暁を刻む
「……っ!!」
悪夢特有の、がくんと落ちる落下感。びくりと震えて真鉄は目を覚ました。
こういった筋肉の緊張は何と言うんだったか、と現実逃避を始めた思考の一部で考えつつ、そっと長く息を吐く。
あまりにもリアルだった。過去の出来事だから当然だ。
今知覚しているここは夢か現実かはかりかねてカレンダーと時計を見る。塔しかない世界に年月も季節もなく、ずっと同じ気候でずっと同じ天気だ。月日というものは希薄で存在を忘れられてしまいがちなものと化してしまっているが、そんな希薄な概念ですら頼りたくなってしまうほど、今の知覚はおぼつかないものだった。
うっすら埃をかぶったカレンダーに刻まれた月日は、ホロロギウム歴8874年。48の月、15日。それを見、あぁ、現実だと安堵の息を吐いた。肺の中の空気は重苦しくて、まるで鉛が詰まったかのようだった。
「んぁ……ししょう……?」
「……あ、あぁ……ごめんね、起こしたかい?」
隣でブランケットの山が動く。昨晩愛したそのままの格好で、霖が枕からほんの少し頭を浮かせて真鉄を見ていた。
気にしなくていいよと貼り付けた微笑みで投げかけ、真鉄はもう一度深く息を吐く。時刻はまだ夜明けだ。今から眠るには短く、起き出すには長すぎる。中途半端な時間に目が覚めてしまったものだと、さっきとは別の意味で嘆息する。
「今日の予定はどうします?」
「まだ寝てていいよ。……そうだね、どうしようか」
「師匠が起きたのに、眠っていられませんよ……ふぁ……」
よっこいしょと霖が体を起こす。どうやら完全に目を覚まさせてしまったようだ。
それなら、と思考を走らせる。それなら遠出するのも悪くないだろう。カレンダーというものを見たおかげで、ふと、とある噂を思い出したことだし。
「霖、ホロロギウムの噂って知っているかい?」
「噂ですか?」
ホロロギウムはこの世界の暦を開発した人物だ。1階の町のはずれの時計塔に住み、そこで時間を計測し続けている。
この世界は常に同じ気候で季節だ。そのうえ町と迷宮では時間の流れが違う。そのうえ、探索者ごとに年月の数え方は違っている。ある者は1年を30日ずつの12ヶ月と言い、ある者は1年を100日ずつの春夏秋冬の4ヶ月と言い、そのせいで日付の数え方で混乱してしまう。
そんな環境の中で、この世界で通用する暦を作ろうということで作られた暦がホロロギウム歴だ。
ホロロギウム歴は1日を軸として数えられる暦だ。
1日を7回。風火水樹雷土氷の各属性を当てはめて1周期とする。
この1周期を4回繰り返した28日を1ヶ月とし、100ヶ月で1年とする。つまり2800日で1年だ。
「さぁ……どの噂ですか?」
きょとん、と霖が首を傾げる。
ホロロギウムは偏屈で知られていて、彼にまつわる噂は絶えない。噂を知っているかと言われても、どの噂のことだかわからないくらいだ。
「ホロロギウムは時間を数えることができる、って噂さ」
この世界の1年1ヶ月1日1時間1分1秒を定めた時間の計測者だ。よって、対象の時間を数えることができる。言い換えれば、相手が『どれだけの年月を経たものか』を計測することができるのだ。
具体的にどういうものか、噂されている間に具体性は抜け落ちてしまった話だ。だが、霖の素性を探るにあたり、それに賭けてみるのも悪くないかもしれない。
対象の経過時間を観測することができる。ということはつまり、霖の正確な年齢を知ることができるかもしれない。
今現在の正確な年齢がわかれば、その年齢に絞って探しやすくなる。この世界では年齢という概念は暦以上に希薄なものだが、年端も行かぬ少女ほどの年齢か妙齢の女性というべき年齢かを区別できるだけでも大きい。そうすれば、膨大な探索者データから彼女の原典を見つけることができるかもしれない。
「女性の年齢を調べるなんて失礼だけど……それに、検査みたいなことをしてしまうけど、ごめんね」
「いえ……。それ、いいと思います! 私も、自分のことはちゃんと知りたいですし……」
自分の正体がわからないというのは不安だ。真鉄のもとで生活して40ヶ月。自身の素性について調べなかったことなんてない。
すべての記録をおさめる図書館を訪ねれば司書は口を凍らせて真実を伏せ。すべての探索者の情報を管理している探索者編成所で検索をかけてみれば、霖と同じ年頃の少女の探索者はごまんといて見当がつけられず。それ以外の場所での調査はほとんど真鉄がひとりで行ったらしいが、それでもそれらしい情報には行き当たっていないという。
そのままだらだらと月日が過ぎて今だ。もし、少しでも目星がつけられるのならぜひとも。
「わかった。じゃぁ出かける準備をしよう。あ、今日は首にストールを巻いておいたほうがいいよ。見えるから」
何とは言わない。昨晩は気分が乗ってしまったのでつい多めに愛の痕を刻んでしまった。
そんな甘いことを言いつつ、しかし実は冷めている。完全帰還者なのに鬱血はするのだという検証のためにそうしたにすぎない。
完全帰還者は実体を持っている感情の残影で、血など流れていないのに、鬱血痕が残ったというのはつまり、本人が『そう』と認識しているからだろう。自分は人間で、首元に吸い付かれたから鬱血痕が残ったという認識があるからそれらしいものができただけ。自覚と認識がなければどんなに吸い付いても肌は無傷だ。快楽で酩酊させている間に口付けた部分は真っ白だったから間違いない。
「だ、誰のせいですか!」
「僕のせいだよ?」
「しれっと言わないでください!」
さぁ、今日も僕の可愛い霖を愛でる1日が始まる。