水底の水泡の記憶
「……苦い顔をしないでくれる?」
「するよ。そりゃぁね」
トラウマをぶん殴られた直後だ。こんな顔をしてしまうのも無理はない。
桶いっぱいの苦虫を噛み潰したような顔で真鉄が溜息を吐く。仲間を失って100ヶ月弱。その傷は癒えることがない。
サイハは、書架は氷の神の領域であると言った。そこは神々の領域であると言ったのだ。
真鉄が仲間を失ったのもまた神々の領域だ。水神の領域で仲間は血に濡れた。
神々の領域は下から風、水、火、そこから先は未知。氷の領域が何階にあるかは知らないが、そこを越えて行けということか。仲間を失ったその場所に再び直面しろというのだ。
***
あの時のことはよく覚えている。
風の神の領域を越え、水の領域に至り、さらにその上を目指した。
水の領域の上には灼熱を抱く火の領域があり、そこで足止めをくった。仲間は炎で呪われ、対策と攻略法を考えるためにいったん水の領域まで下がった。
そこで出会ってしまったのだ。殺戮者と破壊者に。
彼らは真鉄の仲間をいともたやすく殺し、それを振り返ることなく消えた。真鉄が生きていたのは運が良かったからだ。負傷はしたが重傷ではない。自力で歩けるくらいの傷で済んだ。
町に戻るための転移装置を見つけ、そして、逃げ帰るように町に戻った。逃げ帰るように、ではない。逃げ帰ったのだ。
そして応急処置をし、その足で編成所へ向かい、仲間の死を告げた。パーティは3人から1人になりました、と無様極まりない内容を伝え、受理され、一人になった。
サイハが復讐の道を示してくれなければ、そのまま無力と不甲斐なさに押し潰されていただろう。
仲間を殺した殺戮者と破壊者は世界すら壊そうとしているとサイハは言った。仲間と歩んだこの世界を、仲間との思い出のある世界を壊されてよいのかと。そう言われて刀を取った。
世界に認められたルッカなのだからというプライドに支えられて仇を討った。6ヶ月に及ぶ追跡の末に殺戮者と破壊者を討ち取った。
結果として世界の破壊は阻止された。真鉄のことを英雄と褒めそやす声は絶えない。
だが、同時に思い知った。
それで何も還ってくることはないのだと――
***
「師匠、ごめんなさい」
仲間の死が真鉄に深い傷を負わせていることは知っている。だから今まで口にできなかったのだ。
だがこうして巫女から保証を得られた以上、遠慮よりも希望が勝つ。真鉄のことを押してでも、書架に行きたい。
だって、これ以上うやむやなままではいられない。答えに至る道があるのならそれに縋るべきだ。
このまま、わからないことをわからないままにして暮らすなんて耐えられない。精神感応に悩まされ、迷宮では気絶して。
真鉄はそれでも愛してくれるが、真綿でくるむような優しさは真綿で絞めるような残酷さにもなる。
「……霖の言いたいこともわかるけどね」
あの場所に直面しろというのか。思い出すだけで頭痛がしてくるし頭痛のあまり目眩と吐き気がする。
避けろ、行くなと本能が叫ぶ。避けられるなら避けるべきだ。だが、避けられないのだと理性が告げる。
あの怪物の素性について知りたがっていたことじゃないか。このまま、わからないことをわからないままにして暮らすなんて耐えられないだろう。虚偽の愛に染めて、偽りに溺れさせて。
生温い嘘をいつまで続けるつもりだ。破綻する前に手を打つべきだ。
「考えさせてくれるかい? 落ち着く時間がほしい」
「はい。……ごめんなさい、師匠」
「いいよ。気にしないで」
お返しとお詫びは今晩。軽口を叩く余裕を絞り出している真鉄を、サイハは黙って見ていた。
頭痛がしているだろう。当然だ。行くなと告げる声が脳裏に響いているだろう。当然だ。
だって、そうなるようにしたのはまぎれもなくサイハの仕業なのだから。
水の領域で起きたことはサイハも知っている。だがそれは真鉄が語る光景ではない。
真鉄が記憶として覚えているその光景は、サイハの手によって真実を歪めたものだ。サイハの都合のいいように真鉄の記憶を改変した。
真実を思い出さぬように記憶に鍵をかけた。頭痛はその影響だ。真実に立ち会わないよう、真実に立ち会うだろう場所を避けるようにした。100ヶ月も経ってもまだ仲間の死を思い出すだけで精神が落ち込むのもそのせいだ。詳細に思い出すことのないように、詳細に思い出すようなことをしたらそうなるように。
だから真鉄の反応は当然のものだ。
まずいな、とサイハは唸る。書架のことは確かに霖が提案した通りだ。だがそれは最終手段にしたかった。他に手段があるならそれを当たりたい。先延ばしにした結果がこの長い『収穫なし』なのだが。
水の領域に行くことはまずい。真鉄が記憶の改変に気付いてしまうかもしれない。改変される前の真実を思い出したら、いったい真鉄はどうなってしまうのか。都合よく改変したサイハのことを恨むかもしれない。
ルッカの敵対はまずい。それだけは絶対に避けねばならない。箱庭の駒にはいつまでも都合よく手のひらの上で踊っていてもらわなくてはならないのだ。敷いたレールを外れるような真似は許されない。外れないようにするための記憶の改変なのに、意味がなくなってしまう。
他の手段を探してほしいものだが、今この話の流れでそれを提案するのも妙だ。だめだ。手詰まり。
この場ではもうどうしようもないだろう。ならば考えるべきは水の領域に対面することの防止ではなく、対面しても何も思い出さないようにする手段の構築だ。
「……お楽しみなら、私はいったん帰るべきかしら」
「ちょ、サイハさん!?」
「与太には付き合う性分じゃないのよ。それじゃぁ、またね」