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きりりしゃん の小さな野望  作者: 本隠坊
1/5

① 発端



(1)


 江戸深川蛤町。

 長屋の端に、その男は住んでいる。

 (かざり)()の翔吉といい、三十路になろうかという独り者である。

 錺師とは金属や象牙、鼈甲を加工する職人で(かんざし)(こうがい)、刀の鍔、(ふすま)の取っ手などの装飾を施すのだが、翔吉はもっぱら簪。

 それも、金や鼈甲など高価な素材を使わない、比較的安価な簪を扱っている。

 なぜか大家の好意で、裏長屋の定番である九尺二間ではなく、壁が取り払われた二部屋分ある、長屋端の部屋に住まわせて貰っている。

 そしてその部屋の外は珍しく、片方が大きな池になっている。

 おかげで作業音の軽減はもちろん、池を眺めながら気分良く作業が出来るので、居職には良い環境であると言えるだろう。


 さて、その翔吉。

「独り者、店賃ほどは内に居ず」

 と川柳で言われる独り身とは違い、毎日、長屋で鎚の音を響かせるといった生活を送っている。

外に出るのも、せいぜい品物を届けに行くか食事と家事。

 もしくは長屋の溝浚いの手伝いといった程度である。

 しかし、それでは、浮いた話など有様も無い。

 見かねた大家は、縁談を世話しようとするのだが、どうも上手く行かない。

 近所のおかみさん連中には、

「見た目もそこそこ、腕も良いのにね」

「女嫌いかい?」

 と井戸端で笑われる始末だ。

 ただ、人柄も良く誠実で、頼むと簪の修理や、些細な手助けなど嫌な顔一つせずやってくれるから、長屋での評判は、なかなか良い。

 

 そんな彼は、今日も朝から、せっせと仕事をしている。

 するとそこへ、男の声が聞こえた。

「いいかい?」

 隣に住む大工職人で、同年代ということもあって懇意にしている勘太が、腰高障子を開けて入って来た。

 光太という三歳になる男の子を抱いている。

 翔吉は振り向き、不思議そうな顔で立ち上がり、

「おや、勘さん。今日は休みかい?」

「そうなんだよ、雨でもねえのにさ。足場が崩れて怪我人が出たって、それっきり」

「へ~」

「仕方ねぇから帰って来たんだけどよ。それじゃ子供の世話しろって言われちまってさ。ちょっと河原でも連れて行こうかと思ってな」

 勘太は苦笑いで、頭を掻く。

 翔吉は、微笑みながら側に寄り、

「子持ちも大変だねぇ。まあ二代目だから大切にしねえとな」

 光太を指であやしながら笑うと、

「何言ってやがんだ。おめえの方こそ、さっさと嫁貰わんと、あっと言う間にジジイだぞ」

「それを言うない、仕方ねえよ」

 翔吉は、首に手を当て苦笑する。

「それからな、おさわが、今晩うちで、飯食ったらどうかと聞いてこいって言われたんだが、どうするね?」

「おお。いつもすまねえな、助かるよ。じゃ今日は品物届けに出かけるんで、ついでに(あつし)が酒を買ってくるよ。おかみさんに、そう言っといてくれるかい?」

「おう。じゃ上酒頼むぜ。たまには良い酒飲みたいからよ」

 笑う勘太に、翔吉も笑って頷き、

「あはは、分かった分かった。坊には菓子だな」

「悪いな」

「お互い様だよ」

「じゃ、行ってくるから、またな」

「ああよろしく」

 抱かれた光太が手を振り、勘太は出て行った。


 すると、それほどの間も置かず、

「ごめんなさいよ」

 と、再び声がした。

 今度は翔吉が、今から行こうと思っていた小間物屋、紀州屋の主人、仁左衛門が自ら訪ねてきたのだ。

 仁左衞門は、四十半ばの旦那で、実は、結構遊び慣れた男で有名である。

 上手く立ち回っているのか、女将さんとは辛うじて平静を保っているらしいが。

意外な来訪に驚いた翔吉は、

「これはこれは旦那さん、これから伺おうと思ってましたのに」

上がり框に腰掛ける、仁左衛門の前に来て正座して、頭を下げる。

「いやね。実はあんたに頼みたい事があるんだが、店じゃ話し辛いからさ。来ちまったよ。あのな、ちょっと一緒に来て貰いたい所があんだよ」

「え? ご注文の簪はいいんですかい?」

「ああ、それは後で良いんだ」

「は~。で、一体どこへ行くんです?」

 すると、仁左衛門は、ニコニコ笑いながら、一言。

「吉原さ」

「え!」

 その言葉には、翔吉は目を丸くし、驚いた。

 そして慌てた顔で、

「ち、ちょっとお待ちを。ご存知の様に私はああ言う所へは……」

 手を疾風の様に振りながら言うと、仁左衞門は苦笑して、

「残念ながら遊びじゃないんだよ。私がよく行く見世の花魁が、お前さんにお会いしたいとご所望でね」

「え、私に?」

「そうなんだよ。しかも驚くじゃねえか、なんと呼び出しの花風だ。私が贔屓にしている妓を通じてね、腕の良い簪職人知らねえかって。あたしにゃ、そんなの翔さんしか思い浮かばないから、そう言ったら是非お会いしたいって言うんだよ。すまないが一緒に行ってくんねえかな?」

「呼び出し」というのは、この頃の吉原で花魁最高位の呼び名である。

 翔吉は、かなり困った顔になり、

「そうは仰っても旦那さん。旦那さんが一番よく知ってらっしゃるじゃないですか。私の簪がどういうものか」

 仁左衛門も、それには頷いて、

「うん。私もね花魁、ましてや呼び出しが刺すような簪ではありませんよ、って言ったんだけどな。どうも何か子細があるようなんだ。だから会って話したいってよ」

「う~ん」

 実は、この種の注文は、翔吉にとって、ある理由から一番受けたくない種類のものであった。

 しかし、普段世話になっている仁左衛門の頼みは、さすがに断り辛い。

「とにかく、今回は私の顔を立てておくれよ」

 重ねて頼む仁左衛門の言葉に、翔吉は(ははぁん)とあることに気付いた。

 上目遣いの笑顔で、

「立てるのは旦那さんじゃなくて、ご贔屓の顔なんじゃ?」

「バレたか」

 と、仁左衞門は、首筋に手を当てて大笑いだ。

 翔吉は、不承不承ながらも頭を下げ、

「承知致しやした。とりあえずお話だけは伺いやしょう」

 その言葉に仁左衛門は、上機嫌な顔になり、

「そいつはありがたい」

 と言って立ち上がった。

 それから、翔吉は慌ただしく着替え、二人は連れだって大川の船宿に向かう。

 ちなみに、浅草橋あたりの船宿から緒牙船で行くと、山谷堀まで一人百四十八文。一文二十円として三千円というところである。

 舟は、永代橋近辺の船宿から乗り込んだ。

 春間近でまだ肌寒いが、晴天に恵まれ川上へ進んでいく。

 翔吉は久しぶりに、穏やかな揺れと、心地良い風を感じながらも、初めての吉原行きに少々、不安を感じていた。

 

(2)


 思いの外早く、舟は山谷堀に到着した。

 船を降り、船代を支払ってくれた仁左衛門に、

「すみません旦那さん」

 翔吉が礼を言うと、

「なに、こっちの頼み事だからね。気にしないでおくれ」

 手を振り、ゆっくり歩き出した。

 そして、曲がりくねった五十間道を進んでいる時、

「どちらの見世なんですか?」

 と翔吉が、仁左衛門に訪ねると、

「角町の富貴楼なんだよ」

 それには翔吉も、眼を大きくした。

「え! 富貴楼ですって? そこの呼び出しなんでございますか?」

 大門を前にして、翔吉は足を止めた。

「ほう、あんたでも知ってたか。実はそうなんだよ」

「知ってるも何も。そりゃもう、有名ですから」

 翔吉自身が行くことは無いが、商売柄、噂だけは聞く事がある。

 吉原数ある見世の中でも、一番と評判の大見世である。

 翔吉の緊張度合いが、二段は急上昇した。

 しかし、その様な見世の呼び出しであれば、かなりの高額が必要である。

 そこの馴染みと言う、仁左衛門の方が、むしろ心配になり、

「そうすると、旦那さんの払いも大変なんじゃ?」

 と言うのは尤もである。

 すると仁左衛門は、

「いやいや、私の相手は付廻しだから、それほどではないんだよ」

 付廻しは、呼び出し、昼三に続く女郎で、揚げ代は金二分ほど。

 ちなみに、一両は四分である。

 いずれにせよ、付廻しは呼び出しほど揚代や祝儀はかからぬが、それでも大見世であるから安い金額ではない。

「女将さんの方は、大丈夫なんですかい?」

 少々脅かす様に聞く翔吉に、

「まあ、今のところはね。だから、あんたの簪が売れてくれると大いに助かるのよ」

 仁左衛門は悪戯好きの子供の様に笑った。

 春本番には桜が立ち並ぶ、仲之町通りをまっすぐ進む。

 翔吉は初めてだから、左右、目が忙しい。

 さすがに、町中とは違い、一種、独特の町並み。

 早い時間だったからか、張見世(顔見せ)の遊女は居なかったが、籬の並ぶ店。

 そして、提灯が遙か先まで連なる提灯の様子など、まるで、別世界の様だった。

そんなことに感心していると、いつの間にか、角町にある富貴楼の前に到着していた。


 まず、仁左衞門が店に入り、到着を取り次いで貰う様、見世の若い者に頼むと、翔吉も続いて暖簾をくぐった。

 翔吉は、まだ仕度中といった見世の中の様子を見回し、何やら形容しがたい顔をしている。

 するとそこへ、年若い遊女と思しき娘が、階段を下りてやって来た。

「これは旦那様。今日はお昼からお出でござりんすか」

 愛くるしい笑顔で挨拶したが、隣の翔吉に気付き、慌てて、

「あらあら、これはおいでなされませ」

 と挨拶をした。

 仁左衛門は慣れた調子で、

「梅香。今日はほれ、お前さんに頼まれた花風花魁の簪の件で、職人を連れてきたんだよ」

「ああ、あの事で。それはわざわざのお越し、ありがとうござりんす」

 梅香は二人に頭を下げ、

「花魁も今は空いておりますぇ、ご案内いたしんす。どうぞこちらへ」

 言葉に従い、二人は彼女の後に続き見世に上がり、吉原特有の裏に回る階段を上って行った。

 上がりきるとそこには、支度前の遊女達が、思い思いに過ごしていた。

 今で言う、アンニュイの雰囲気の中、数々の視線を集めながら三人は進んで行き、奥まった部屋の前に来ると、梅香が膝をついたので、二人もその後ろに座った。

「姉さん、姉さん。先日お話した仁左衛門様がお出ででありんす。よろしゅうござんすか」

 梅香が襖越しに聞くと、

「へぇ、どうぞご遠慮なく、お入りくんなまし」

 涼やかな声で、返事が返ってきた。

 そして襖が開かれた途端、ふくよかな香りが混ざった微かな風が、翔吉の顔を包み込み、そして心地よく抜けていった。

 正面を見ると禿を左右に、兵庫髷の髪型に細面で、ハッキリとした目鼻立ち。すらっとした両肩からの線。些か地味だが、見事な意匠の着物を纏った女が座っている。

 支度前で派手な飾り付けはしていないが、翔吉はその佇まいを目にしたその瞬間、

(翔吉。吉原の遊女にはね。凜とした姿をした。

 そりゃ美しい天女の様な「きりりしゃん」がいるらしいよ)

 と、その昔。母親が笑いながら言っていたのをふと思い出した。

(そうか。これが、きりりしゃんっていうのか。確かに天女のようだ)

 翔吉は目を見張って、その女を見詰めた。


~つづく~



「また簪か?」

 と、お思いの方もいらっしゃるでしょうが、どうかお許し下さい。

 実は、この「きりりしゃんの微かな野望」は、お華の首飾りより、もっと初期の作品で、特に簪好きと言う訳では無いんですけど、扱いやすいもので……。

 自分自身でさえ、お華の後にこれかい? とは思いましたが、まあ、今回は武器ではないので、ご容赦下さい。


 さて、遅れましたが、今回もお読み頂き、誠にありがとうございます。


 江戸時代の女性を書く場合。まず、芸者・吉原・大奥が、まず頭に浮かびます。 芸者は既に書きましたので、今度は吉原という事でございます。

 ただ、これは吉原自体というよりも、そこに居る遊女の一生をテーマに書いております。

 お気づきの方もいらっしゃるでしょうが、これは、様々な落語の話を下敷きにしています。

 残念ながら落ちまで考えていませんが(笑)まあ、その辺もご了承下さい。

 

「生まれては苦界、死しては浄閑寺」

 と言う句をご存じでしょうか?

 東京・三ノ輪にある浄閑寺にある、新吉原供養塔にこの句があります。

 その供養塔の中には、骨壺が幾重にも重なって置いてあり、それが、その隙間から見ることも出来ます。

 私には、死してもまだ顔見せか? 

 と、何とも言えない気持ちになった事を憶えています。

 この手の話は、悲劇の悲しい話になりがちですが、私は、逆に明るい話にしようと思ってこの話を書きました。

 話だけでも、彼女達の供養になれば、と思っての事です。

 それでは、短いお話ですが、楽しんで頂ければ幸いです。

 ありがとうございました。

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