第二章 消えた記憶
「終わったぞ」
トスティンの忘却の力が国中に広がった。
その声は、脳が破裂しそうなほど音痴というわけではなく重厚な美声だったのだが、ヴァッツはあまりの頭の痛さにしばらく蹲って動けなかった。
一方クムジェンと男は意識を失い、床に昏倒している。
「頭が痛いってことは力に抵抗できた証拠だ。近距離だったのにすごいじゃないか」
「ぜんぜん良くない。かなり頭が痛かったんだけど・・・・?」
「あぁ大丈夫、大丈夫。・・・・て、そんなに怒るなよ。覚えているんだろう?」
ヴァッツが非難めいた顔をして、自分を見上げていることにトスティンはため息をつく。
「そうじゃなくて・・・・何でわざわざ記憶を消すつもりだったのに、あんなこと言ったかってことだよ」
ヴァッツはどうしようもないくらいムカムカしていた。
使用人の男は、サレーヌに関する記憶が消されることを覚悟しているようだった。
しかしそれは自分でそう納得しようとしていただけだったのだと今は思う。
そうやって、必死に自分の気持ちにけじめをつけようとしていたのに、わざわざその決心を揺らがせ絶望させてから記憶を抹消するのは卑劣なことだと思った。
「納得できないのなら抗えばいい。なのに、あの男はそれをしなかった。人の記憶がどれほど重要なのか知らずに。記憶がなければ死んだ人間は始めからいないも同じ、存在しなくなるっていうのに・・・・むかつくぜ」
琥珀の目が翳って褐色にかわった。斜に構えて吐き捨てた物言いに、ヴァッツは困惑する。
「・・・・私はいったい、なぜこんなところで寝ているのですか?」
衣擦れする音がしたかと思えば、想師の力によって妻の存在を忘れたこの館の主人は、頭を抱えて起き上がろうとしていた。それをピトロは体を支えて助けてやる。
「私共のことはお分かりになりますか?」
「ピトロ封師とお弟子の方に、トスティン想師でしょう?・・・あそこの寝台に眠っているのは、やはり・・・?」
「あなたの奥様だった方です」
「そうですか。・・・ほら、ラッセル起きなさい」
まるで他人のことのように納得した主人は、使用人に歩みよって助け起こしてやる。その二人にトスティンが近づく。
「奥さんの葬儀なんだが、国で近日中に亡くなった遺体を集めて集団葬儀を行う。別に個人で行っても構わないが、どちらにする?」
「国で弔っていただけるなら、そうしてくれると助かります」
ヴァッツはその言葉に、思わず眉間に皺が寄る。
トスティンは気にせず、「わかった」とそっけなく答えた。
「旦那様・・・?」
「起きたか。どうやら私の妻が亡くなったらしい」
意識の戻った男が主人に支えられながら上体を起こした。視線は寝台に注がれ、神妙に頷いた。
「ラッセルと私で、これからのことは考えるとしよう。忙しくなるぞ」
「はい、旦那様」
主人は満足そうに頷いて、使用人の男も力強く頷いた。
ステンドグラスの赤い花の絵柄が、眠りについたサレーヌの上に、朝日を受けて浮かび上がった。
悲愴な光景であるはずが、誰も何の感慨も持たないようだった。
ヴァッツはその様子を見ていられなくて、部屋を飛び出した。
部屋を片付けるからと、丁寧に退室を促されたピトロは、廊下で密やかに佇む人影に気づいて足を向けた。
「ヴァッツを追いかけたと思っていましたが・・・」
平坦な声音だったが、暖かい響きが混ざっていた。トスティンは疲れたように、壁に体を凭せ掛けて顔を背けた。
「お前はなんで一緒にいてやらないんだ?随分へこんでたのによ」
「依頼人が記憶を無くした後の事後説明は、黙約みたいなものです。それに、ヴァッツは心配ありませんよ。私の育て方がいいですから」
「なるほど、さすがだ」
ふざげた調子が戻ってきたらしく、トスティンは手を叩いてピトロを煽てた。ピトロも満更ではないらしく大様な態度で頷いた。
「当然です。それに、今はヴァッツよりもあなたが心配です。相変わらず自己中心的で、天邪鬼でいらっしゃる。本当に、久しぶりに会ったというのに心配させてくれますね。おまけに今は、想師もしているんですね?」
「ふん。ひねくった話し方は健在なんだな。おぞましい」
気安い相手との会話なので、表情は両者とも緩い。二人は旧知の仲だった。
「天邪鬼なあなたのことです。おぞましいとは逆の意味なのだと解釈しておきましょう」
「曲解のしすぎだ」
ピトロは声を殺して笑った。
「・・・・ところで、ヴァッツに憑いてたあのかわいい女の子、誰だ?」
「気になりますか?城の官師見習いだった子で、ヴァッツの一番の友達だった子ですよ。いつも城まで一緒に行っていたのに、ヴァッツがある日を境にその子のことを忘れていました。原因はわかりませんが・・・・亡くなったのでしょう」
「当の本人は憑かれていることに、ずっと気づいていなかったな・・・・」
「まぁ・・・ヴァッツですから」
「育て方の問題じゃないのか?」
「まさか。問題はあなたに似たことでしょう」
三年ぶりの再会だった。トスティンが今も苦渋の生活を送っているのだろうと察しがついたため、ピトロは陽気な仮面を被った相手に合わせて明るく対応する。
「・・・・俺似だって?」
二人の視線が交錯し、トスティンが照れたように俯いた。
「このまま、ヴァッツに教えないつもりですか?あの悲惨な出来事も知らないままに・・・」
「やっと、アイツを追い詰められそうなんだ。だからこの馬鹿な政策をなんとかできるかもしれない。それに、言えるわけがない・・・」
やはり暗くなりがちな内容を、ピトロはことさら明るく皮肉った。
「暗部にとって情報漏らすことは、もちろんあってはならないのでしょうね。あぁ・・・想師もやってるんでしたっけ?」
声を潜めたピトロは、嘆息する。
ペントラルゴの暗部といえば、諜報活動から暗殺までなんでもする権力者に仕える集団である。もちろん一般人が関知しない、国家の闇の一つといわれている。おまけに今は表の顔として大嫌いなはずの想師にもなっている。
天邪鬼だからか、とにかく不器用な生き方しかできない友人を思い、ピトロは心が痛んだ。しかし、次の友人の言葉に、その余裕は吹き飛ばされる。
「大変さ、でも俺は後悔していないぜ。おかげでいろんな情報が入ってくるからな。それで・・・今お前が悩んでることも知っている。だからあえて訊きたい。お前はこれからどうするつもりだ?」
ピトロの体が僅かに揺れた。それを見逃さなかったトスティンの表情が曇る。
もうどちらがどちらを心配しているのかわからない。ピトロに、いつもの倦怠感が襲ってきた。
「じゃあ、俺行くわ。正直、お前の答えを聞くのがちょっと怖いしな」
「すみません・・・・」と、声を震わすピトロの微かな声から逃げるように、トスティンは背を向けた。




