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間章 

ほどよく暖かい昼下がりのことだった。


「熱心ですね。感心はできませんけれど」


足元に本を散らかして何かを読みふけっている美青年を見下ろし、還暦を迎えているだろう老女は静かに微笑する。


 ヒースが城の資料室の隅に腰を下ろして数時間は経っていた。


自身を囲むように床に放置した本は、開いたページで裏返したまま、ぐらぐら揺れるほど積み重ねられている。老女に指摘されたとおり、これでは感心はされないだろうとヒースは他人ごとのように納得した。


「自分で片付けますので、伯母上はあちらに腰掛けていて下さい」


老女が腰を屈めて散らかした本を拾おうとするのを認めて、慌ててヒースはそれを止める。伯母というだけでなく、猊下と呼ばれる称号で呼ばれる相手に本を片付けさせるなど、教会内ではあってはならないことだった。


「誰も見ていないでしょうから良いでしょう。それとも法王の息子でありながら、人目に付くところでその不愉快極まりない、読書方法を行っていたのですか?」


このエディロア=サーペン=ペイテェスという老女は、柔和な笑顔のまま痛烈な言葉を使うという、ペイテェス家の特徴を正確に受け継いだ人物だった。たまにその様を垣間見ると、ヒースはつくづく半ば神格化されている己に流れている血が珍妙に思えてならない。


「問題ありません。ここに足を運ぶ勤勉な人物は大変少ないので」

「嘆かわしいこと」


エディロアは上品に言い捨てて、拾い集めた大量の本をヒースの横に積み上げる。ヒースは座っている自身より高くなったそれを見せつけられて、微妙な笑みを貼り付ける。


「なぜこんな所にいらっしゃるのですか?伯母上の職場にしては殺伐とした所ですね」


ヒースは軽口を言ってみた。すると、やはり反撃される。


「仮にもこの国の資料という資料の揃った資料室をこんな所とはひどい言い草ですわね。まぁ確かに、ここで殺人事件が起こっても驚きはしませんが・・・職場にして書類整理が(はかど)ったら奇跡でしょうね」


資料室は長い年月を経て褐色に変色した白壁が目立っていた。

天井から列柱にいたるまで細かなデザイン彫刻で飾られており、その広さは兎にも角にも大陸一広いだろうと言われてさえいる。

雑然と並んだ本棚といい、部屋の配置が北向きということもあって、古代遺跡のような雰囲気も否めない。死体が発見されても、誰も不思議には思わないだろう。腕を上る蟻を見つけて、払い落としたヒースは妙に納得できた。


「この頃気色悪い聖職者と仲が良いようですね。友人はよく選びなさい」

「伯母上?・・・あぁ、かわいい甥っ子の動向を見張っていたのですか?しかも気色悪いって。ボーゼス殿がかわいそうですよ」


引き締まっているのか垂れているのかわからない体形を思い出して、伯母の言に納得しつつも弁護はする。また、自分に小言を言いに来たらしいと、ようやく察した。


「正常政策ですか?」


エディロアはヒースの手にしている本を流れるように奪い取り目をとおす。そして、すぐに飽きたようで突き返した。


エディロアの指摘したとおり、ヒースはずっと正常政策について重点的に調べている。久しぶりに故国に帰ってきてその異常さに触れたためか、とにかく正常政策について一から調べようと思いついたからだった。


「正常政策の大義名分は確か、『身内や知人がレグレットになる苦しみからの解放』というもので、今から二十年前に施行したんですよね」

「えぇ」

「実際は、当時官師の育成がままならず、レグレットに対処できない国への民衆の不満を回避するためだったようですが・・・」

「そうですよ。民衆の不満は日に日に募っていましたから」

「でも、その根本的な原因であるレグレットは、二十五年前まではあまり確認された形跡がないようですが、これはどういうことですか?」


年鑑を見てその奇妙さに気づき、様々な本を捲って調べてみたが、二十五年以前の記録にはレグレットのレの文字さえ出てこない。そしてその来年から、少しずつレグレットの被害件数が増えているのである。


「間違ったことは書いていませんよ。二十五年前まではレグレットはほとんど存在せず、あっても自然現象が起こったぐらいの認識でしたから。そんなことも知らなかったのですか?」

「私が生まれた頃といえば、すでにレグレットはその辺りの犬猫のように・・・と言えば少し語弊がありますが、遭遇しても驚かないような当たり前の存在でしたから」


そろそろ伯母の毒舌に苦痛を感じ始めたヒースは、手近にあった本を本棚にしまうことで、故意に伯母の顔を見ないように心がける。


「知らなくても恥ではありませんよ。真の正常政策の目的は国民の認識とは違い、人々の国への不満を消し去ることから始まったんですもの。聖創力がない者は過去にレグレットがいたかどうかの記憶でさえ消し去られて曖昧のはずです。それに覚えている高位の聖職者といえど、簡単に教えてくれるような親切な人間はこの城にはいないでしょうしね」


ヒースの心情を察して正真正銘の優しい声音で教えてくれたのだが、その内容はけして心休まるものではない。こんなにおおっぴらに国民全員の権利を省みない政策を行うとは、「人間として間違っている」と叱りたくなる。もちろん、その相手は父親なのだが・・・


「・・・国民はよくまともに生活していますね」

「ふふふ、正直な感想ですこと。真実、普通の国がこんな無茶な政策を断行したなら秩序は壊れて滅亡しているでしょうね。わが国は良くも悪くも聖創力という女神の恩恵ともいえる力があり、信仰という強い鎖が民衆の不満の歯止めにもなっているのでしょう・・・。しかし、それも壊れそうですけれども」


その昔の政治に関わっていたであろう、伯母の達観した物言いに嘆息する。

相手はあとちょっとでこの世ともおさらばかもしれないが、皺寄せに合うのはヒースなのである。


「不思議に思っていたのですが、なぜこんな政策を?例えば暴動が起こるほどの不満でも、そこは自力で踏みとどまることができたはずです。何もこんな馬鹿なことをしなくても・・・」


憤懣(ふんまん)やるかたない胸の内が声を伝って外に出た時、第三者の声がそれを遮った。


日頃、人がいなくて当たり前の場所であるはずだが、想定外の人物が立っている。柱の影から姿を現した声の主は、金髪片目の知人だった。


「ボーゼスのせいですよ。アイツが聖会議に参加する高位聖職者どもを買収して、正常政策の賛成派を作り上げたんです。幾ら法王様でも大多数の賛成派聖職者を無視することはできません」

「トスティン、そこまで言うなら何か証拠があるんだな?」


トスティンは、足音もなく近づいてきて、幾分黄ばんだ紙束をヒースに差し出した。


「念書です。その時賛成派に回った奴らの別宅から見つけました。そこに記載してある桁の多い数字は、その見返りのためにボーゼスが相手に渡した金額でしょう。残念ながら詳しい内容は抽象的すぎてわかりませんが、まずあの会議に関わることであるのは間違いないでしょう」

「だが、これだけではボーゼスを告発する証拠にはならない・・・。しかし、前から気になっていたのだが、この羽振りの良さはなんだ?どこからこんな金策を得ているんだ?」


もし、ボーゼスを告発して失脚できれば芋づる式で他の悪徳聖職者の位を剥奪できる。おまけにそうなると、また正常政策の成否を会議で協議する機会もやってくるだろう。今までボーゼスが他の聖職者に圧力をかけていたが、それも無くなれば正常政策撤廃の道が開けたといってもいい。わざわざ自分でも嫌になるほどの三流悪役を演じて、気色悪い男の誘いにのった甲斐がありそうだ。

ボーゼスと正常政策に繋がりがあったことにヒースは喜びを感じていた。

ヒースのこの国における不快の二つ、腹黒聖職者と正常政策が、ボーゼスを失脚させさえすれば改善に向かう。


「トスティン、忙しいところ悪いがボーゼスの金の出所を探ってほしい」

「わかりました。忙しいですが、死んだ俺を生き返らせてもらった手前、ヒース様のために働くしかないですね」


トスティンは、わざとらしくヒースに恩を売りつけるのを忘れない。ヒースもそんな心中などお見通しだったが、何も言わず「よろしく頼む」とだけ言って、来た時同様柱の影に消えたトスティンを見送った。


「まったく、いつ入り込んだんですかね?」


本棚の影に腰を落とし、様子を伺っていたルルドが顔を出した。


「そういえば、聖騎士は暗部が皆嫌いだな。まさかお前もそうだとは思わなかったけど」

「裏でコソコソ働いて、認められているのが気に食わないっていうのが一般的ですが、私は陰気なくせに腕が立って認められているところが好きません」

「褒めているようにも聞こえるけどね」


ルルドはちょっと笑って「まぁ微少に、超が付くほど少しだけは」と、遠まわしすぎてわからないことを言う。そして頭を掻いた。


「それにしても、低俗な暗部を飼っていますのね」


伯母はやはり辛辣だった。しかし、そんな言葉もおっとりやさしげに言うのでヒースはさらに辟易した。座っていたルルドも慌てて立ち上がってしまうほど迫力がある。


「あれの主人は私ではないので、こんなものでしょう。しかし、信用できる人間です」

「蘇生させて命を与えたからですか?法王様の許可もなく」


ヒースは咄嗟に平静を装った。


「・・・法王様との約束を破ったことは黙っていましょう。後何年かすれば、どうせあなたが法王になるのでしょうし」


厳しいのか緩いのかわからない伯母の性格に困惑させられつつ、ヒースは怪訝そうに伯母の笑顔を除き見る。しかし、この伯母に比べれば、今足元を歩く蟻の気持ちの方がまだ理解できそうな気がした。

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