すべての始まり、沈黙の明鏡止水
35階。すべての始まり、沈黙の明鏡止水。
長い階段を登ってたどり着いた階層は巨大な湖だった。底が見えないほど深く彫り込まれた中に濁濁と水が溜まっている。
構造的には、いくつかの階層かをぶち抜いてそこに水を溜めたのだろう。まるで水を溜めた大きな桶のふちに立っているかのようだ。
開け放たれた壁から吹き込んでくる風に揺られる以外波立つことのない水はどこからか流れ込み、また流れ出している。
その水面に点々と足場があり、対岸の上り階段へとつながっている。
水は透き通っていて、濁りなどはない。魚が泳いでいたり、水草や苔が茂っているふうもない。
巨大な貯水槽のような湖の底には、とぐろを巻いて目を閉じる海竜の姿があった。
ここが35階。水の領域。静謐という言葉を体現したかのような空間は、いつかの惨劇などなかったかのように静かだ。
「……ちょうど、あのあたりかな」
呟いた真鉄は、足場を渡り、36階への階段にほど近い大きめの足場へと向かう。
ここだ。間違いない。血の汚れも何も残っていないが、確かにここだ。そっと膝をつき、その場にひざまずいた。
「師匠……」
そこが現場か。そこで真鉄の仲間は死んだのか。
水に落ちないように慎重に足場を渡って追いついた霖もまた真鉄に倣って膝をつく。
そして、黙祷。供える花も何もないが、どうかこの静かな湖面のように眠ってくれと願う。
沈黙。ややあって、黙祷を終えた真鉄が顔を上げる。
「もうひとりになってしまったけれど、僕は頂上に至るよ」
それは真鉄の決意だ。死んだ仲間に変わってやらねばならぬことだ。
頂上を目指す。そして願いを叶える。たとえ途中で寄り道があったとしても、それだけは絶対に曲げることはない。何を犠牲にしてでも叶えなければならない願いがある。
「君たちの犠牲の末に僕が願いを掴もう」
志半ばで息絶えてしまった仲間のために。何としてでも願いを叶えなければ。
その誓いを口にすることで仲間たちへの手向けとしよう。
そう、こんなところで足止めをくらうわけにはいかない。さっさとこの完全帰還者の問題を片付けてしまわなければ。
決意を新たにして上階を睨む。次は36階だ。
「……あの、師匠」
「うん?」
「言いたくなければそれでいいです。師匠の願いって何ですか?」
探索者は誰しもひとつの願いを持つ。何かしらの願いを持っていなければ探索者としてこの世界に召喚されないといってもいい。
この世界に召喚された後で心折れて諦めることはあっても、召喚されたその瞬間には何かしらの願いがあるはずなのだ。
真鉄は心折れることなく、召喚されたその瞬間から今まで願いを抱えている。それほどまでに情熱を燃やす願いとは何なのだろう。仲間の死を踏み越えてまで叶えなければならないと豪語する願いとは。
問う霖に、あぁ、と真鉄は頷く。そうか、言っていなかったか。
いいだろう。この場でそれを口にすることで堅い決意をより固めよう。
片膝をついてひざまずいていた体勢から足を崩してその場に座り込む。墓を前にして生者が酒片手に思い出語りをするような、そんな雰囲気で。
おいでと横に霖を座らせ、さて、と口火を切る。
「僕の……いや、僕たちの願いは」
その願いは真鉄だけのものではない。
死んだ仲間たちであるトトラやシシリー、フェーヤも抱えていた願いだ。だからこそ絶対に叶えなければならない願いでもある。
軽く目を細め、昔日を思い出しながらその願いを述べる。
「かつての栄光さ」
「栄光?」
「そう。召喚される前……元の世界での話さ」
とある組織があり、自分たちはその一員だった。
組織がまだ組織としての体裁すらなかった小さな集団だった頃からの古参だった。まだ小規模だった最初期の結成時からいるほどの。
だが、組織が大きくなるにつれて自分たちの地位は端に追いやられていった。最古参であるということを尊重して上位に置くも、その発言権や決定権は低い。それはまるで、不要なアンティークのように。
「僕らは新参者にも引けを取らないはずなのに……ただ『要らない』というだけで」
自分たちの力量は新参者にも引けを取らなかった。むしろしのいでいた部分もある。
だが、腕が立つだけなら別の者でもよかったし、頭が回るだけなら別の者でもよかった。自分たちでなければならない理由がなかった。
たったそれだけで端に追いやられたのだ。『誰でもいい』から『要らない』と。
最古参として重んじられていた栄光はどこへやら。
「だからそれを取り戻す。……そう願っていたのさ」
どういう形でかまでは指定しない。とにかく、昔日の栄光を取り戻したい。不要と断じられて切り捨てられるような過去は要らない。
この世界に召喚された時から、否、召喚される前からずっと抱えていた願いだ。
「だってそうだろう? 不要だからって切り捨てるのは許さない」
「……えぇ、そうですね。師匠」
その通りです。霖はそっとそれに同意した。