上を目指そうと彼は言った
それから話は流れ、うやむやのままに数日後。
あれっきり、書架や上層に関わる話はしていないし出てこない。真鉄も霖も、どちらも触れないまま時間だけが経っていた。
あの話はどうなりましたかと切り出したくても切り出せない。上層は真鉄にとって根深い心の傷をつけられた場所だ。そこに行きましょうだなんて、やはり軽率だったのだ。
提案した時は真実を知りたい気持ちが先行していたが、時間が経つにつれて意気は消沈し、軽率だったと後悔が浮かんでくる。
何が起きたかというのは知っている。なのに、その傷を抉ることをしてしまったのだ。
申し訳ない気持ちになってくる。だがそれを詫びようにも、再び話題にすること自体がいけないような、そんな雰囲気だ。だからといってこのまま流しておくわけにもいかない。
「ねぇ霖。この前話してたことだけど」
「ふぁぁいい!?」
霖の抱える懊悩に気付いたのかそれともそんなもの無視して自分の都合か、その話を蒸し返したのは真鉄の方だった。
唐突な話題の切り出しに驚いて思わず変な声が出てしまった。素っ頓狂な声を出して文字通り跳ねた霖の様子に小さく吹き出しながら、真鉄は話を続ける。
「塔の探索を進めたいって話だけど」
「は、はいっ」
「いいよ。行こうじゃないか。ただし、中層までだけどね」
霖の探索者としての探索進度は中層だ。まだ上層に到達していない。
だから、中層突破までならいいとしよう。
そう提案した真鉄は、あぁ、と言葉を付け足した。
「あぁ、上層に行くなって言ってるんじゃないよ」
上層は危険だ。英雄と人々に褒めそやされる真鉄でも安全は保証できない。
上層については何も約束できないので、とりあえず確実に行ける中層突破までを区切りにしただけだ。上層に行くかどうかについてはその時に改めて考えることになるだろう。
「師匠、でも、いいんですか?」
「いいよ」
中層突破まで。そこまでなら頭に響く声も聞こえない。この先に行くな、その場所に対面するなという本能の警告に似た声が。
それに、霖を中層突破させるのには見栄もある。あのルッカの恋人が中層止まりの探索者なんてとなじる噂はまぁ聞こえなくもない。どうしてあんな少女が見初められたのだと嫉妬する女どもの醜い陰口だ。霖自身には届いてないし気にする必要もない話だが、尾にたかる蝿は払っておきたいし後顧の憂いは断ち切っておきたい。
「明日から準備をして……それから出発かな」
「はい!」
迷宮内に置かれた転移装置は迷宮から町への片道のみ。上層へ到達しなければ中層を突破したとはみられない。つまり、上層である31階の町にたどり着くまで、11階の町から20階分を途中退出なしで一息で登らなければならない。
12階から30階の迷宮を越えて31階の町へ行くまで、途中で帰ることは許されない。もし帰ってしまえば、その時はまた最初からだ。
これはすでに中層を突破している真鉄も同様だ。たとえば20階あたりにクエストなり何なり何かしらの用事があるとして。そこに行くには11階から登るか31階から降りてこなければならない。
もしクエストで立ち入ったならば目的を達成すれば転移装置で帰ってこればいいだけだが、上階を目指す探索は途中退出が許されていないゆえに、気構えが少しばかり異なる。
「じゃぁ、今のうちに充電をお願いします」
「はいはい。じゃぁ、貸して」
霖は武具が使えない。体質だと本人は思っているが、それは違う。武具が使えないのは彼女が完全帰還者だからだ。だから武具を発動できない。
それでも戦うすべとして武具が与えられている。これは霖自身の魔力ではなく、真鉄が充填した魔力によって発動させている。いわば外付けのバッテリーのようなものだ。
「お願いします」
「任せて」
霖から渡された銀のペンダントトップをそっと握る。目を閉じて集中し、全身に流れる魔力を注ぐ。
――まぁ、これも嘘なのだが。
霖が持つこれは武具ではない。ただの魔物寄せの石だ。魔物避けの石とは対極の、魔物を引き寄せる鉱石である。その石を切り出し、武具のように見せかけている。
だからこの行為もまったく意味はない。握って力を込めているふりをしているだけだ。これもまた、真鉄が霖に与えた偽りのひとつだ。
「はい、充電完了」
「ありがとうございます」
「お礼はキスがいいなぁ」
「師匠!」
何言ってるんですか、と真っ赤になる恋人を抱き上げてベッドへと運ぶ。
さぁ今日も恋人を可愛がろうじゃないか。にこりと微笑み、その上に覆いかぶさった。