第四章 迷い込んだ未踏の地
扉を叩く手が痛くなって、ヴァッツは諦めた。
室内にはトスティンと思われる人の気配があったはずだが、突如感じられなくなってしまい、困惑する。
「・・・アイツ、大丈夫かな」
トスティンを萎縮するほど恐く感じることもあるが、ヴァッツは嫌いになれなかった。もちろん腹が立つ性格だし、掴みどころのない大人だったが、様子が明らかに変だったので心配だった。
・・・とはいえ、押しても引いても叩いても叫んでも開かない扉の前では、これ以上粘ってもどうすることもできない。”前に進むだけ”と諦めるしかなかった。
トスティンに言われたとおり、左に反れると、扉の開かれた牢がずらりと並んでいた。
・・・・中は蛻の殻。
ただ、体臭や饐えた臭いがして、さっきまで人がいたことは明確だった。
・・・誰かの話し声も聞こえてくる。
歩調を速くして足を進めると、緑青の塊が壁に寄りかかっているのを認めた。
子供にしては大きいその見場は、官師の長衣に包まれたアシアだと一拍おいてからヴァッツは気づく。
足元には泣き叫びながら頭を抱える幼児がいて、その脇に丸目の遺骸が不自然な体勢で横たわっていた。担いで運んでいたのがずり落ちたようだった。
「ヴァッツ?」
顔を上げたアシアは「なぜ?」と言いたげに乾いた唇を動かした。衰弱ぶりはただ事ではなく、内側からアシアの生命力を削っているようだった。
「どうしてここにいるかって聞きたいの?」
アシアは頷くだけで返事をすませた。見るからに、話しをするのが辛そうだ。
以前から風邪を引いているとは聞いていた。休んでいるのか、城に顔を出さない日もあったのだが、ただの風邪でこれほど症状が悪くなるものだろうか。熱があるというよりは、萎びて枯れてしまいそうな風貌に、ヴァッツは嫌な汗が滲んだ。
「それは話すと長くなるから後で話すよ。それより、具合悪いみたいだね」
見ればわかる当然の言葉しか出てこず、ヴァッツは戸惑う。
「ヴァッツ、私のことはいいからその子を支えてあげて」
汚れて垢だらけになっている幼児は、ずっと泣くのを止めようとせず、しきりに自分の頭を叩いている。
ヴァッツはその子供を見て、まるで未踏の地に足を踏み入れた子供のようだと思った。
・・・・一人で悲しみと戦っている。
「その子、一緒に連れてこられたお兄ちゃんが、目の前で死んでしまったの。こんな時、私が想師だったらと・・・」
そこでアシアが胸を押さえて言葉を切った。ヴァッツはどうしていいのかわからず、幼児の手を掴んで抱きしめた。
「アシア、もしかして・・・何かされた?」
さきほどの研究室でのことが脳に焼きついているだけに、官師であるアシアの血が抜き取られたのではないかと危惧した。アシアは途切れがちに「私は病の血だから大丈夫」と答えた。
「それ・・・・どういうこと?・・・そんなにひどいの?」
「トスティンからだいたいのことを聞いたわ。もうすぐ死ぬ病気持ちの血なんか、彼らは必要としていないのよ」
ただでも暗くて重い牢獄で、掠れがちに話すアシアの声は死者の声に聞こえた。しかし、当の本人は小さく笑っている。
「冗談なの?」
「本当よ・・・自分でも信じられないほどの衰弱ぶりが可笑しかっただけ」
「何悠長なこと言ってんだよ。とても信じられないよ、病気だったなんて」
ヴァッツは腹が立って仕方がなかった。アシアにではなく、自分を取り巻く人々の不幸と理由のわからない不安に。アシアはそんなヴァッツを見守り、途中で目が翳んできたのか目を瞬かせた。段々力なく瞼が閉じられていく。
「アシア?」
異変に気づいたヴァッツはアシアの体を揺さぶった。
「アシアってば!」
叫び声は壁に反響して何重にも重なる。ヴァッツはひどい虚脱感に襲われた。安全だった国で、平穏だった自分の世界がほんの数日で奇妙に歪んでしまった。いや、きっと最初から歪んでいたのだろう。自分が気づかなかっただけで・・・。
理由も知れぬ悲しさに、ヴァッツも未踏の地に足を踏み入れようとしていた。腕の中の子どもがずっと泣き叫んでいる。
暗い淵に沈む意識のなか、丸まった背に暖かい温もりを感じてヴァッツは振り返った。透けて見えるあの栗色の髪の少女が、気遣わしげにヴァッツの背を摩っている。その温もりにもっと触れたくて、少女の手に手を重ねようとするが、透り抜けて空を彷徨う。
「ありがとう」
放心しながら何とか礼を言うと、少女はにこりと笑った。
「・・・私は大丈夫よ。自分で作ったポモドーロを食べたぐらいの辛さしかないから」
死を待つ状況でもアシアはくだらない冗談を言ってヴァッツを安心させようとする。掠れて声というより息みたいだったが、やけに鮮明に聞き取れた。淋しくて悲しいのだが、ヴァッツは笑顔になった。アシアの作ったポモドーロは最強に不味い。
ピトロを含めた三人でそれを食べた時は、三人とも翌日の朝まで気持ち悪さが抜けなかった。その時の辛さを思い出すと、おかしな話だが今では本当に幸せな気持ちにさせられる。
「師匠はどこに?一緒に捕まってたんじゃないの?」
ヴァッツはアシアのために、ピトロをここに連れてこなければと思った。
「・・・なに、オニ?」
ヴァッツはアシアの、もそりと動く唇に耳を傾け、言葉を反芻する。
「『行った・・・記憶のために』?」
その後「どういうこと?」と、問おうとしたが、声は爆風とともにかき消された。




