第二章 南国の富豪
この日は濃霧が出ていた。
視界が白く、隣を歩く黒染めの外套は色あせて見える。
長身の相手の顔立ちが辛うじて分かる程度で、若草色の瞳が道標のようにちらちら光っては霞む。
師弟二人が歩む、第一地区の北側に位置する街路は静まり返っていた。
このあたりの外人居留区に居を構える人物といえば、他国の貴族階級・羽振りのいい商人たちで構成されている。信心深い彼らは、年に数回訪れるか否かの巡礼のためにわざわざこの国に別荘を構えているのだ。
彼らにとってペントラルゴの一等地ともいえる第一地区の敷地を得るということは、世界の有力者にとっては大きなステータスといえた。
一方、ペントラルゴ側からしてみれば、外国人に敷地を与えすぎるわけにもいかず、外人居留区として有力聖職者の居住区と線引きされた場所が、この第一地区の北端だったのである。
「まだ依頼人の家に着かないんですか?」
別荘地というだけあって人がいない屋敷も多く、だいたい使用人が数人詰めている程度が一般的。
もう昼前だというのに人通りもない。
肌寒さ視界の悪さ、静寂と、少年の小さな体をさらに縮める要素がたくさんあった。
異国情緒ある瓦葺の屋根や、土壁の巨大な円楼、白黒青などの総大理石による宮殿。高層階の半円型カマリア窓のはまった屋敷など、その異色の建物が今はぼやけて化け物屋敷のようにヴァッツには見える。
「この辺りのはずなのですがね」
折り目正しく折った紙に目を通しながら、ピトロは右へ左へと首を動かした。
「あぁ、ありました。あの館がそうですよ」
二人が道を右に折れてすぐに、砂色タイル張りの館が現われた。
長方形の館を一定の距離をあけて鉄塀が囲っている。近くに寄るとその鉄塀の高さは一階ほどあり、来る者を威圧する。
「今回の依頼人って・・・どんな人なんですか?」
飾り気のない門があり、厳格な雰囲気が醸し出されている。思わずヴァッツは腰が引けたが、ピトロの視線を受けて姿勢を正す。
「この館のご主人は、南方からいらした方らしいですよ。なんでも奥様がご病気らしく、ここ数日状態が悪化して私に依頼なさったのです」
死の直後に人の魂が体から抜け出てレグレットが生まれる。そのため封師は、事前に亡くなる可能性のある人間の所に出かけて行く。そしてその死後を見守り、レグレットが生まれるようなら浄化する。突発的に生まれたレグレットを浄化する官師とは、ここが違う点である。
「その奥さん、レグレットになるぐらいの心残りがあったの?」
もちろんレグレットにならない死人もいるわけで、依頼されて行ったはいいが慰問に終わる事がざらにあった。そうではあるが、生前に苦労や未練があるとレグレットになる確率がぐっと上がるので、ヴァッツはそれを危惧しているのだ。
「故国からご夫婦で亡命されたのだと伺っています。私達では到底想像もできない苦しいことがあったのではないでしょうか。ご主人がかなり心配してらっしゃるみたいですし、レグレットになる確率は高いかもしれませんね・・・」
門を潜って庭に足を踏み入れた。晴れた日なら美しい庭園も、霧の中では白く霞んで寒々しい。
ピトロは館の扉を叩く前に、ちいさな肩に手をやった。
「今回、この館のご夫婦はペントラルゴで市民権を得られました。この意味が分かりますか?」
「奥さんが亡くなったら、想師が来て記憶を消しに来るってことでしょう。それぐらい知っています」
「もしも想師が記憶を消すようなことになったら、ご主人を刺激する行動はしないで下さいね」
「・・・わかりました」
そう答えながら、ヴァッツは内心、先日会ったヒース司教を思い出して胸がズクズク痛んだ。
外人居留区に行くとピトロから聞いた時には安心していたのに、また気分がどこまでも沈んでいくような心持ちになる。
本来、入国手形を所持している外国人は記憶を消されることはない。外人居留区に住むような人間なら猶更だ。
しかし、市民権を得ると話が変わってくる。というのも、市民権を得るということはペントラルゴの国民になることであり、その管理下に置かれるといえるからである。つまり、正常政策が適用されることを意味していた。
それに、まだ官師見習いであるヴァッツは記憶を消され続けている。今回奥さんが亡くなれば、ヴァッツからも奥さんの記憶が想師により消されてしまう。
「なるほど、抹殺されるわけだ」と、維持の悪い司教の声が聞こえてきそうだ。
「お城での官師見習いに対する指導は順調のようですね」
「えっ?」
無意識に耳を塞いでいたヴァッツは、聞き返す。ピトロを凝視すると、やけに嬉しそうな、それでいて照れるような顔つきだ。
「やっぱり、アシアの教え方がいいんですかね。ヴァッツが法に少し詳しくなってるなんて、以前なら考えられない進歩です」
それを聞いて師のにやけ顔の意味を瞬時に悟った。
「どうせ、師匠の貸してくれた法律書なんて一回も読みませんでしたよ。それに、アシアは実技の指導教官であって、法学を教えてくれるのはフラクル官師です」
そう言うと、「なんだ、そうですか」と非常に残念そうにピトロが吐息を漏らした。ピトロがヴァッツを引き取る以前から、二人は恋人同士である。特にピトロはアシアをとても愛しており、アシアの話となると人が変わったように顔を緩める。
それを見ては、(恋の病は恐ろしい)と子供心に学んだ。