水底に真実を沈める
そろそろ来るだろう。33階、精霊郷にてサイハは彼らを待つ。
書架を目指して上層の町を経ってから数日。日にちなどこの世界においてあまり意味のないものなのだが、時間の経過から計算してそろそろ33階に到達するはずだ。
その予想通り、ほどなくして、32階からの階段に見慣れた姿が現れた。
「こんにちは」
「やぁサイハ。……驚いたな、どうしてここに?」
「ちょっとした用事よ」
こんにちは、と微笑み、サイハはやや呆けた表情の霖を見る。
サイハの登場にもだが、この階層の光景に驚いているのだ。それもそうだろう。不用意に踏み出せば死が待つ殺伐とした過酷な32階を越えた先がこんな風景なのだから。
それは12階、精霊峠で見る光景とほとんど変わらない。精霊や妖精といった神秘的な存在がいる場所と言われて想像するような、ありがちな一面の花畑だ。
精霊郷と呼ばれるこの階層は精霊にとって重要なはたらきをするところだ。属性ごとに火の精霊だの水の精霊だの呼ばれる精霊たちは個の概念が薄く、個体差もない。どの個体も認識や知識、性状は変わらない。集団的な社会性を持っているのだ。
そんな精霊たちが『誕生』するのがここだ。12階の精霊峠が精霊たちの遊び場なら、ここは家だ。
「だからこそこんな高階層に置かれているのだけど……まぁ、見た目も通り方も精霊峠と変わらないわ」
精霊にとっての意味合いが違うだけで、探索者目線からは大した違いはない。一面の花畑という幻想的な風景の中、精霊の気まぐれな悪戯をかいくぐって先に進むだけ。
「さて。講釈はここまでにして」
本題に入ろう。わざわざこんなところで待っていた時間よりもはるかに短い時間で済む用事だが。
「用事ですか? いったいどんな……」
いったいどんな用事だろう。そう言いかけた霖の首から上が消えた。一瞬の後、花畑に頭部が転がった。そして遅れて少女の体がくずおれる。
真鉄はその光景を無表情で見つめ、口笛を吹きたい気分でサイハを見る。
「ずいぶんと乱暴だね」
「まぁね。でも、邪魔を入れるわけにはいかなかったから」
「邪魔?」
「……巫女権限、発動」
用事というのはこれだ。この先、35階で対峙する過去に備えての予防策。
自分の手で仲間を手にかけたということを真鉄に思い出してもらっては困るのだ。サイハが巫女として真鉄の記憶を書き換え、都合のいい駒として操ったことを知られては困るのだ。
だから、もしその場に立ち会っても思い出すことのないように。その階層に住処を構える水神の眷属がそうであるように、沈黙の明鏡止水の中に真実を沈める。
「Foundation-68への『加護』を強化」
「なん……」
なんだ、という言葉は紡がれず、真鉄の意識は暗転する。
先に倒れた完全帰還者の横にどさりと倒れ込む。抵抗する余地もなかった。
「おやすみなさい」
***
目が覚めると花畑で横たわっていた。
ぼんやりとした意識をかき集めて意識を覚醒させつつ、花びらが散るのも構わず手をついて起き上がる。
目が覚める? ということは自分は眠っていたのか。
でもいったいどうして。答えは目の前の花畑だろう。ここは精霊郷。精霊の気まぐれな悪戯で昏睡させられていたと考えるべきだ。
頭痛の残響のような鈍痛を引きずって、ゆっくりとあたりを見回す。真横には霖も寝転がっている。まぶたは固く閉ざされていて、起きる気配はない。
あたりには金の光をまとう精霊たちが悠々と飛び回り、そして何体かはこちらを見下ろしている。
「ルッカダワ」
「起キタノネ!」
「オハヨウ、ファウンデーション!」
真鉄の目覚めを喜び、嬉しそうにきらきらと光って飛び回っている。精霊なりの目覚めの挨拶なのだろうと思いつつ、片手を挙げてそれに応じる。
「マダマダ修行不足ネ!」
「アンナノデ眠ッチャウナンテ!」
「君らの仕業かい……まったく……」
その口ぶりからして昏睡したのはやはり精霊たちのせいか。
溜息を吐き、それから真鉄は横で眠ったままの霖の頬を軽く叩く。ん、と唸って緩く霖の目が開いた。
「おはよう」
「あれ……私……?」
よもやまた死んだのか。そう危惧する霖に首を振る。どうやら精霊の悪戯で昏睡させられたのだと告げると、ほっとしたような表情を浮かべた。
「さて。起きられるね」
「はい!」
行こう、と立ち上がり、踏み出した真鉄たちを精霊は静かに見送る。微笑みさえ浮かべて。
――あぁ、今日も駒は手の上だ。




