そして、水底の泡は弾けて消える
それでも、信じてはいた。記憶を歪められていたのはわかっていたから。
その冷淡な切り捨ても記憶操作の影響によるものであるだろうと理解していた。だから裏切りに怒って流儀を通すのは待とう、と。記憶の歪みがなくなり、正しい記憶を取り戻すまで。その時にどうするのか、真鉄の態度を見守ろう。
待った。待った。何も知らない無垢な少女のふりをして待った。偽りの薄氷を渡って待った。待って待って待って、そして、ようやくここに来た。
ここに来て、真実を知って、正しい記憶を取り戻して、それで真鉄はどうするだろう。今までのことを後悔して嘆いてくれるだろうか。
期待を抱いて蓋を開けてみれば。水底に沈んだ真実を引き上げて晒してみれば。
淡々とした事実がそこに横たわっていた。だがそれでも『もしかして』に備えて踏みとどまった。
精霊が綴った台本には、主人公は『ひとりの探索者』であると記されていた。
ひとりの『探索者』ならば、完全帰還者である自分は探索者のくくりには当てはまらない。正体を晒して真実を明かして、求められれば真鉄の力になることさえ考えていたし、邪魔であると言うなら自ら封じられるつもりであった。狂気の相互信頼による自己犠牲精神はまだ残っていた。
ギリギリまで。土壇場まで。歪められた記憶の中にあるかもしれない『何か』を期待して。信じて。
そうして得られたものは。
――認めない、という否認だった。
ああ、時間切れ。最後の最後まで信じていたのに。突きつけられたのは冷たい拒絶。
ならばもはや用はなし。やられたらやり返す。その流儀にならって、切り捨てた裏切り者を切り捨てる。
すべての伏線はこの一瞬のために。すべての偽りはこの一瞬のために。この一瞬で崩れた信頼のために。
「ねぇ、私、もうどうしたかったかさえ定かじゃないんです」
『シシリー』か『霖』か、口調すら曖昧になっている。
どうすればよかったのだろう。どうなればよかったのだろう。
すべてをつまびらかにして、真鉄が後悔してくれればよかったのか。懺悔してくれればよかったのだろうか。謝ってくれればよかったのだろうか。
さすが僕の仲間だ、死の淵から還ってくるなんてと称賛を口にすればよかったのだろうか。受け入れてくれればよかったのだろうか。囮のために後ろから斬り殺した詫びにと首を掻き切ってくれればよかったのだろうか。
望んだ終着点すら滲んで消えてしまった。残っているのはただひとつ。
「かえってきたら、殺さなきゃ」
ワタシの目的は、あなたを殺すこと。
***
「……は」
血溜まりに横たわりながら、真鉄は彼女を見上げた。
貫かれた腹と胸からは命が血液となって流れ出ていっている。指先が急速に冷たくなっていっているのを自覚する。遠のく意識を痛みで繋ぎ止めて、口を開く。
「僕が死んだら、世界も終わるよ」
それは命乞いではなく事実の指摘だった。一度は封じた世界の終末装置が動き出そうとしている。真鉄という戦力を失えば、終末の憎悪に飲まれて世界は終わる。
この行為は世界の終末を回避する救済の糸を断ち切る行為だ。
「それが?」
忘れてはいないだろうか。完全帰還者を構成するものはなんであるか。
完全帰還者を構成するのは、核となる強い情動。それ以外のものは置き去りだ。この悲嘆以外は極論、どうだっていい。
だから真鉄の死の後の終末についてなど何の感慨もない。その言葉が命乞いだろうが事実の指摘だろうがどうだっていい。悲嘆の答えを裏切りという形で得た以上、もはや何も無し。意味も理由も価値もない。
何もない。本懐は遂げた。この瞬間、加護は呪いに変わる。巨岩を羽毛で撫でるかのような微弱さで、擦り切れるまで存在を保証され続ける。擦り切れたとしても継ぎ足して還ってくる。だがそれだってどうでもいいのだ。
今この一瞬のために、すべては在るのだから。
「かえってきたら、殺さなきゃ」
そうして、水面は凪いだ。




