切り落とす、切り落とされると知らぬまま
32階は『これから』を知る場所。そういうつもりで相対せねばならない。
この階すら満足に進めないのであれば力不足。神々の眷属の領域までとうていたどり着けやしない。頂上などもってのほかだ。
これまで積み上げてきた自分の知識と力量を示し、頂上へ到れるべきなのかを諮る。32階とはそういう場所なのだ。
「31階から階段を登って、その始めの1歩すら『重い』。そういう場所さ」
真鉄でさえ油断すれば死ぬだろう。一切気を抜けない。緊張を緩めていいのは絶対安全領域であるレストエリアだけ。レストエリア以外での油断はすなわち死だ。
空気がやけに重苦しい。階層全体に張り詰めるような緊張感が漂っている。
呼吸するたびに肺に鉛が詰まっていくような気分になる。それは錯覚であると言い聞かせるように深く深呼吸して、それからしっかりと前を見る。
「ここから先だ。準備はいいかい?」
足元。31階からの階段を登って、今まさに立っている場所だ。下階からの階段と同じ素材の石畳と迷宮内の古ぼけた石畳が描く横一本の線。ここが境界線だ。
この線を超えれば32階に入ったとみなされる。逆に言えば、この線を越えなければ31階どまり。階と階とをつなぐ階段はレストエリア扱いなので魔物の類は及ばない。
ここからは絶対安全領域から危険領域へと踏み出すことになるのだ。
「……はい!」
念を押す真鉄に霖はしっかりと頷いた。重苦しいプレッシャーなんかには負けない。ここを越え、書架にたどり着くのだ。そしてそこで目的を果たすのだ。そのためにはこんなところで立ち止まってはいられない。
道を譲った真鉄に会釈をして、そして一歩。右足から境界線を越え、その瞬間。
「霖!」
「え……?」
霖の右足が消失した。右膝から下が一瞬にして消失し、そしてバランスを崩した霖から右腕が消えた。
刹那の間に右手足が消え、ぐらりと少女の体がくずおれる。
否、消えたのではない。断たれたのだ。
目の前に広がる迷宮。その正面の石壁の、天井にほど近いところに仕手人はいた。
天井と壁に脚を突っ張ってぶら下がるように張り付いた巨大な蟷螂だ。まるで悪人がナイフを舐めて下卑た笑みを浮かべるように、前脚の鎌をすり合わせてこちらを見下ろしている。霖の右手足はあの鎌に切断されたのだ。
「ぁ……う……」
「霖」
蟷螂はそれ以上何もする気配がない。当然だ。霖が倒れ込んだのは偶然にも境界線の内側。絶対安全領域の側だ。真鉄が立っている場所も同様。
だから蟷螂は手が出せない。もし境界線の向こうに倒れ込んでいたら、手足だけとはいわず全身刻まれていただろう。
「だいじょ、ぶ……です……わたしは……」
自分は帰還者だ。帰還者は死なない。この通り、血だって出ない。
蟷螂の動向に注意を向けつつも自分を助け起こしてくれた真鉄へ、息も絶え絶えに弱く首を振る。
帰還者は感情の影だ。物理的干渉を受けない。何らかの要因でその輪郭が崩れたとしても、すぐに戻る。ダレカを始めとした帰還者はそうだ。だから帰還者である自分も、すぐに元に帰還るはずなのだ。
――かえらなきゃ。かえらなきゃ。かえってきたら、■さなきゃ。
なのに。
「あれ…………うそ、どうして……」
愕然と、霖は自分の体を見下ろす。帰還者がそうであるように、崩れた輪郭は元通りになるはず。なのに。
その足は切断されたまま、その腕は輪郭を取り戻さないままだった。
どうして、ともう一度呟く。愕然とする様子の霖を真鉄は冷静に見下ろしていた。
「……霖」
霖がこうなってしまった理由に思い当たる点がある。彼女に完全帰還者としての自覚が芽生えたばかりだからだ。
ついこの前まで人間だと思い込んでいたのだ。切断されれば血は出るものだという自己認識があったからこそ、彼女は傷つくたびに血を流していた。
だが自分は人間ではなく帰還者なのだと知った。傷ついても血を流さぬ感情の影であると。
しかし、根強い認識はそう簡単に書き換わらない。人間であるとの長年の思い込みと、最近芽生えた自覚。その結果、体の機能が混乱をきたしてしまっているのだ。
人間だから斬られたらそれっきりと認識する思い込みが帰還者としての再生能力を阻害する。だが帰還者という自覚を持ったゆえに血も噴き出さず、傷みもない。息が荒く呼吸がままならないのは、体を切断されたという精神的ショックによるものだ。
この混乱を解消し、機能を是正する方法がある。
「愛してるよ、僕の可愛い霖」
一度完全に死ねばいいのだ。




