風の領域、大鳥の蹴爪
精霊たちは驚くことにあっさりと道を譲った。
最初の昏倒以外手を出してくる気配はない。邪魔をしてこないというのは、つまりこの先に進むことを推奨しているともいえる。
精霊たちだって知りたいのだ。この正体不明、原典不明、目的不明の完全帰還者について。
本来ならば直接書架に送りたいくらい焦れているだろう。だが、探索者は『1階層ずつ登る』という世界のルールがある。そのルールを破れば精霊たちとて世界の名のもとに裁かれる。だから邪魔をせず、ただ見送るしかないのだ。
「次が34階だね」
「えぇと、風の領域でしたっけ」
「そうだね」
34階。風の領域。風神の眷属である大鳥が住まう階層だ。
その大鳥は、本来なら世界を乱す者に鉄槌を下す役割を持っていた。世界のルールを守護する塔の守護者なり世界を運営する巫女なり、審判を司る雷神なりに有罪と裁かれた罪人をその巨大な蹴爪で掴み、引き裂き、嘴で噛み砕く。
風の属性が象徴するのは気まぐれと奔放だが、その大鳥はその性情に当てはまらず、吹きすさぶ嵐のように苛烈な性格をしている。
「その大鳥には番がいたのだけれど……死んでしまってね」
それ以来、大鳥は嵐のような苛烈さをより強めて空に君臨している。
罪人を処刑する役割はそのまま忠実に実行しつつも、見るものすべてを手当り次第に攻撃する凶鳥となっている。
その大鳥の住まいとなっているのが、ここだ。
34階。風の領域。大鳥が出入りするため、最低限の柱だけを残して壁は取り払われている。後にあるものといえば、33階の精霊郷から登ってくるための階段と、35階に登るための階段くらいしかない。
内壁どころか外壁すら最低限しかない外縁部からは空が見え、見下ろせば地面が見えないほどに高い。
まるで空に浮かぶ足場のようだ。だがそこに嵐のような大鳥はおらず、爽やかな風が吹き抜けていた。
「……いませんね」
「いてもらったら困るよ」
風の領域の攻略法はただ一つ。大鳥がいない隙に通り抜ける。それだけだ。
実際の天候同様、嵐は立ち向かうものではない。じっとやり過ごすべきものだ。
もっとも、それができれば苦労はしない。自らの縄張りの中心点である風の領域に踏み込んだ侵入者を察知して、大鳥はどこからともなく飛来してくる。そして、人の身丈よりも大きな蹴爪を蹴り込んでくるのだ。
察知されれば最後、逃げることは不可能だ。一度獲物と定めた罪人を逃さず狩るため、大鳥の蹴爪の命中精度は非常に高い。大振りと侮るなかれ、対象の周囲一帯ごと蹴爪で破壊する。ヒトの足ではまず回避できない。
「そういうわけだ。境界線を越えたら前だけ見て走るように」
「わかりました」
「帰還者だからと高をくくらないでね」
帰還者だから蹴爪で殺されても再生するので問題ないと高をくくらないように。
確かに、蹴爪で殺されても再生はする。蹴爪で掴まれ、この高さから地上に放り捨てられて地面に叩きつけられても肉体は帰還ってくる。だからといって、それでいいとは言えない。
「それじゃぁ行くよ」
カウントダウンだ。3、2、1。
そして、両断。
刀で首を落とし、そして頭部が床に落ちるより前にそれを掴む。人間相手なら鮮血が噴き出すだろう。だが血の一滴も出ない。くずおれる胴体を無視して、頭をぶら下げたまま境界を超えて階段へと駆け出す。
だって、これが一番早いのだ。少女の小さな体では歩幅が小さく、どうしても足が遅れてしまう。
だったら殺して頭だけ持ち運ぶ。こうすれば霖は真鉄と同じスピードで移動することができる。
彼女の肉体が再生する時の中心点は頭だ。頭と胴を切断すれば、胴は魔力として空中に消え、頭部から下が再生するということはこれまでの『検証』でよく知っている。
走る。風の大鳥の気配はないが、気配を察知できぬ超高空から狙いを定めているかもしれない。油断はできない。初めてここを渡った時もそんな思いだったと回顧を踏み散らして足を動かす。
こうしている間にも霖の再生は始まっている。首から下、鎖骨が帰還ってきている。時間をかけていては大鳥に見つかってしまうし、再生していく体が重しになって足が鈍る。大鳥に見つかっておらず、まだ軽い頭部だけの間に階段へと駆け込まなくては。
「は……っ」
ばさり、と翼が翻る音が聞こえた。まずい。大鳥だ。
振り返り、その姿を確認する余裕もない。走りきることが最優先。あとはすべて置き去りだ。
だが、真鉄の焦りとは裏腹に、大鳥は静かに塔の外周を旋回するだけだ。
嵐のような怒りと憎悪に満ちた双眸はそのままに、しかし、大鳥から攻撃を加える様子もなく。
本当は蹴爪で蹴り殺してやりたいのだが、塔の守護者にそれはしてはならないと言われたので大人しくしている。そんなことなど知るよしもない真鉄はついに35階への階段へと駆け込んだ。
「着い、た……」
肩で息をしながら、絶対安全領域への境界線を踏み越える。ここまで来れば大丈夫。そこでようやく真鉄は大鳥の姿を振り返る余裕を得た。
大鳥は真鉄を睨みつけたまま、その足が上階への階段へと至ったことを確認して、それからまた大空へと翼を翻していった。
「……なんだったんだ……」
大鳥が手を出さずに通行を見守るなんて。理由はわからないが、とにかく僥倖ということで受け取っておこう。
それよりもこちらだ。首を切り落として走って、その間にみぞおちのあたりまで再生しているこの恋人について。
「どう言い訳しようかな……」
殺害の瞬間を覚えていなければいいのだが。
言い訳を考えつつ、ひっ掴んでいた彼女を床に横たえた。




