きみはおわるだろう
一晩明けて、怠惰の山岳から立ち去る。土神の眷属は何も言うことなく見送ることもなく、目を閉じたまま横たわっているだけだった。
「一晩、ありがとうございました」
霖が声をかけても反応はない。岩の裂け目のようなまぶたがほんの少し動いただけだ。
肉体は魔力で構成されているため呼吸の必要がない。呼吸のためにわずかに上下することもない背中はまるで死んでいるようにも見える。
実際、死んでいるのだろう。肉体でなく精神の話だ。世界の終末を望みつつも、そのために活動しない。ただ怠惰に終末を待ちわびるだけだ。魂に与えられた使命を守ることだけを残して、あとは何もかも死に絶えてしまった。
いってらっしゃいの一言もなく、その先へ。38階を目指して階段を登り始めた。
踊り場のように設置されているレストエリアをいくつか越えて、そろそろ足に疲れを覚え始めた頃。休憩しようかと真鉄が提案した。
「登るペースが落ちてきた。休憩しようか」
ちょうど小休憩によさそうなスペースが目の前にある。座って休憩できそうな岩も転がっている。
いかにも休憩しろと言わんばかりに上部が平らに切り落とされている岩に、尻が痛くならないよう布を敷いてから腰掛ける。一息入れるために荷物から水筒を引きずり出してカップに注いで、飲み干して息を吐く。
「……師匠って、あぁいう名前だったんですね」
マズルカ・キロ・ヴェイジマーズル。だったか。
確か真鉄の世界の名乗りのルールでは名と姓の間に所属するコミュニティや出身地などを挟むという。噛み砕くなら、キロ族のヴェイジマーズル家のマズルカということになる。
その真名を字という仮名で隠す。そういう文化だ。
「そうだね」
確認のように問う霖に、そうだねと真鉄が頷く。
キロ族の掟では、真名は親か伴侶くらいしか明かしてはならないものだ。兄弟ですら知らせてはならない。厳しいところでは、考案し名付けた片親だけが知り、もう片方の親は知らないことさえある。
婚約の際に指輪を渡す文化があるが、キロ族の場合はそれが真名を明かすことに置き換わる。それくらい重要なものだ。故に真名を明かすことは相手に対する最大限の敬意であり、信仰であり、信頼であり、愛情だ。
「流れで知っちゃったんですけど……」
「まぁ問題ないよ。言いふらさないでほしいくらいかな」
「それは勿論……でもいいんですかそれで?」
それほどの重要なものをあっさり許すなんて。もっとこう、深刻な話に発展するかと思って身構えていたというのに。
キロ族の信仰に敬虔ではないと言っていたが、それでか。
「うん。だって霖が僕のお嫁さんになればいいだけの話だし」
「え」
「あぁ婿入りでもいいよ」
そのあたりはこだわらない。軽口を叩いて、にこりと微笑む。
真っ赤になって顔を伏せる霖を微笑ましく眺め、小腹を満たすために食料庫代わりの武具から保存食を取り出す。乾燥させて砂糖をまぶしたカロントベリーの実をひょいとつまんで口の中へ。目眩がするほどの甘みは探索の疲れを回復させる糖分補給にもってこいだ。
さて、真名の重要性については説いたとおりだ。ではもし真名が親や伴侶以外に知れてしまったら。
兄弟間や片親の場合は容赦して禁句の誓いを立てるだけで済むこともあるが、基本的に婚姻を結ぶか別の手段かのどちらかだ。
婚姻に関しては、恋人が子供を妊娠してなし崩しに結婚するような婚姻と同じだ。伴侶しか知ってはいけない名なのだから、伴侶となれば罰されないという理屈である。
デキ婚ならぬ知り婚というか。そういった経緯での婚姻なので、世間的にはあまり褒められたものではない。女が意中の男を引き止めるために真名を教えて婚姻を迫るだとかはよくある事例だ。
もうひとつの手段は単純明快で乱暴な手だ。すなわち、真名を知った者の殺害だ。秘密を知った者は殺す、ただそれだけのシンプルな理屈だ。
真名を知られた時にどちらの対応が一番多いかは言うまでもないだろう。火が象徴する性質は過激と苛烈。キロ族はその性情を受けているのだから。
そう。霖に知られても問題ない。
知られてしまったのなら殺せばいいのだ。それですべて解決する。
今まで何度も重ねてきた裏切りだ。今更ひとつ増えたところで大差はない。




