幕間小話 沈黙の石壁迷宮
気がついたら、迷宮にいた。
重苦しい石の壁で作られた迷宮は重苦しい沈黙に包まれていた。人間も、魔物も、何の気配もない。
ここはどこだろう。迷宮なのはわかる。だが、何階なのか。
自分はどうしてここにいるのだろう。前後の記憶が混濁している。
なぜ、ここにいるのだろう。かえらなきゃ。かえったら、■■しなきゃ。かえらなきゃ。かえらなきゃ。かえらなきゃ。かえらなきゃ。――どこへ?
「……精霊の言ってたことが本当だったなんて」
「っ、誰……?」
振り返ったら、きれいな桜色の髪の女性がいた。新緑と同じ色の目が驚愕の表情で自分を見つめていた。
彼女は動揺から抜け出るために軽く頭を振って気持ちを切り替え、そして軽く両手を挙げて語りかけてきた。
「大丈夫。敵じゃないし、傷つけはしないわ。……あなたを保護しにきたの」
「保護……?」
「こんなところにひとりでいたら危ないでしょう。だからいったん、安全な場所まで行きましょう。ね?」
どうやら殺意や敵意のある相手ではないようだ。そう理解し、彼女についていくことにした。
彼女の後ろにつくようにして迷宮の中を進んでいく。歩き始めて数秒、そうだった、と彼女が声を上げた。
「ごめんなさい、自己紹介がまだだったわね。私はサイハ。あなたは?」
「霖」
霖。するっと出てきた言葉にわずかに驚く。どうしてここにいるのか、自分は誰なのか、そんなことすらわからないのに、これが自分の名前であることを『知っている』。
不思議なこともあるものだ。驚きつつも、サイハの言葉に耳を傾ける。曰く、ここは中層にあたる18階なのだそうだ。
「とりあえずレストエリアに着いたけど……もう一度、落ち着いて話を聞かせてもらえる?」
「はい。えっと……」
レストエリア。どういうものなのかは知識として知っている。迷宮の中において、魔物が来ない絶対安全圏。この中にいれば魔物に襲われることはない。
緑の石が埋め込まれた小さな空間に、さも座れと言いたげに転がっている岩石の上に腰を下ろす。何度か座り直して居住まいを正してから、改めて今までのことを反芻する。
気がついたらここにいた。その前のことはわからない。『気がついたら』以前の記憶が混濁している。
先程名前を聞かれて霖と答えたが、それはきっと本当の名前ではない。『それが名前である』と認識させられている。後付けで刷り込まれたかのような違和感をおぼえている。
では本当の名前はというと、それはわからない。
「まるで『後付けの知識』ね」
探索者が異世界からこの世界に召喚される時、知識を刷り込まれる。この世界はどういう世界で、何をするべきか。そのためにどうするべきか。暮らし方、戦い方、生き方。あらゆることを。
その知識はこの世界に召喚された時に刷り込まれるものだが、まるで生まれた時から触れている常識であるかのようによく『知っている』のだ。だというのに、それが後付けであるということもまた自覚がある。そんな奇妙な実感のない知識のことを『後付けの知識』と呼ぶ。
「覚えている部分はある?」
「えぇと……そうですね、下層を仲間と……あれ、仲間……?」
仲間がいた。下層を進んでいた。その認識はあるのに、その顔ぶれは思い出せない。探索者なら必ず持っているはずの武具もだ。そういえば、自分は武具らしいものを持っていない。どこかでなくしてしまったのか、それとも。まさか丸腰で迷宮を歩いていたというのか。
「探索者……なのよね?」
「はい。そうみたいです」
記憶の上では、だ。探索者として下層を仲間と攻略していた記憶はある。だからおそらく探索者だろう。そんな曖昧な推測だが。
戦う力もない町の住民ではないだろう。そんな人間ならこんなところにいないはずだ。
だからおそらく探索者だろう。消去法でそう判断する。
「……ふぅん……」
成程。状況は理解した。しばらく思案したふうを見せたサイハは、じゃぁ、と呟いた。
「私の知り合いにあなたの身柄を預けても?」
「え?」
「私が面倒見たいところではあるのだけど……ちょっと、そうもいかなくてね」
だから知り合いに身柄を預けることにする。それでもいいか、と訊ねられるが、はぁ、と困惑した表情をするしかない。
それでいいかと聞かれても、他にどうしろというのだろう。それでいいと答えるしかないじゃないか。
「振り回してごめんなさいね。……権限実行、強制転移」
「へっ」
座っていた岩がなくなって、尻から落ちるような。そんな落下感に思わず目を閉じる。直後、尻に地面の固い感触がして目を開ける。
町だ。11階の。この風景には見覚えがある。ぱちぱちと目を瞬かせて首をめぐらせる。『知っている』風景と変わらない。
「はじめまして。霖」
今日からよろしくね。真鉄と名乗った男がそう微笑んで。
――それが、真鉄との出会い。




