歪められた真実の断片
真鉄の寝室に通され、その寝顔を見下ろした。
眠っていてもずいぶんと顔色が悪い。よほどの負担がのしかかったのだろう。それもそうだ。そうなるようにしたのはサイハなのだから。
真鉄の記憶を歪めたのはサイハだ。
そしてその整合性を取るために繕うのではなく、真鉄がそれを検証することをやめるようにした。その記憶の鍵が頭痛だ。
上層、特に記憶操作の現場である35階のことを考えること。仲間の死の状況について考えること。それらに関すること。この条件で頭痛が襲うようにと。
武具を使ってそう操作した。仕方なかったのだ。一度だめになったシナリオを無理矢理繋げて続編を書くにはそうするしかなかったのだ。主人公の交代、前主人公の削除をスムーズに行うにはこれが一番早かった。
そうしてシナリオの続きを始めようと思ったら、正体不明の完全帰還者が突如現れた。これのせいで続編を紡ぐことは中止されている。
だが、もう十分だ。あの完全帰還者についてはもうちまちまと捜査をするのはやめよう。書架に行って真実を知り、答えを知ってもらって正体の追究を終えようという意見で精霊たちは一致した。そのためには、真鉄と霖にはさっさと書架に行ってもらわねばならない。
だとするなら、上層について考えてはならないという頭痛の制限は不必要だろう。記憶の操作はそのままにするが、制限はもう要らない。
その制限を今解こう。巫女権限、と小さく呟いた。
「巫女権限。駒の行動制限を解除」
かちん、と一瞬何かが書き換わったような音がした。
どこからともなく響いた音はどこへともなく消えていき、あとには静寂だけが残る。
「おやすみなさい、良い夢を」
***
『見舞い』を終えて居間へと戻ると、ちょうど霖が茶と茶菓子を用意し終えたところだった。
「ありがとう。……これは?」
「ビスケットです。とっても美味しいんですよ。これ、師匠の好物で……」
「あらそうなの。じゃぁ、いきなりぶっ倒れて心配かけさせた腹いせに全部食べちゃおうかしら」
にこりと微笑んで、皿の上のビスケットを口に入れる。塩気の効いた生地にカロントベリーの甘いジャムを塗りつけたビスケットだ。さくりと一口かじって、成程これは美味なものだと納得する。真鉄が気に入り、最後の一枚を争ってにらみ合うこともあるのだというのも頷ける。
さくさくと咀嚼して、それから水出しの紅茶を一口。口の中を潤してから、それで、と話を切り出す。
「私に聞きたいことって?」
「あ、はい……あの、もし、知っていたらなんですけど……師匠の、その、仲間が死んだ時っていうのは……」
真鉄は自分のことを語らない。概要くらいは話すが、その詳細については伏せる。踏み込もうとするたびに話を逸らしてうやむやにしようとする。
それはまだ痛む胸の話だからと霖も遠慮と配慮してはいたが、いい加減はっきり詳細を知ってもいいだろう。それほどまでに避けたがる上層で、35階で一体何があったのか。
「それを私が語るの?」
「師匠は教えてくれないので」
「……そう」
ふぅ、と息を吐く。35階で何があったか。それについてはよくよく知っている。真実も偽りもだ。
真鉄に植え付けた偽りと食い違わぬように言葉を選びつつ話すべきだろう。うっかり真実など喋ってしまわぬようにと気をつけながら、ゆっくりと口を開いた。まずは前提からだ。
「全探索者の記録……何階まで進んでいるかは知ってる?」
「最高記録ですか? 35階を越えて……36階に挑戦して、そこで止まってるって聞いてます」
「そう。……その記録は誰が打ち立てたかは?」
「師匠ですよね?」
そう、と正解だと頷く。35階、水の領域を越えて36階へ。しかし37階へ至る前にやむを得ず引き返して、そこまでだ。
その記録はずいぶんと前のものだ。その時の反省を活かし、再挑戦い臨んだ。それが例の件が起きた時だった。
「やっぱり36階で足止めをされてしまったのよ。あそこは火の領域だから……とても厳しくて」
上層。31階の町を越えて32階は上層というものの強大さを教えるための階層。そしてそこから上は順番に神々の眷属の領域になっている。34階の風の領域から順番に、7つの属性の眷属たちの領域となっている。試練として立ちはだかる彼らを越え、しばらく進めば頂上だ。なおその『しばらく』が具体的にどれくらいかは探索者の存在意義という面から伏せておく。
話が逸れた。36階は火の領域にあたる。火の属性が象徴するのは苛烈な憤怒。すべてを奪い尽くし、貪り尽くす過激な暴食である。その性質を継ぐ火神の眷属もまた、相当に苛烈である。
その厳しさは、探索者の前に自身が立ちはだかり試練となるほど。神々の直系の眷属である自分を打ち倒せというとんでもない課題だ。それゆえに、その踏破は相当困難だ。
「あまりにも厳しすぎて……私も巫女の立場として苦言を呈するほどにね」
徹底的に戦おうとするので誰も通過できない。
神々の直系の眷属に人間ごときが敵うはずがない。力の差は絶望的だ。だというのに、それを乗り越えろというのはあまりにも過酷だ。
適度に壁は必要だが、立ちはだかる壁が高すぎると乗り越える気概は萎えて諦めてしまうのだからやめておけと何度も諌めている。
「それなのに真鉄たちは、皆の期待を背負うルッカだからと言って挑んだの」
一度は追い返されたがリベンジだ。そうして3人で挑んだ戦いは、戦いにすらならなかった。
たった一瞥。それだけで終わった。『お前たちに頂上に至る資格はない』と、ただ一言。
「真鉄の仲間の名前は知ってる?」
「トトラさんとシシリーさんと……あと、フェーヤさん」
フェーヤという女性は中層のあたりで脱落した。連携がうまくいかずに死んでしまったと真鉄から聞いている。
それからは3人で探索を進め、そうして3人はルッカと呼ばれるようになった。
えぇそうよ、と頷いて、サイハは話の続きを紡ぐ。
「そのトトラがね、呪われたの」
「呪われた?」
「片腕を焼かれて、動かせなくなったのよ」
それは警告だ。資格のない者が進むことを許さない、という脅し。この警告を無視して押し通るというのなら、今度は仲間ひとりの片腕だけではなく3人まとめて全身灰にしてやると。
「ではその資格とはいったい何だ、となるわよね?」
片腕で済んだのは僥倖だ。片腕で済ませてくれたのは慈悲だ。
警告をありがたく受け取るとして、では、何がだめなのだろうという疑問に行き着く。
「自分たちは頂上候補なのに。そう思うわよね」
サイハとて、巫女の立場から彼らを支援したことがある。どうしても詰まった時に、それとなく助言をして探索が進むように。
それくらい世界にとって目をかけられていた存在なのだ。世界に選ばれたという自負は強烈な矜持だった。
それなのに資格がないという。それは矜持を大きく傷つけただろう。だからこそ、ここで尻尾を巻いてはいけないと思った。
「35階まで戻って、どうするべきかを話し合って、相談して……」
そうして足止めをくらうこと数日。
「……その時だったのよ」