簡単にはウンとは言わねえと思うけどな」
お春は頷き、
「まあ、そうなんですけど。近頃は、それだけ用意するのも大変な様で……病気だと言うと意外にスンナリ話がついてしまいました。私の方は証文を巻く(残債を棒引きする事)必要が無かったんで」
それには翔吉も、ちょっと驚き、
「巻かなくて済んだんだ。やっぱり呼び出しってのは大したもんだなあ」
お春は首を振って、
「そう思われるのは無理ないですけど、部屋の飾り、妹や禿の支度代からチリ紙一枚まで、こっち持ちですから、本当に大変でした」
翔吉は驚き、
「へ~あの透かし彫りの欄間もかぁ? そりゃ私も知らなかった。苦労したんだね」
「ありがとうございます」
微笑んだお春は、酒を口にしながら、それも昔の事と思ってしまう自分が嬉しかった。
「ところで」
翔吉は、盃を盆に置いて、
「そんな時に一番の厄介事はお客でしょう? 他の尻宮は大丈夫なの、お春さん」
尻宮とは、男女関係の面倒な問題。という意味である。
さすがにお春も、それには若干恥ずかしそうに、
「大丈夫だと思いますけど……」
翔吉は首を傾げ、
「そうかなぁ~。それなら良いけど」
少々、疑問気味に言い、
「新宿なんかじゃ時折、刀、振り回す様な事があったからさ。その度、私とおっかぁは、近所の蕎麦屋に逃げ込んでたよ。まあ、吉原じゃ、そこまではいかないだろうけど、何かと行き違いはあるからね」
と、さすがに訳知りの翔吉である。
「いえ、里(吉原)でも同じです。私も昔、斬られた姉さんを見たことがありましたから。さすがにそれは、私も気をつけました」
すると今度は、お春が聞いた。
「翔吉さんが、女郎の簪作らないのは、やっぱりお母様の事があっての事なんですか」
「いや……」
翔吉は首を振り、俯いて、
「おっかぁには、私の為に本当に気の毒な事をした。今、私が簪作って、人並みに暮らせるのは、おっかぁのおかげなんだ。死に目には会えなかったけど、何とか投げ込まれないよう、新宿に小さな墓を作ってあげられたのが、せめてもの親孝行だよ」
久々に、その当時の事を思い出したのか、声が悲しげだ。
「ただ、これは親子の事だから……。それよりも、おっかぁと居た頃、沢山、女郎の死に様を見てしまってね。その上、投げ込みまで手伝わされたりしたもんだから……」
お春も、それには大層驚き、
「え? でもその時分は、まだ子供じゃ」
「そう。だからせいぜい、その女郎の財産。と言ってもあそこだから、僅かな櫛や簪ぐらい。それ持って、ついて行って、一緒に埋めてやったりしたんだ。あれは本当に辛かった。ああいう所の女は、子供には優しいから」
お春も覚えのある事なので、悲しげに頷く。
「その時の簪やらが忘れられなくてね。ところが何の因果か、私がなったのは簪職人だ。埋める為だけの簪なんて、絶対に作りたくないって思ったんだ。遊びもそうだけど、好きとか嫌いじゃなく、悲し過ぎるんですよ」
翔吉は目を閉じて言った。
「そういう事だったんですか。私にも通り過ぎて逝ってしまった人達が、いっぱいいますから良く分かります」
お春は、思い出すような目をしている。
翔吉は、酒が入ったせいか珍しく饒舌だ。
「でもねお春さん。お春さんに会って」
お春の簪を指差し、
「その簪作ったのは良かった。何だか救われた気がしてね。昔の気持ちに囚われてばかりじゃいけないって思ったんですよ。遊ばなくても、見に行くだけでも修業になったってのに」
「そう言って頂けると嬉しいです」
お春は、柔らかな笑顔をむける。
「今日、家でお春さんの後ろ姿を見たとき、つかの間、おっかぁの姿と重なってしまってねぇ。その時、おっかぁが「助けてやりなさい」って言ってるようにも思えたんだ。まあ、気のせいだろうけど。ただ、そう思ったら、もう私の負けだ」
翔吉は笑う。
「負けだなんて。良かった。私の思った通りの人で……」
お春が、心から安心した様に言った。
しばらくすると、蕎麦が運ばれてきた。
「ところで、吉原でも蕎麦食べるよね? 好きかい?」
と、翔吉は話を変えた。
「そりゃ、食べますよ。お店もあるし。それに私は信濃ですよ」
お春は笑い、
「ただ、里では薬味は使いませんでしたけど」
「ああ、やっぱりそうなんだ。新宿の方に流れてきた吉原の人がさ、吉原では葱を使わないなんて言うんだよ。そしたら見世中、葱御法度になっちまって。蕎麦好きのおっかぁは、ずいぶん怒ってたっけな~」
吉原の花魁は客の為、臭いが強いネギ、ニラなどは口にしない。
「じゃ、風呂に香油入れて入るってのは?」
「昔はそうだったみたいですけど、私はやりませんでした。お宝がもちませんよ」
「うんうん。やっぱり、そうか」
翔吉は笑顔で頷いた。
「お春さん。これからは深川の地女だから、早く、町の生活に慣れないとね」
そして翔吉は、少々苦い顔で、
「ただ、地女になるって言っても、吉原の女だった事が拡がるのは、あっという間だと思う。お春さんがもし、ただの女郎だったならそれほど心配はしない。田舎に嫁に行って、幸せに暮らしてる女郎も多いらしいし。でも、花風は吉原一の呼び出しだったから、風当たりは倍かも知れないよ」
「はい」
「とはいえ、人の噂も七十五日。少しの間だ。それから明日、大家さんに挨拶した後、隣のおさわさんが買い物に付き添ってくれるから、普段着やら必要なもの買って、湯屋とか教えて貰ってね」
「いろいろすみません」
「いいんだよ」
と翔吉が、笑顔で言ったところで、二人は蕎麦に箸を伸ばした。
~つづく~
吉原の花魁道中は、外八文字。
上方では、内八文字だった様です。
しかし何れにしても、高下駄での道中は、関節に過剰な重圧がかかり、後が大変だったのではないかと思うのですが……。
身請けに関しては、秤にかけて、体重と同じ重さの小判で身請けした万治高尾、高尾太夫の伝説が有名です。
あれは、あくまで伝説ですが、江戸初期には、それぐらいの高額で身請けが一般的だった様です。
ただ、江戸も後半になると、そこまで金を出せる武家・商家も少なくなり、一方で、幕府の監視も厳しくなり、花風(お春)の様な例も、それほど珍しくは無かった様です。
とはいったものの、彼女は非常に運の良い遊女でした。
本文にも書きましたが、大抵の場合、借金・病気など違った理由で、辞めるに辞められなかったでしょう。
ただ、せめて小説だけでも、上手く行ったという女を描いて行きたいと思って書きました。
どうか、その辺の所、ご納得頂けるとありがたいです。
今回もご覧頂き、誠にありがとうございます。
よろしければ次回も、お願い申し上げます。