氷の蛇の揺籃
探りを入れるのはもう十分。核心を切り出すことにする。
「……それで、まだ思い出せないの?」
「はい……」
「ふぅん……」
単純な記憶喪失なら、何かしら思い出していてもおかしくはないし、何かしら判明していても不思議ではない。霖を知っている人物が現れるとか。
なにせ探索者だったのだ。編成所にデータとして登録されているはずだし、それでなくとも、誰かしら顔見知りがいるはず。誰一人として霖を知らないのはおかしい。
不思議だとうそぶきつつ、そうだろうな、と納得する部分はある。
完全帰還者だ。生前とは姿かたちが変わっている可能性はある。完全帰還者の容姿は、自分が『そう』であると認識した形だ。自分はこのような背格好で、髪の色や目の色はこうで、体つきはこうで、と自覚している姿を取る。その認知がずれていたら、生前と違う容姿になっていることはありえる。
名前だってそうだ。保護した時に名乗った名前は、本人曰く本名ではなく、『そう』であると刷り込まれた後付けの知識のようなもの。ということは本名がある。
霖という人物は虚像なのだ。ではその虚像に隠された実体はどうなのだ。
「何か原因があるのかもしれないわね」
こうまでしてかたくなに思い出せないなら、何か原因があるのかもしれない。
武具には他者の記憶や精神を操るものもある。その影響を受けている可能性だとか。
――まぁ、そんな可能性はないのだが。
思い出せないのは、霖が完全帰還者だからだ。核となる感情以外を置き去りにして生まれたのだから、記憶など切り落とされていて当然。
生前のことを思い出せないことはサイハや真鉄にとって重要ではない。重要なのは核をなす感情だ。何が由来で生まれた完全帰還者なのか。そこに尽きる。
「原因?」
「たとえば、思い出してはならない、とか」
自分で自分に制約をかけている。思い出してはならないと鍵をかけている。それなら、こうまでしても何の情報も得られないことにも納得できる。
そして困ったことに、その制約の鍵の開錠方法さえ霖は忘れてしまっているということだ。
「あの……ずっと前から考えていたことなんですけど……」
「うん?」
ずっと。ずっと前から考えていたことがある。確信はなかったし、真鉄に遠慮して言うことはなかった。だが、今ここに塔の巫女がいるのだから質問して確信を得たい。
そう前置きして、霖は口を開いた。
「上層に……書架がありますよね? そこで、私の素性を知ることはできないでしょうか?」
上層にある書架には、すべての記録と記憶がおさめられているという。図書館の司書が、図書館ではおさめることのできなかった情報を収容しているところだ。
書架に行けば、あらゆることを知ることができると言われている。すべての未知は既知になり、知ることのできないものはなく、わからないものはすべて解明される。
そこならば、自分の素性も判明するのではないだろうか。
言わなかったのは、真鉄に遠慮してのことだ。
上層は真鉄が仲間を失った場所でもある。そこにまた足を踏み入れることは、真鉄のトラウマを刺激することになるかもしれない。
それに、書架の存在は噂に近い。書架があるということについては司書自身が公言しているが、そこで得られる知識については触れていない。すべての未知は既知になるだなんて、噂の末に誇張されたことなのかもしれない。
だから、塔を統べる巫女に訊ねたい。自分が考えていることは正しいのか。本当に、すべての未知は既知になるのか。
「…………ありえなくはないわね」
書架は氷神の領域とされる。真実を司る氷の神の領域ゆえに、すべての真実が眠る。
だったら答えは書架にあるだろう。すべての真実をおさめているのなら、霖の正体についても記録があるはずだ。
いや、ある。断言しよう。すべての答えは書架にある。塔を司る巫女として保証しよう。
「ちょっと待ってくれるかい? だったらどうして最初から当たらないんだい?」
待ってくれ、と、真鉄が割って入った。
書架のある階層に到達できていない自分や霖はともかく、塔の巫女なら塔の中のどこへでも行けるはず。書架にだって行くことが可能だろう。
だったら最初から、巫女が書架で霖の正体を調べればよかったじゃないか。こんな手間をかけなくても、答えはそこにあるのだから。
「巫女は書架の閲覧権限がないのよ」
書架は探索者にのみ許されたもの。サイハは巫女であって探索者ではない。だから閲覧することはできない。そういうルールだ。
司書に頼めば制限を一部解除して閲覧も叶うが、それだったら最初から司書が霖の存在についてつまびらかにしているだろう。試験の問題を教師に聞く生徒がいるかと言って口を閉ざす司書が解答を盗み見るような真似は許さない。
「じゃぁ……書架に行けば……!」
探索者として、塔を登り書架に至れば。そこにすべての答えがあるのなら。
行く意味は十二分にある。いや、行かない理由がない。
――ただひとつを除いては。