002 隷属
『これ、これ起きんか』
ペチペチと誰かが僕の頬を叩く痛みで目が覚めた。
たぶんお母さんだ、晩ご飯に呼びにきたんだと思う。
目を開くのも億劫なほど疲れていた僕は、頬を叩く手を煩わしげに払い除ける。
「ごめんお母さん……ご飯いらないから寝かせて……」
『そうはいくか、これ!起きんか小僧!!』
「…………え!?」
僕を起こす声がお母さんの声でなく、嗄れた老人の声だということに気づいて飛び起きる。
目を覚ますと僕の目の前には夕方見た真っ白でひび割れた老人の腕がぶら下がっていた。
『ようやっと起きたか、吾を前に眠りこけるとは無礼で豪胆な小僧じゃ』
「う、うわあああぁぁぁぁぁあ!?」
『ッ!? カァーーー!! 突然大声を出すでないわたわけ!!』
悲鳴を上げて飛び退いた僕の頭を老人の腕は叱責するようにペチンっと叩いた。
力がはいっていない叩きはそんなに痛くなく
けれども混乱する僕を冷静にさせるには十分な一撃だった。
恐る恐る視線を上げ老人の腕を見る。
乾いた粘土を思わせるカピカピの白い肌
手首から先が三叉に割れ、細長い3本の指が空をかくようにうねうねと動いている。
そのうちの一本には灰色の目、もう一本には真っ赤な口がついている。
肘から先は刃物で切り取ったように綺麗に切れており
その断面を覗くことはできないが血などは出ていないように見える。
どこからどうみても異常な存在の老人の腕は、その目は楽しそうに歪められ、僕を見つめている。
『落ち着いたか小僧』
「は、はひ……」
『よい、吾は寛大故に一度だけ許そう。二度と無様を晒すでないぞ』
「あ、ありがとうございます?」
『うむうむ』
真っ赤な舌をベロリと出して唇を舐める老人の腕はどこか満足そうだ。
表情がないので声色と僅かな所作から感情を読み取ろうとするがなかなか難しい。
とにかく今はこの腕を怒らせないようにしないといけない
もし怒りを買ってしまったら何をされるかわからない。
ゴクリと生唾を飲み込んで口を開く
「あ……あなたは何者ですか?」
『吾はヘカトンケイル、偉大なる魔導を歩む者である。』
「あ……?えっとヘカトンケイルさん?」
『主人には敬称をつけぬかたわけ!!』
ベチンっと先ほどよりも強く頭を叩かれる。
思わずあいた!っと声が漏れ叩かれた頭を手で押さえる。
ジンジン痛む頭をさすりながらヘカトンケイルに問い返す。
「しゅ、主人ってなんのことですか?」
『吾の呼びかけに応えたであろう、若年ながら吾の呼びかけに応えるとは殊勝な小僧よ。』
「えっと……ごめんなさいよくわからないです。」
『なんと!! 小僧貴様!! まさか知らずに応えたと言うのではあるまいな!!!』
「ご、ごめんなさい……」
シュンと身を縮こませて俯くと、老人の腕も力が抜けたようにダランっと腕をぶらつかせた。
『よもやこのような愚か者が存在するとは……呆れてものも言えぬわ』
「ごめんなさい……」
『…………まあよい、吾は寛大故に一度だけ無知蒙昧な小僧に教えてやろう。』
ヘカトンケイルは裂けていない最後の指を僕に突きつける。
『よいか小僧、吾が「これ」とか「そこの」と呼びかけ
それに応えたものは吾の従僕と認めたこととなる。
吾が呼び、小僧が是と応えた。
故に小僧は吾の従僕であり、吾は小僧の主人なのだ。』
「………………はい?」
顔を上げポカーンっと口を開けてしまった。
「そ、それだけでですか?」
『うむ? それ以外なにがあるというのだ』
「そんなの無茶苦茶だ!!」
ダンっと床を拳で叩きながらその場から立ち上がった。
僕の目線についていくように老人の腕も上昇した。
この腕の言っていることは無茶苦茶だ。
呼んで応えたからお前は今日から従僕だなんてそんなの認められるはずがない。
そんな勝手な話なんてない。
僕は握れば折れてしまいそうな細い老人の腕をキッと睨みつける。
「ぼ、僕はあなたの下僕になんかなるつもりはありません!! 帰ってください!!」
毅然とそう言いながら老人の灰色の目を見つめると
老人は信じられないといった様子で目を見開き、徐々にその目を据わらせていく。
『小僧、つまりそれは 吾に逆らうと言うことか。』
ズンっと部屋の中の空気が重くなった。
老人の腕から漂う雰囲気がガラッと一変した。
有無を言わせぬ重苦しい空気に呼吸がし辛い。
全身から冷や汗が吹き出すのを感じながら、自分が決定的な間違いを犯したことを理解した。
『砂利が、優しくしておったら図にのりおって』
老人の指が突き刺すように僕の額に突きつけられる、裂けていない最後の一本だ。
僕が見ている目の前でその指の腹が裂ける。
裂け目から顔を出したのは目でも口でもない、そこには真っ赤な宝石が埋まっていた。
小石程度の大きさの宝石は血のように真っ赤で透明感がなく
綺麗と言うよりはドロドロとした印象を抱かせた。
僕がその宝石から目が離せないでいると
キラリと一瞬光ると赤い光が宝石から僕の額に放たれた。
激痛
思考が一瞬で蒸発するような激痛が僕を襲った。
あまりの激痛に声も出ず、呼吸の仕方も忘れた。
ビクンッと体がえび反りになり口から泡を吐き出し声にならない悲鳴をあげる。
痛い、痛い、痛い
頭から足の先まで鉄の棒を突き刺されめちゃくちゃにかき回されているようだ。
痛い、痛い、痛い
どうすればいいのか、どこがどんな原因で痛いのかも考えることができず
ただこの苦痛から逃れたくてめちゃくちゃに腕を振り回す。
痛い、痛い、痛い
辺りに置いてある時計やランドセル、おもちゃが振り回された腕にあたり部屋の隅へと飛んでいく。
その時に腕に細かい傷がついたが、そんなの全然気にならないほどの激痛に悶え苦しむ。
痛い、痛い、痛い
永遠にも思えた苦痛の時間はしかし次の瞬間には治まっていた。
「ッッッッッカハァッ!!」
思い出したように息を吐き出した。
酸素を求めた肺に新鮮な空気が流れ込み
それを全身に巡らせるため必死に心臓が鼓動しているのを感じた。
のけ反った体勢からそのまま仰向けに倒れ込み
ハァハァと荒く呼吸を繰り返しながら天井を見つめる。
そしてその視界にあの真っ白な老人の腕が入ってきた。
「ッッッッッ!? ヒッヒィィィいいイィィ!?」
情けない声を出しながら手を顔の前で交差させ老人の腕から隠れようとする。
そんなことは無駄だともちろんわかってる
だがあの腕を見るとさっきの激痛が蘇ってきそうで怖かった。
『あの程度で根をあげるとは軟弱な、吾の怒りはあの程度ではないぞ。』
「ご、ごめ……ごめん……なさい」
苛立たしげな老人の腕に嗚咽混じりに必死に謝る。
もう二度と逆らわないから、もうあれだけはやめてほしい。
両目から涙が溢れごめんなさいと何度も繰り返す。
そんな僕の様子に気が抜けたのか老人の腕は大きなため息を吐いた。
『……まぁよい、貴様が小童故の愚と一度だけ見逃してやろう。吾は寛大故にな。』
「あ……グスッ…………ありがとうございます……」
『やはり躾には鞭よな、どんな阿呆でも身の程を弁える。ほれ小僧これを受けとれ。』
老人の腕が一度指を握りしめ、パッと開くと指と指の間に3つのガラス玉が挟み込まれていた。
老人はそれを雑に僕に放り投げる。
コンコンコンと甲高いガラス玉が落ちる音と共にコロコロと僕の元に転がってくる。
赤色と青色と黄色の透き通った綺麗なガラス玉だった。
老人の指に埋め込まれていた真っ赤なものとは比べ物にならないほど透き通った綺麗な玉に思わず目が釘付けになった。
『小僧にこれを下賜しよう。これを用いてかの世界で生き延びよ』
「かし……ってなんですか?」
『ムムッ……これをやると言う意味だ。
しかし小僧、無知すぎて心配になってきたの。
吾が手出しできるのは今宵のみ故、あとは小僧に任せるが簡単に死ぬでないぞ。』
それではな〜っと呑気な言葉と共に、白い腕は膝の方から何かに引っ張られるように消えていった。
残された僕は部屋の時計のカチコチという音を聞きながら床に転がる赤い玉を見つめていた。
痛みのせいで立ち上がることもできず、ただ目の前に転がっている赤い玉をジッと覗き込む
玉の中の赤は僅かに渦巻いているようで濃淡が渦を描いている。
しばらく見続けているとだんだんと渦が人の目のように見えてきた。
それは優しい眼差しに思えた、こちらを心配しているような同情しているような眼差しだ。
僕のことを心配しているように思え、思わず大丈夫だよと呟く。
玉の中の瞳が笑ったように感じた。