春風、湖面を撫でて吹きさらし
「やぁサイハ、ごきげんよう」
「こんにちは」
どうも。軽く会釈したサイハの肩から桜色の髪がこぼれ落ちた。邪魔な髪を払い、それからサイハは真鉄の横にいるものを見やる。
「……えっと……」
突如現れた桜色の髪の女性。霖にとっては初対面ではない。自分を保護し、そして真鉄に引き渡した人物だ。その時は名前くらいしか教えてもらわなかったので、彼女がいったい何者なのかは知らない。その時の口ぶりと、今の真鉄の態度からして、それなりの人物なのだろうとは予想できる。
「ここで雑談するには少しはばかるわね。……あらどうも、ありがとう」
聾唖の少年が花を持って近付いてきたので受け取り、代金ついでにいくらかの銀貨を渡して見送ってからサイハは肩を竦める。
この雑踏だ。あのルッカに話しかけている女性は誰だと遠巻きに見る視線も感じる。まさかと色めきだっているが、残念ながら色のある関係ではない。変な噂が立つ前にこの場を離れるべきだろう。
「いいよ。じゃぁ、僕の家で。霖もいいね?」
「あ、はい!」
「ごめんなさいね。お邪魔させてもらうわ」
***
「あの、えーと……」
どちらさまでしょう、と聞くタイミングを逸した。困惑する霖の様子を察して、あぁ、と真鉄が呟いた。
「霖はあまり知らなかったっけ」
「……はい……」
「そうね。初対面以来だもの。その時だって名前しか教えなかったし……」
改めて自己紹介といこう。そう言って、彼女は居住まいを正してから軽く頭を下げる。
「サイハ・アイル・プリマヴェーラ。長いからサイハでいいわ」
このことは初対面にも言ったが、自己紹介というものは名前の名乗りから始まるものなので許してほしい。
それでここから霖が知らない内容だ。
「塔の巫女よ」
「塔の巫女って……あの?」
塔の巫女。この世界に住む人間なら誰でも知っている。
探索者を塔の頂上に導くとされている標だ。そして、世界の管理者でもある。塔、探索者、頂上を目指すこと、これらに不正をなすものを処罰し世界をあるべき姿に正す役割を負っている。
簡単に言えば、『探索者は塔を登る』というこの世界のルールを司り、それを運営する者だ。
それゆえに自分を保護したのか。すとん、と胸に落ちるように納得する。
気がついたら迷宮の中だった。後付けの知識に沿うなら他に何人かいるはずの仲間はおらず、自分ひとりだけ。あたりには誰の気配もなく、魔物の姿もない。ここは塔の何階なのか、町はどこなのか、石壁の迷宮の中で途方に暮れていたところを発見してくれたのがサイハだ。
ここはどこだと泣きそうな自分をなだめ、そして町に連れて行って真鉄に引き渡した。それが『霖』としての記憶の始まりだ。
「記憶喪失の素性不明なんて、私の管轄だからね」
塔の巫女の役目として、霖の保護は当然だった。しかし彼女の正体について探ることにつきっきりにもなれなかったから真鉄に引き渡した。面倒を押し付けたともいう。
その話の前提となるもの、霖が完全帰還者であることについてはぼかしつつ、そう述べる。
「もちろん、義務と仕事だけじゃないけどね」
霖を気にかけるのは、塔の巫女としての役目だけではない。義務と仕事だから仕方なく関わっているのではない。
気にする理由は、かつて自分がそうだったからだ。サイハが探索者だった頃、仲間に記憶喪失で素性不明の少女がいた。彼女と霖を重ねてしまって放っておけないからこそ、個人的感情から気にかけている。
「へぇ、それは初耳だけど?」
「真鉄、あなたには言ってないことだもの」
しれっと答える。今述べたことは霖の緊張を解くための方便だ。
霖のことを気にかけているのは義務と仕事ゆえ。そこに温かい感情はひとつもない。完全帰還者にかける情などありはしない。今すぐ消えてほしいくらいだ。
世界にとってどう影響をなすものなのかわからないので、その分析のために飼育しているだけ。分析が済み、処分しても構わないものだったなら巫女の権限で処分するだけだ。
そんな冷たい思惑は隠して、真摯に親身であることを偽って微笑む。あぁ、可哀想に。こうしてまた偽りに囲まれていくなんて。
「それで、その進捗はどうかって思って、様子を見にね」
来訪の目的はそれだ。霖の様子はどうだろうかと直接見に来た。真鉄から定期的に報告は受けているものの、やはり直接見たほうが情報は得やすい。
報告にないことがあったら大変だ。たとえば、愛するその裏で暴力を振るっていたりだとか。家庭内暴力はよくない。検証のため、家庭内暴力どころではないことをしているのは知っているが。
「師匠は優しいですよ!」
「本当に? ひどいことされてない?」
「むしろ僕がひどいことされてるよ。昨日だってお気に入りのビスケットを全食いされて」
「あらあら」
仲がいいのね、とサイハが笑う。表向きの中は良好のようだ。真鉄の底にある冷えたものは知っているが無視する。
重要なのは、霖についてどの程度の分析が済んでいるかだ。定期報告の内容と照らし合わせつつ、雑談にまぎれて探りを入れていく。
その意図に真鉄も乗って、気軽な雑談を進めていく。やれビスケットを食われた腹いせに朝一番で買いに行ったとか、さっきも瓶いっぱいの飴を買っているのを見て叱ったばかりだとか。
何かのはずみで漏れる言葉がないかを目配せして示し合わせて、愛しい恋人の語る言葉を探っていく。
「それで、師匠ったら……」
「なにそれ、とんでもないセクハラ野郎ね」
「ちょっと待って。今聞き捨てならない不名誉な評価を下された気がしたんだけど?」




