水底より還ってきたモノ
通された応接室には、真鉄を待ち受けるかのようにすでに図書館の司書であるヴェルダが座っていた。
どうぞ、とソファを勧めたヴェルダは、そういえば、と口を開いた。
「そういえば、町に出たダレカを撃退したって?」
「僕じゃないよ」
「だけどその場に留めて時間稼ぎをしたのはあなたの功績よ」
そう言い、ヴェルダは唇を笑みの形に吊り上げる。にこりと笑う慈母のように、高みから見下ろす特権者のように。
「帰還者の扱いは手慣れているのね。いつも殺しているからかしら?」
「それはどうも。君がすべてを暴露してくれたら検証しなくて済むんだけどね」
投げかけられた皮肉を皮肉で返し、刃のような視線でヴェルダを見返す。
彼女が霖の正体についてすべてを暴露すれば、このような検証ついでの殺害などしなくて済むのだ。
真鉄が霖を殺すのは、何も憂さ晴らしや苛立ちまぎれではない。
感情を核にした帰還者は、ダレカがそう喚くように感情に紐付けられた声も叫び散らす。それは形が崩れ、弱った時であればなお顕著だ。感情を叫ぶことでその思いを想起させ、核となす。
たとえば、無残に殺された無念から生まれた帰還者は断末魔を再生することで死の瞬間を思い出し、そこにあったはずの未練を引き出そうとする。引きずり出した未練で自己の存在の強化をはかろうとする。
その理論が正しいなら、霖だって帰還ってくる瞬間、同様の現象が起きるはずだ。
肉体が元通りになる過程で、自分の核をなす感情を拾い集めるために。何らかの声をあげるだろう。それはまるで産声のように。
その現象が起こることを期待して、殺し続けるのだ。
「私が暴露を? それはできないわね。氷の属性の特性は知っているでしょう?」
この世界には7つの属性がある。火水風土氷雷樹の7つだ。それぞれの属性はあらゆる性質を象徴する。火は暴食と再生。雷は憤怒と契約。風は奔放と自由。土は堅牢と怠惰。そのように、あらゆる性質や気質が属性に象徴される。
氷の属性が象徴する性質は、秘密と停滞だ。すべてを閉じ込め、自分のものとする氷の属性は真実を独占し、探求と理解を停滞させる。それは氷の神も同様であり、氷神を信仰する信徒たちもだ。真実を秘密にし、自分たちだけのものにする。氷の信徒であるヴェルダもまた、真実を知っておきながらすべてを秘する。だから答えは教えない。秘密にしている真実を暴露することは信仰に反する。
「……やれやれ」
「凍る口を溶かして教えましょうか」
真実を独占することも信仰ではあるが、真実を求める人間に加護を与えるのも氷の属性の性質だ。
それに従い、氷の中に閉じ込めのている真実の一端を与えようではないか。それがこの面会の目的だろう。
恩着せがましく言い、ヴェルダはソファの上で足を組み変える。
「あの子には、水神の加護がついているの」
「水神の?」
「加護というより、呪いかしら」
水の属性が象徴するのは、恵みと貪欲、浄化だ。そして、感情も象徴する。
怒る時には『感情が波立つ』と表現し、落ち着く時には『感情が凪ぐ』と呼ぶように、水の属性と感情や情動の概念は結び付けられやすい。それゆえに、水の属性は感情を象徴するものとなった。
そう、『感情』だ。帰還者が成立するのも強い感情ゆえである。つまり、水の属性は帰還者と親和性が高いといえる。完全帰還者ならばそれはより顕著だろう。
「水神が、あの子を完全帰還者にしたのよ」
死んで霧散するはずだった感情を水神が拾い上げた。本来なら帰還者にすらならなかっただろう。思いは強くとも、肉付けが弱かった。人体でいうなら、骨はあれど筋肉や脂肪がついていない状態だ。
その肉付けをなしたのが水神だった。加護を与え肉付けを施し、完全帰還者にまで押し上げた。
「思わず神が慈悲を垂らすくらい壮絶な感情だったってこと」
このまま散らすにはあまりにも哀れだと。沸騰している感情が冷めないように形を与えた。
そのことを示すために、彼女には霖という名が与えられたのだ。降り注ぐ激情の雨が氾濫しないように、あるいは氾濫するように。神が認め、与えたのだ。
「まぁ……だからといって、特別何かがあるわけではないけれど」
たとえばこう、水が霖を守るように動いたりだとかなんだとか。そんなおとぎ話のようなことは起きない。ただ、彼女の存在を保証するだけだ。霖という完全帰還者の存在を認め、その場に留め置く。
だからこそその加護は呪いだ。存在を保証されるということは良いことではない。霖の意思に関わらず、その肉体は帰還ってくる。彼女の核をなすその思い、願望が果たされてもだ。彼女の存在は満足とともに消失することなく、この世界に留まり続けるだろう。
「成仏しないと?」
「簡単に言えばね」
思いによって生まれ、その思いを果たした後。加護は呪いに反転する。
待っているのは枯渇感だ。思いは果たし、しかし消えず。核となる感情以外を置き去りにした完全帰還者が次の指標を見つけられることはないだろう。核となる思いだけがそこに残り続ける。思いを果たし、無念を晴らしたはずなのに、その思いに蝕まれ続ける。もう一度晴らそうにも、対象となるものはもうこの世にいないのだ。
あとは永遠に枯渇感に苛まれ続けるだけ。
「……はん。それはそれは」
それはそれはとてもいいことじゃないか。正体不明、原典不明の愛しい恋人が苦しむだなんて。調査と検証のためにこれだけの時間と手間をかけさせてくれたのだ。それくらいの苦痛は受けてもらわなければ割に合わない。
しれっと真鉄はそう言い放つ。ヴェルダは笑みの形の唇のまま、真鉄の発言を聞いていた。
「これ以上は秘密。氷の下の真実よ」
その呪いはあなたにもかえってくることだということは、その時まで氷の下に秘しておこう。