仮初の名前と真実に名付ける感情
家に帰ると、霖が何やら気まずい顔をしていた。何かを隠しているような、それをごまかそうとしているような。
どうかしたのだろうか、と真鉄が聞く前に、話を逸らすかのように霖が今日の成果を訊ねてきた。
「何かわかりましたか?」
「編成所では特に何も。だけど、図書館で司書が面白いことを語ってくれてね」
「面白いことですか?」
「うん。君の名前についてね」
霖という名前は、真鉄がつけたのでも精霊や塔の巫女がつけたのでもない。
彼女が発見された時、霖は自分の名前をそう名乗った。しかし調べてみても探索者のデータの中にその名前はない。自分の記憶があやふやな霖が、とりあえずと便宜的に自分でつけたものではない。最初から彼女は自分の名前を『そう』と認識していた。偽名でも仮名でもなく、本名として。
ではその名前はどこからきたのか。後付けの名前はいったい誰がつけたものなのか。
その疑問に対する答えを司書から得ることができた。そう言うと、霖の表情が明るくなった。
「本当ですか?」
「うん。君には水の加護があるってさ」
水神が霖の存在を愛し、加護を与え、その印として名をつけた。つまり、霖の名付け親は水神であるといえる。
霖が完全帰還者であることを伏せつつ、その部分だけを本人に伝える。君は水に愛されているのだ、と。
「水神が……」
「それがどういう意味を持つのか、それはわからないけど」
核心をはぐらかし、話の内容をすり替えて話す。自身が完全帰還者であることと、それに根付く情報は話さず、水神が何かしらの目的のために加護を与え、その印として名付けたという部分のみを切り取って。
それ以上踏み込まれぬように、追及されないように話をさらに逸らそうと、真鉄は思考を働かせて口を動かす。
「つまりは、僕と霖の相性は神に認められたということさ」
「……はい?」
「あぁ、知らなかったっけ。僕が火神の信徒だってこと」
真鉄がいた元の世界での話だ。武具を制作する技術を持つ一族は、その鍛冶の過程で必要不可欠な火を神聖なものとし、火を司る神を信仰していた。
火の信徒の一族の何人かは、探索者としてこの世界にも召喚されている。時代や場所は多少違うし真鉄とも面識はないが、真鉄と同じ火の信徒だ。
「キロ族っていってね。この世界でもいる民族だけど」
真鉄はそのキロ族の一員であり、彼らと同じく火の属性を信仰している。
武具を作るための鍛冶の技術を伝授される前に故郷を飛び出したので真鉄にその技術はないが、信念や伝統は引き継いでいる。
「僕は火の信徒。君には水の加護。火と水だ。ほら、相性ぴったりじゃないか」
神秘学の世界では、火と水の属性は対であると解釈されやすい。その理論を用いるなら、火と水が対であるように、真鉄の対は霖であるといえよう。
「つまり僕と霖の仲は神々に認められたものであるということさ」
「そ、そこまで大仰に言わなくても……」
「誇るべきだよ。なにせ心身ともに相性ぴったりなことを保証されているんだから」
ね、と微笑みつつ、冷めた思考で愛しい恋人を見る。
火と水。人間と完全帰還者。どこまでいっても対極じゃないか。対であるといったが、それは同時に対立するものでもある。対立するものは交わることなく、相容れないものである。
「ついでだ。キロ族の面白い文化を教えてあげようか」
「文化、ですか?」
「そう。……この世界じゃあんまり知られてないんだけどね」
多種多様な世界から召喚された人間たちが織りなす世界だからか、元の世界での文化や概念はほとんど薄くなってしまった。それでも自身の文化や信仰を守り続け、受け継いでいこうとする人々はいる。
真鉄もそうだ。火の属性を信仰することも、文化に根ざした風習も受け継いでいる。
キロ族の特徴的な文化とは、字と呼ばれる風習だ。
神々が与え、選ばれた者しか使うことのできなかった魔法というものを、武具という形で人々の手に引きずり下ろした伝承に由来する。神が与える神聖なものを俗世に落として一般化させたことは神に対する不敬であり、罰を受けるべきものだ。
怒る神々の災厄を避けるために、キロ族は名を偽るようになった。武具という罰当たりなものを開発したのは自分ではなく別名の誰かだと、そう言い張ろうとした鍛冶師の男が始まりという。
真名は本人と親と伴侶くらいしか知らず、真名を避けて互いに仮名で呼び合う。それが字という風習だ。
真鉄という名前はその字にあたるのだ。真名は自分しか知らない。かつて生きていた仲間ですら知らせていない秘密の名前だ。
「僕と結婚したら教えてあげるよ」
「けけけけけ結婚!?」
「親と伴侶しか知らせないものなんだから当然だろう?」
兄弟ですらだめ、恋人もだめ。名付け主である親と、一生を添い遂げる夫妻でなければ許されない。
ちなみに離婚という概念はなく、婚姻関係の解消は夫婦どちらかの死亡のみである。それくらい真名というものは重大なのだ。
よって、真鉄の真名を知りたければ結婚するしかない。当然の話だ。
「そ、それはそうなのかもしれませんけど!」
なんてとんでもない話をするのか。突拍子もない発言に真っ赤になって動揺する霖を眺め、真鉄は笑みを深くする。
字の話と現在の状況はまさに同じだ。真名を隠して字で呼び合うのと、冷めた気持ちを隠して偽りの愛を口にするのと。仮初のものを口にしていることはまったく同じだ。
――仮初のものを扱うのは得意なんだ、愛しい恋人よ。
「ところで霖、戸棚のビスケットは?」
「え、えーとですね……」