かえるべき場所へ
さぁ、行こうか、と立ち上がり、真鉄はその場をあとにする。霖もそれに倣い、真鉄について行く。
点々と水面に浮かんでいた足場は徐々に間隔が狭まっていき、ついには道のようになる。水の上に浮かんでいるので安定性はないが、足場を跳んで渡るよりもずっと歩きやすい。
「霖、見てごらん」
下、と真鉄は静かな湖面を指す。落ちないようにねと注意する声に頷いて、指した指を追って霖は湖面に目を向ける。
透き通った水を掻き分けて悠々と泳ぐ巨躯があった。
長くうねる体と、体に沿って弧を描く髭。美しく揃った鱗を追えば、長いひれに行き着く。
海底のような色をした海竜が真鉄と霖に付き添うように湖を泳いでいた。
「あれが水神の眷属だ」
その名で呼ばれることは滅多にないが、イルス・リヴァイアというのだそうだ。イルスというのが個体名で、海竜というもの全体を指してリヴァイアと呼ぶ。
とはいえ、あれは幻影であり実体はない。イルス・リヴァイア本体はというと、塔の頂上にある扉を越えた先、神々の世界にいるのだそうだ。この世界に塔が作られ、その内部に各属性ごとの領域が作られた時、水の領域を守護するため、幻影という形で自分の力を割譲してこの場に留め置いたのだとか。
そう伝わっているだけで、それが本当なのかどうかは真鉄にはわからない。真実は書架か海竜自身が知るだろう。
水の属性は感情という概念を象徴する。そしてここにいるイルス・リヴァイアは実体のない幻影。
その2つの要因が重なって、水の領域では帰還者が発生しやすい。上層で死んだ探索者の感情の片鱗はこの湖に呼び寄せられ、そして湖の中に沈殿していく。そうして発生した帰還者はこの湖の底に淀みのように溜まっている。
本来なら、水に近付いた探索者に反応して水上に浮かび上がり、湖の中に引きずり下ろしてくる。帰還者は倒すことができない。捕まれば溺れ殺され、その無念は沈殿して新たな帰還者となる。
だが、海竜は湖底で発生した帰還者を抑えこんで浮上を許さない。
それどころか、真鉄と霖に付き添っている。普段はその力を見せることなく、自分の足元で発生した帰還者を抑えることもせず眠っているのにだ。
これが本命ではないが、水神の加護とやらの一端なのだろう。
海竜が付き添っているのは真鉄ではなく霖だ。真鉄はおまけ。むしろ付き添いの範疇の外だろう。仮に何らかで真鉄と霖との距離が離れ、真鉄だけが帰還者に襲われたとして、海竜は真鉄を守らないだろう。
だが霖は守る。いや、守っているのではない。その道程を保証している。この湖底から生まれたモノが行くべきところにきちんと帰還れるように。
「ありがとうございます、えぇと……」
「イルス・リヴァイア」
「イルス・リヴァイアさん」
水面近くまで上がってきた海竜へ、霖がぺこりと頭を下げる。海竜はわずかに双眸を細めただけだった。
海竜はゆるりと体をくねらせ、ひれを翻す。尾びれで水面を叩いて湖の深くまで潜っていく。離れていったと思った海竜はすぐに浅い位置まで浮上してきた。どうやら長い体が足場に絡まりそうだったので一度深くまで潜って浮かび直してきたようだ。
偉大なる神々の眷属である海竜の小さな失敗を微笑ましく見ながら足場を渡る。真鉄と霖と海竜、どの間にも特に会話はなかったが、その沈黙が妙に心地よかった。
誰一人口を開かぬまま、水面に浮かぶ遊歩道のような足場を黙々と歩いていく。
「……階段まで着いちゃいましたね」
何事もなく、穏やかに到着してしまった。もっとこう、風の大鳥がそうであったように激戦があるものと思っていたのに。いや、平和に通り抜けられればそれに越したことはないのだが。
「イルス・リヴァイアさん」
霖がくるりと後ろを振り返る。水面から顔を出した海竜が首をもたげて深海色の目でこちらを見ていた。
「見送り、ありがとうございます」
行きたくて、生きたくて、逝きたくて。
だからいってきます。私は、『霖』を終わらせます。
いけば最後、ここにかえることはないでしょう。
付き添ってくれてありがとう。見送ってくれてありがとう。
この存在を保証してくれてありがとう。おかげで本懐を遂げられるでしょう。
水神が拾ってくれた一欠片の感情の望みを果たしに。
「……行ってきます」
いってらっしゃい。どうかご存分に。
そう言いたげに海竜はひれを揺らした。そして湖底に潜り、再び浮上することはなかった。
まるで別れだ。そう思いつつ、36階への階段へ足をかけた。