リスクは最小限に。処世術とはそういうものさ
「帰還者よ!」
霖を指してそう叫んだ。否。指したのは霖ではない。その向こう。迷宮の道の先、曲がり角に立つ黒い影。
間違いない。ダレカだ。ぽつんと、まるで道に迷って途方に暮れたかのように立ち尽くしている。
「嘘だろ、ダレカだって?」
「あれは下層に出るもののはずでしょ!?」
「なんで中層に? おかしいわよ、どうして?」
「知るかよ。……ちょっと、真鉄さん! どうにかしてくださいよ!」
「どうして?」
なぜ。軽薄な彼らのために労力を割かなければならないのか。
あっさりと拒否し、真鉄は視線をダレカに向けた。
あれはおそらく、霖に引かれてやってきた。町にダレカが出た時と同じだ。
二度あることは三度ある。初回と2回目の間隔が短ければなおさら。これからきっとこのようにダレカと遭遇することになるのだろう。まったく厄介な恋人だ。
「あなたたち、知らないんですか? ダレカは倒すことはできないんですよ」
ダレカに対して注意を払っている真鉄にかわって霖が答える。
帰還者は倒すことができない。力の核を貫いて打ち払うことも、殺害することもできない。あれは塗り重ねられた情動の塊だ。物理的にどうこうできるものではない。
何らかの方法で形を崩させて一時的に足止めすることはできる。だが根本的な解決にはならない。
だから帰還者に遭遇した時は逃げるしかないのだ。それは世界最強の探索者である真鉄でも変わらない。
「ちくしょう! なんてこった!!」
信じていたのに。ひどい。そんなニュアンスを含んだ非難が彼らの口から飛び出した。
きっと裏切られた気持ちなのだろう。同行してくれると思ったら4人のルールを持ち出して拒否され、ダレカから守ってくれると思ったら助ける道理はないと言われ。騙された、こんなはずではなかったと自分勝手な恨みを真鉄にぶつけている。
そんなもの、許しはしない。勝手に期待して、その願望が叶えられなかったら逆上して。身勝手なのはどちらだ。幼稚な怒りで真鉄を非難するな。
自分ではどうしようもないくらい抑えられない怒りが霖の全身を支配する。もしそれが許されて、そして手段があるのなら殺したいほどに。
殺す。殺してやる。師匠をなじることは許さない。それが謂れのないことであるならなおさら。
優しく、慈悲と思いやりを持った師匠が厳しく拒否するということはそれだけ重要なことなのだ。なのに。甘えるな。探索なら自分の手と足でやれ。他人に寄生するな。甘えるな。つけあがるな。
一方的に落胆して、罵倒を口にするだなんておこがましい。死ねばいい。否。殺す。殺してやる。
「霖」
だめだよ。穏やかな声が霖の理性を引き止めた。すぅと怒りが冷えていく。
「師匠、でも」
「ちょっと試したいこともあるからね。あれは実験に使わせてもらうよ」
愚かな彼らを助けるためではなく、あくまで自分の都合として。
帰還者にやってみたいことがある。精霊峠で精霊たちに進路を邪魔された場合の保険として用意していたものだが、せっかくだ。ここで使ってみるのも悪くはない。
腰のベルトに提げている武具に魔力を流して鞄を呼び出す。肩にかけるためのベルトがついた大きめの革製の肩掛け鞄だ。留め具を外し、中から懐紙に包まれた包みを取り出す。取り出したら鞄は元通り武具へと戻す。
「師匠、それは?」
「精霊除けの香……らしいよ」
精霊除けと名がついているが、魔物や帰還者にも効くらしい。
白い脂肪の塊のようなそれは火をつけると異臭を放つ煙を発する。その異臭を嫌って精霊や魔物や帰還者が近寄らなくなるとのことだ。
実際に使ったことがないので、試しに使ってみるとしよう。隣の完全帰還者がどういう反応をするのかも気になるところだ。
「どこで手に入れたんですか」
「ちょっとね」
霖の疑問を適当にはぐらかしつつ、刀で小さな破片を切り出す。
火をつけるのはこちらで。野営の炊事に使うための火打ち石代わりの武具で火をつける。切り出した小さな破片から白い煙が細くたなびいた。
「……変なにおいですね」
「そう? 僕は何も感じないけど。風向きかな」
成程。人間には無臭なのか。これは役に立ちそうだ、と得た知見を脳裏に刻みつつ、少し離れた場所で立ち尽くしているダレカへ向かって破片を放り投げる。
ダレカはそこで文字通り跳び上がり、そのまま落とし穴に落ちるかのように床を貫通して下階へと消えていった。あれは人間の動作でいうなら、激臭を放つ物体に驚いて逃げ出したといったところか。
「師匠、後で手を洗ってくださいね」
においがついていたら嫌なので。眉をしかめた霖から注文が入る。
遠回しに臭いと言われて心が傷つくがいつも通り微笑みで曖昧にごまかしておく。
「水場があったらね」
「いえ今すぐ迅速に。ボトルの中の飲み水使ってでも」
「ひどいなぁ。そんなに?」
「加齢臭に近いにおいが……」
「ちょっと待って。僕まだそんな歳じゃないよ」