第一章 奇妙な化け物
「あちっっ!」
博士の一息で吹き飛んでしまいそうな白髪が火を噴いたのだ。
「はっ、博士?」
ヴァッツはまた博士の心臓に悪い発明かと思ったが、すぐに考えを打ち消した。
なにせ博士は手ぶらであったわけだから、発明品がないのに原因であるはずがない。
「なんじゃ?またガキたちのいたずらか?」
「ち、ちがうよ!レグレットだ!!」
額にのせていた愛用のゴーグルを顔に装着すると、はっきりと犬に蛇のような尻尾をつけた黒い霧のレグレットを確認することができた。
しかし見かけは犬でも動きは猫のように俊敏で、猿のように木や家の屋根を飛び回る。
博士は着ていたシャツで頭の火を消し困惑した顔で辺りを見渡して嘆息した。
「やれやれ、常人には見えんとはやっかいじゃな」
レグレットは亡くなった生物の魂であり、一般市民にはその姿を見ることさえできない。
現世に心残りがあった場合に現れると考えられており、強い怨み・欲望があれば人を襲う化け物にも変じる。今回現れたのは明らかに退治すべき危険なレグレットだった。
ヴァッツは顎を引き、目を最大限かっと開いて黒いレグレットの動きを追おうとするが、ゴーグルの視界の狭さに阻まれて思うようにいかない。
「このレグレット速すぎるっ!」
動く事もできずにいるヴァッツは、ピトロがいないことに不安を覚えて唇を噛む。
犬のようなレグレットは四つの足で滑るように走り、軒並みに連なる家々に炎を吐きつけていく。
瞬く間に、まるで灼熱の太陽の下にいるような大火事が発生してしまった。
誰かの甲高い悲鳴が轟く。騒ぎに気づいて窓から様子を伺い、外に出て来る人々が現れた。
一瞬にして、日常が倒錯し、非日常へ周辺を変えてしまう。
レグレットの見えない一般人は、ただすごい勢いで炎が家に飛び移っているようにしか見えないのだろう。家に戻ってバケツに水を汲み、消火活動をしようとまさに元凶であるレグレットに近づいて行く。
「だめだ!それ以上近づいたら危ない」
ヴァッツは激しい動悸と恐怖で身を竦ませていた体を叱咤して、人々の進行を妨げようと手を広げた。
「おい小僧!そこをどけ!」
行く手を阻まれた中年男が、苛立ちながら威圧を込めてヴァッツを見下ろす。
「違うんじゃよ。どうやらレグレットがいるみたいなんじゃ」
ヴァッツを押しのけようとした男を、今度は博士が食い止める。
「なんで小僧がレグレットを見えるんだ?・・・まさか城に呼ばれている官師見習いか!?」
そう問われて、ヴァッツは男の目を見返して力強く頷いた。
「これはただの火事なんかじゃない。ここからみんなを避難させないと危険なんだ」
レグレットを浄化したことは、未だにヴァッツにはない。
だが、ピトロについて封師の手伝いをしていたことで、レグレットの危険性は熟知していた。
(レグレットは、えーと、確か人を見つけると襲う傾向が強いとか師匠が言ってたよな)
ヴァッツはピトロが日頃注意していることを高速で回想し、腹を括る。
「博士、みんなを避難させて。俺が何とかしてみるから!」
「わかった。・・・しかしなぁヴァッツ、ピトロを呼んだ方がいいんじゃないか?」
「ここから師匠を呼ぶには時間が掛かるし、巡回中の憲兵が官師をつれてきてくれる方が早いよ」
咄嗟にそう答えていた。
レグレットは何軒かを炎に包み終えるとその場から逃げようとする群衆に気づいて瞬時に襲う体勢に入った。だが動いたのはレグレットだけではない。ヴァッツは隼のように駆け出し、獲物を捕食しようとするかのようにレグレットに突っ込んでいく。
(ガッツだ、ヴァッツ・・・)
右手には武骨なスパナが握られ、壁をつたって移動するレグレットに横からそれを投げつけた。
封師・官師はレグレットと対峙する際、必ず光具と呼ばれるモノを携帯している。これは、格別女神の血を引く高位聖職者、つまり法王の血族が有する聖創力と呼ばれる力を物に込めることで作った、実態のないレグレットに対抗する道具であった。
これの基となる物は特に決まりもなく、要するになんでもいい。
ヴァッツが光具に選んだのは、昔、博士から貰ったこのスパナとゴーグルだ。
スパナは実態のないレグレットを弱体化させる力を。また、ゴーグルはまだ修練の積んでいない未熟なヴァッツがレグレットの姿を視認する力を秘めた光具である。
そのスパナが直線上に回転を加えて空を飛び、レグレットに当たったかに見えた。
「ニギャァァァ!!」
・・・踏みつけられた猫のような悲鳴が、耳につき刺さる。
耳を塞いだヴァッツは、地面に転がるレグレットを確認した。どうやらスパナが効いているらしい。
致命傷ともいえる効果に驚きが隠せない。
スパナが命中した箇所が、水蒸気のように空気に溶け、レグレットの身の丈が三割ほど縮んだ。
これはひょっとして、このまま浄化できるかも、と期待さえしてしまう。
しかし、未熟者の期待は期待止まりでしかなかった。
子犬のようになったレグレットは、逆に凶暴さを増幅させ、噛み合わせの悪そうな長い牙を生やした。横たわっていた体は、頭から糸で吊り上げたように垂直に飛び上がり着地する。
弱体化したなんてとんでもない。活性化しているといってもいい。
小動物特有の小回りの利く動きで軽快にジグザグ走行し、ヴァッツ目掛けて突っ込んで来る。その姿は視界が狭いとか云々の問題ではないほどの速さで、疾風を彷彿とさせる。
(レグレットからは、人に攻撃できるなんて不公平だ!!)
唯一の攻撃手段であるスパナを手放してしまったことが悔やまれる。
「くぅっ」
背中に衝撃を感じて顎から地面に突っ伏した。
「ヴァッツ!」と博士が呼ぶ声がしても、返事を返すことさえできない。
様子を見に来た者、逃げようとする者で人が犇めき合う中で、人々が一斉に静まり返ったのが分かる。人々の注目が、炎からヴァッツに移ったのだ。
(あぁ、こんな格好悪い姿で死にたくない)
鼻までずれたゴーグルが気になった。擦り切れている顔も気になった。こんな時にそんなことを考えるのがは、見栄を張って普段からかっこ良さを気にするヴァッツらしい。
死んだら皆が自分の事を忘れてしまうのだと諦観しても、死に様はやっぱり気になるものなのかと自分でも呆れてしまった。そして、泣きっ面に蜂とばかりに周りの家が完全に炎に取り込まれ、耳に火の粉が落ちてくる。
気温も上がっているのか、自分の背中の上だけ特に暑いので首を捻ってヴァッツは見た。
息をすることさえ忘れてしまった。
大人ひとり分ほどの火の玉が、ヴァッツの上空で膨れ上がっていたのだ。
(焼死体なんて嫌だぁぁぁl!)
瞼を押し付けるように閉じて体を丸めた。
その時、遠くの人垣がさっと割れて、黒塗りの一頭馬車が疾風怒濤の速さで向かってくる。
「少年、助けにきたぞ」
野太い声の主が手綱を引いて馬車を目前で止めて飛び上がった。