いつかのダレカが還ってくる
それじゃぁ僕は編成所に行ってくるから、と言いかけたその刹那。
「緊急事態! 緊急事態!!」
「帰還者だ!!」
「家の中に入れ! 急げ! ダレカが来るぞ!」
緊急事態を告げる警鐘が町に響いた。カンカンカンと鋭い音。慌てふためきながら建物の中に逃げ込む人々。真鉄と霖がいるサンドイッチ店にも人がなだれ込んでくる。列は崩れ、次々と人が入ってくる。窓の鎧戸が閉じられていく。
「帰還者……?」
逃げ込む人々が口々に語る言葉を拾って繋ぎ合わせれば、どうやらダレカが町に現れたらしい。
ダレカは本来、10階を中心に下層に出現する帰還者だ。怒りでも悲しみでも喜びでも、強い情動に誘引されて現れ、人間を獲物として獲物を影に引きずり込む。引きずり込まれた人間がどうなるかはわからないが、帰ってこないことは確かだ。
いつか死んだ誰かの感情が焼き付いた虚ろな影。よって名前をダレカと呼ぶ。帰還者としての格は下級も下級だ。真鉄の横にいる完全帰還者の足元にも及ばない。
「帰還者がどうして……?」
どういうわけだろうか。帰還者は町にいてはいけない。それが世界のルールだ。町という絶対安全圏にそれを脅かすものが侵入してくるなどとは。
不安そうに霖が呟く。人々の不安が伝染してきているかのように、心が落ち着かない。
ただならぬ緊迫した事態に視線をさまよわせる霖の肩を、真鉄が不安を払拭させるように叩く。
「どういうわけだろうね」
ダレカが町に現れるだなんて。あってはならないことだ。
原因に思い当たることはある。なにせここにダレカよりも高精度で他者の感情に影響される完全帰還者がいる。磁石と磁石が引き合うように、自分よりも強い存在に誘引されてしまうのは、まぁ、ありえなくもないだろう。
原因はさておき。ダレカが町に現れた以上それに対処しなければならない。
帰還者をはじめとした魔物は町に現れてはいけないという世界のルールを侵したその裁きは塔の守護者が行うものだが、彼がこの騒ぎを聞きつけてやってくるまで時間を稼がなくては。
「ルッカらしいところを見せないとね」
「師匠!?」
「霖はここにいて。いいね?」
ダレカは触れたものを影に引きずり込む。
対象の注意を引きつけ、囮となる武具を持つ霖との相性は悪い。もし触れてしまったら影の中だ。完全帰還者がそんなものに引きずり込まれてどうなるかは知らないが、色々なトラブル回避のためにも大人しくしていてもらおう。
霖の頭を撫でて言い聞かせ、真鉄は人の波に逆らって店の外へと出る。普段なら人で賑わっている通りは誰の影もない。静まり返った大通りを誰かの影が歩いていく。その足取りはふらふらとあてもなく、まるで迷子のようだ。
放っておけばそのうちどこかに消えるだろうが、だからといって放っておいて誰かが襲われてはたまらない。刃物を手にした狂人を野放しにするようなものだ。しかるべき対処をしてくれる人物が来るまで、しかるべき対処をするべきだ。
「まぁ……僕との相性も良くないけれど」
真鉄の武具は何の変哲もない刀だ。実体のないものは斬れない。
帰還者のことを空気中の水蒸気を凝縮した霧とたとえたことがあったが、そのたとえでいうならば、ダレカは窓についた結露だ。たまたま吸着するものがあったので水滴という目に見えるものになっただけで、そうでなければ存在すら成立しなかった希薄なものだ。
飼い慣らしている完全帰還者のように、存在が凝縮されて実体を持っているなら話は別だが、虚ろな影は切り刻むことができない。
仮に刃が通用したとしたとしても、すぐに再生するだろう。ついこの前、ジャル・ヘディと一緒に斬り捨てた完全帰還者のように。
だから本当に、残念ながら時間稼ぎしかできない。真鉄にできるのは、ダレカの目の前に出ることでダレカの注意を引きつけることだけだ。それが精一杯だが、それが一番有効だ。このままふらふらとあてもなく歩かれて、建物に隠れている人々が襲われてしまってはいけない。
「……ドウ、シテ……アァ……■■■……」
塗り重ねられた感情の軋む音が聞こえる。これはダレカが意思をもって発している言葉ではない。ダレカが成立する時、感情と一緒に焼き付いた声だ。いつか死んだ誰かが、いつか死んだ時に叫んだ断末魔の欠片だ。
だから聞いてはいけない。聞く価値もなく言葉に意味もなく理解する理由もない。ただの音だ。
振り払うようにダレカの足を切り飛ばす。立ち上る煙を勢いをつけて掻き消すようなものだ。本当に斬ってはいない。手応えすらない。
足の形が崩れ、ダレカの足が止まる。アァ、アァ、と虚ろな音が響く。霧散した影はすぐに元の形を取り戻す。
「アァ……ネェ……ワタシ、■■■デショウ……?」
「よく喋る……饒舌だね」
ただの音にしてはうるさい。それほど発散する言葉が詰まっているということか。
まぁ何でもいい。ただの雑音をこれ以上理解する必要もない。ひたすらに足に当たる部分を切って形を崩させる。進ませやしないよ。ここから先には1歩も動かさない。
ここで停滞し続けるがいい。