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第二章 忘却の頌歌

 クムジェンの屋敷に滞在して二日目の夜。


ヴァッツは急に寒気がして目を覚ました。

手探りで手燭を引き寄せ火を灯すと、扉が僅かに開いていることに気付いた。


女の子のレグレットに会ってから、片時も離さなかったゴーグルが頭にのっているのを確認して装着した。


「・・・またあの子か」


眠すぎて瞼が開いていないが、レグレットがいることは肌で感じ取れた。


・・・・やはり殺気もない。


ただドアが風もないのにゆっくり開いていく。隣に眠るピトロに視線を向けたが、規則正しい寝息が聞こえてくるだけである。


ヴァッツは寝台からそろりと降りて、廊下に出た。

手燭を掲げて廊下を照らすと、廊下がどこまでも続きそうな錯覚を受ける。明かりに照らされた廊下と闇の境界に、見覚えのある少女が立っていた。


いつの間にか必要でなくなってしまったゴーグルだが、付けると少女の顔をはっきり見ることができる。なかなか愛らしい顔立ちの少女だった。


「君は・・・何がしたいの?」


少女は何も言わない。透けて闇に溶け込んだ華奢な手で手招きをする。それからふわりと宙に浮き・・・そして、掻き消えた。


足音を殺して急いで廊下を進むと、階段の下で少女がヴァッツを見上げている。


少女に誘われるようについて歩くと、書斎の扉を少女はすり抜けた。閉じ込められた苦い思い出があるだけに躊躇していると、分厚い扉が一人でに開いていく。


 しばらく迷ったが、結局ヴァッツは扉に体を滑り込ませた。


・・・・パタ


軽い本が床に落ちる音がする。音が聞こえたのは窓際の奥の方からだった。


「この本を持っていけって言いたいの?」


想像どおり、血のついた冊子が落ちていた。まるで誰かによって置かれたように、表紙を上向きに、ヴァッツの方を向いて落ちていた。


星のない外の闇を背景に、窓に映る少女が頷く。


仄かに照らされた姿を見て、なぜか少女を恐いという感情が消え、ただ悲しい気持ちになった。

前に書斎で見た時に恐怖を感じたことが、不思議に思えるくらいである。女の子を見ていると、どういうわけか罪悪感が胸を締め付ける・・・。


その女の子が、煙のように揺らいで姿が徐々に薄れていき・・・そして見えなくなった。夢でも見ている気がして、腕の中の不気味な冊子に目がとまる。


・・・・むしろ夢であったらとヴァッツは心から願った。

  

「こんな時間に誰だろう・・・?」


肩を落としながら部屋に戻ろうとしていたが、ふと足を止めた。廊下の突き当たりから明かりが漏れていることに気づいてそっと近寄る。


明かりは、サレーヌの眠る部屋の扉から漏れているようだった。

この屋敷に寝泊りしているのは、クムジェンとあの実直そうな使用人。そしてピトロと、おそらくあのトスティンのみである。こんな夜更けに誰かがサレーヌの容態を見守っているのだろうかと、興味が惹かれた。


「あ・・・」


 声をかけようかと口を開きかけて・・・すぐに止めた。


 燭台の三本の蝋燭が、寝台に横たわるサレーヌとその脇に腰かける使用人の男を照らし出している。


黄昏色の明かりで映し出された二人の姿は、覗き見することさえ憚られた。

そして、ふと以前、サレーヌについて男が、「旦那様と会う前から苦労していた」と言っていた違和感の理由に何となく思い至る。


おそらく男はサレーヌが結婚する以前からの使用人であり、この男はずっとサレーヌを愛しているのだろう。

思い返してみると、クムジェンにしても妻に触れようとして止めた動作が挙動不審だった。もしかすると、二人の関係でさえ知っているのかもしれない。


意識のない女を見下ろす男は真剣で、隠れて様子を見ているのも落ちつかなくなってきたので、部屋に戻ることを決めた。


(やっぱり、ここで黙って見て見ぬ振りをするのが大人だよな)


ところが、ヴァッツは部屋の一点を凝視して動けなくなった。サレーヌの口端から黒い気体が天井に向かって狼煙のように真っ直ぐ伸びているのが見えたからである。


男は自分が黒い霧のようなものに包まれていることに気づいていない。


(サレーヌさん・・・死んじゃったんだ)


よく見れば、男が震え、虚ろだった。男はレグレットになろうとしているサレーヌに気づかず、死に水をとってやっている。


その間にも、天井に広がっていた黒い霧状の気体が小さな渦を作って集まり、何かの形状を成そうとしていた。


「逃げて!ここにいたら危険だよ。今師匠を起こしてくるから!!」


飛び出したヴァッツの横目に、黒染めの外套が靡いた。


「ヴァッツ様?・・・それにピトロ様まで」


よほど驚いたらしく男は目を見開いている。


「し、師匠?いつからいたんですか?」


ピトロはヴァッツを後ろへ隠すようにして、部屋に踏み込んだ。


「そんなことよりヴァッツ、呆けてないでこの方を部屋から連れ出しなさい」

「あっ、はい」


急いで駆け寄って、足に力が入っていない男を引きずるように廊下に連れて出た。サレーヌのレグレットはすでに猿に角が生えたような形状を成している。


一方、ピトロは自身の光具であるルイースフェル教の聖書を開き、字面を追いながら何か口中で呟いていた。

すると、聖書の文字が輝き出し、光った文字が本から離れる。そして・・・・空中を踊った文字群は、ピトロの指先に導かれるようにレグレットに放たれた。


「よし、さすが師匠」


 レグレットは角を振り乱し、自らを戒めようとする文字の大群を振り払おうと獰猛なうなり声を上げて暴れる。ヴァッツは師の手際の良さに惚れ惚れする。


「ま、待って下さい。レグレットになったからには何か理由があるはずです。少しで構いません。浄化するのを待って下さい」


男が今まで見たことないほど必死に声を張り上げ懇願するが、ピトロは手を緩めず容赦なくレグレットを締め上げる。


「お心はお察ししますが、レグレットになった以上、これはもうサレーヌさんではありません。浄化されるべきものです」


人の魂がなぜ、レグレットのような化け物に変ずるのかは解明されているわけではないが、少なくともレグレットになった魂が、人の心を取り戻した事例は存在しない。だからこそ、世の封師や官師は心を鬼にして、浄化することを戸惑わない。そうしなければ、自分や周りの人間がただ危険に合うだけだからだ。


「いいえ、それはサレーヌ様です!」


しかし男はヴァッツを押しのけて、ピトロに飛びかかった。咄嗟のことで避け損なったため、男とピトロは絡まりあいながら床に叩きつけられる。


「ヴァッツ、この方をしっかり押さえつけときなさい」


ピトロは眉間に皴を刻んで、なおも聖書の文字をレグレットに放った。一方ヴァッツも、子供の力で大人を押さえつけるのはかなり無理があったが、持ち前のガッツで男の足にしがみついて押さえ込んだ。


間もなく、ピトロの力で全身を文字群に覆い隠されたレグレットは圧縮され、そして文字とともに光に包まれて消失した。


「これはいったい・・・」


クムジェンの声に、呆然としていた男は反射的に振り向いた。


「あぁ・・・レグレットの浄化は終わったようだな」


暢気な声で、クムジェンの後ろからひょっこり顔を出したのは、想師トスティンだった。


「あっ、お前!」


ヴァッツの顔が自然と険しくなる。


「そろそろだろうと思ってよ。そしたらまぁ、案の定ってわけ」


場所をわきまえない、いやに明るい口調にさすがのクムジェンは眉を(ひそ)める。一方ヴァッツは、こういう大人にはなりたくないものだと心から思った。


「浄化ということは、サレーヌは亡くなったんですね」


クムジェンは、もう分かっているのだろうが冷静に確認する。それにピトロは「はい」とだけ答えた。師がこんな時、やりきれない思いをしているのをヴァッツは知っていた。だから、トスティンの次の言葉が猛烈にむかついた。


「さぁて、じゃあ手っ取り早く記憶を消してしまいましょうか?故人を悼むのも、もういいでしょう」

「ちょっと待てよ。まだ、亡くなってそんなに経っていないじゃないか!」


男が、主人の妻を本気で好きだったこと。

その主人も妻を愛していたこと。

そして、師が故人を悼む気持ちを大事にしていることをヴァッツは子供だからといっても理解していた。


いくら想師といってもこの状況で故人の記憶を消して、さっさと関係を白紙に戻す行為を行うなんて考えられないし、納得できない。ヴァッツはその意思を込めて徹底的に抗議するつもりでいた。


「じゃあ聞くが、それならいつ記憶を消すんだ?もう少し落ち着いてからか?誰か大事な人間を失っていつかになったら落着く時がくるのか?」


にやけ顔が消え失せ、トスティンの琥珀の目が眼光鋭くヴァッツの目を突き刺す。


「辛さを取り除くんだったら、早いほうがいい。そう思わないか?」

「・・・でも、それじゃあ亡くなった人は何のために今まで生きていたの?少しでも死を悲しんであげなきゃ可哀想じゃないか」

「亡くなった人間の記憶を消すことにヴァッツは賛成していましたよね。それなら、別にいつ消してもいいのではないのですか?」

「師匠も今から記憶を消すことに賛成なんですか?」


ヴァッツは師の態度に衝撃を受ける。今まで世間が正常政策に賛同していたので、あまり考えずにそれが正しいと思ってきた。だが今は根拠のない焦燥感を感じている。頼りの師が、こんな形で記憶を消す行為に賛同するなんて考えたくない。


「そういうわけではありません。私もどちらかというと今からというのは早急すぎると思います。しかし、それを判断するのは想師です」

「俺じゃねぇよ」


トスティンは鼻を掻くと、クムジェンを指差した。


「俺は確かに嫌われ者の死刑執行人みたいなもんだが、一応良心がある。この奥さんの旦那であるあんたが決めるといい。だが、法衣を着たお偉いらしい方々がうるさいから早くしてくれよ」


ヴァッツは顔を輝かせる。

・・・が、次のクムジェンの言葉に凍りつく。


「すぐ、やって下さい」

「・・・・旦那様。しかし」


クムジェンは厳格にそう言い切った。その時、使用人の男を睨む眼光の鋭さはヴァッツの比ではなく、殺気を帯びていた。


「わかった、これで決まりだな。もう決定事項だからな」


後半はヴァッツに向けた言葉だった。それでも納得いかず食い下がろうとするヴァッツの口を、トスティンが塞いだ。しかも後ろから腕でがっちり押さえ込んでいる。


「何すっ」

「記憶が消されたくないのなら、必死で抵抗しろ。お前なら大丈夫だろう」

「えっ何を・・・?」


見習いであろうと封師でない限り正常政策の対象になる。困惑してピトロの顔色を伺うと、まるで聞いていなかったように目を合わせようともしない。


 想師トスティンは両手の指先を合わせて息を整える。その場の皆の視線が集中する中、人の悪い顔で笑ってそれを中断した。


「始める前に言い忘れていたんだが・・・」


今度は皆が不審そうに、嘲るように笑っている想師を注視した。


「これは一般には知られていないことなんだがな。法王のご子息のヒース様が蘇生の力を持っていることを知っているか?まぁ、知らなかったにしても今さら俺は止めないけど」


その言葉にまず反応したのはピトロだった。


「トスティン。あの方の力は簡単に使っていいものではないことを知っているでしょう?」


珍しく声に怒気を孕んだ師の様子にヴァッツは驚く。そして何より男の質問によって出てきた名に、さらに衝撃を受けることとなった。


「それは、本当ですか?」


使用人の男は不審そうに、しかし期待するように問いかけた。


「紛れもなく本当だ。だが聞いてどうする?記憶を亡くすことに反対さえしなかったのに?こちらのご主人はその様子じゃあ知っていたようだが・・・」

「他国でも金持ち連中や貴族、王族の間では有名な話です。特に王族や大貴族の間では実際ペントラルゴに裏で依頼して生き返った方がいらっしゃるようですな」


動揺どころか平然と認める。それを聴いた男の瞳は沼のように淀んだ。


「どうして、それを教えて下さらなかったのです?そんなに、私のことを怨んでいらっしゃるのですか?」

「おい、どうせ忘れるんだ、どうでもいいだろ。どちらにせよ、今まで記憶を亡くすことに疑問を抱かず、反発しなかった。それがアンタの反省すべきところだ」


憤然と言い切ったトスティンは前ぶれもなしに頌歌を歌い始めた。トスティンを中心に力が波状する。ヴァッツは頭に皹が入るような圧迫感を受け、拳を握って集中した。

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