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第二章 無口な使用人

 行ったことのない場所に行くのは好きなのに、この館では心が弾まない。


廊下は冷気が漂い、窓から差し込む白い太陽がなんだか怖い。


何より不気味なのは、何となくこの館の景色に見覚えがあるような既視感があることだ。


(やっぱり、師匠と一緒にいればよかったかな)


無口な使用人の男はずっと何も言わないので、気も紛れない。


「あ・・・あのさ。サ、サレーヌさんって、いつから病気だったの?」


何をそんなに怖がっているのか、声が裏返って山羊の鳴き声のようになった。前方を歩く男はちらりと視線をこちらに向けた。当たり障りのないところから会話をしようと試みる。しかしその質問が率直すぎるのも子供であるヴァッツは気づいていない。


「・・・正確にいつとははっきり判らないのですが、亡命する以前からお体を悪くなさって、こちらに来てからはもう寝台から出られなくなってしまわれました」

「まだ若い人だけど、やっぱり苦労したから病気になっちゃったのかな?」

「・・・それは私からは何とも。しかし、旦那様にお会いになる以前も苦労なさっていましたが、ご婚約後も国では心労の耐えない日々が続いていらっしゃいましたし、あるいはそうかもしれませんね」


ヴァッツは妙に心に引っかかった。


(あれ?『以前も苦労なさっていました』?)


男は眼前の分厚い扉に手を掛けて、ヴァッツが中に入ったのを確認して扉を閉めた。流れるような動作でそれを行い、すべりのいい靴でも履いているかのようである。


天井まで高さのある書棚が、人一人通れるかという間隔で並べられている部屋で、二人は窓際の机を挟んで話をした。

子供とはいえ客でもあるヴァッツを、退屈させないための使用人の配慮だった。

ヴァッツは外国である彼らの故国での暮らしを重点的に質問した。


そして、ヴァッツは男から興味深い話を聴くことになった。


「私共がいた国は所謂恐怖政治といっても差し支えのない、町民には過ごしにくい所でした。税や農作物の搾取、王族の横暴も段々目立ってきて、逆らった者は刑に処せられました――――」


そこで子供に話して良い内容ではないと男は口を噤んだが、ヴァッツは外国に興味があり、しつこく訊くので、根負けしたように男は話続けることになってしまった。


「国内で屈指の富豪である旦那様が目を付けられないはずもなく・・・徐々に国からの締め付けもひどくなり、時にはたちの悪い嫌がらせもされるようになって困っていたのです」


男はそこで心惑ったように口を閉ざした。この口の堅そうな男がせがまれたとはいえ、家の内情について話をするのは僥倖であったが、それも男が追い詰められているためだった。


しかし、この時のヴァッツは知る由もなく、一級の使用人であるはずの男の様子に疑いもしなかった。


「どうしたの?」

「いえ・・・。そんな事もあってか、その頃くらいからサレーヌ様もお体を悪くするようになりました。亡命できた頃にはもう自身で体を支えることができないほどだったのです。ルイースフェル教の信者であるサレーヌ様の兼ねてからの夢であった、このペントラルゴで少しでも過ごす事ができたのは唯一の救いだったのかもしれません」


あの主人あってこの使用人ありと言うべきか、表情は動かず口調に変ったところもなかった。そうではあるが、感情は目で語るというとおり、伏せた目からは哀切を語っているようだ。

ヴァッツはそれを確認して、不躾かと思ったが、聞かずにおれなくなった。


「亡くなった人の記憶が消されるってわかっていても、ここに来てよかったといえる?」


男はしばし沈黙した。考え込んでいるのは間違いなさそうである。


「何が良いか悪いかなどはっきり申せませんが、サレーヌ様がここに来たいと望んでいたという事が重要なのでしょう」

「あんた自身はどう思うの?」


僅かに男の目が細められた。


「私は立場上旦那様やサレーヌ様の命に従う者ですから、当然そうしなければなりません」

「でも、サレーヌさんは忘れられて平気なのかな」


いつの間にかヴァッツは自身の忘れてしまった両親と重ねていた。

自分を守るために忘れてよかったのだと信じていたが、はたしてこんな自分を見て親はどう思うのだろうか?記憶がないからといって、自分を育ててくれた人を(あたか)も存在しないように自分の中で消してしまうことに、ヴァッツははっきりと疑問を感じた瞬間だった。


「サレーヌ様のご心中は私には察しかねます。しかし、私は自分でサレーヌ様に仕えると決めました。だから、その夫である旦那様の意見に従うまでです」

「そっか・・・」


もう、男からは何も読み取れず、ただ炯炯としたその眼がじっとヴァッツの目を見返すだけだった。経験足らずのヴァッツは、何か気の利いたことが言いたかったが咄嗟に出てこない。こんな時にまず思い浮かべた顔が、あの司教だった。


「サレーヌさんが女神の祝福を授かるといいね」


我ながら滑稽な台詞だと思う。

法王の息子は、敬虔な使徒を放棄するかのように教えを曲解していたが、実際の教えは苦境にたった人間が祈りを捧げれば、女神の祝福が与えられるというものだ。

だが、もう明日をも知れない人間が健康に生まれ変わるはずもなく、形式的な慰めの台詞に過ぎない。


「では、もうお聞きになりたいこともございませんか?」

「・・・・うん。なんというか、その・・・ごめん」

「どうして誤るのですか?」

「いや、何か言いにくいこと聞いちゃった気がしたし・・・それに、忙しいのに付き合わせたから」


そこで、少し男の目が和んだ。


「お気遣いありがとうございます」


男が立ち上がって頭を下げた。長い会話をしたわけではないが、ヴァッツはこの無表情の男に親近感が沸いていた。


「それでは、所用がありますので失礼します」 


男が主人と想師の様子を見にいくために部屋を出て行こうとする。


すると、重量のある本が書棚からずり落ちた。


本が床に打ち付けられる音が部屋に響く。バサバサと紙の束が開いて揺れた。


「おかしいですね。窓は開いてないはずですが・・・」


男は足を止めて、落ちた本を拾いに向かう。ヴァッツも何となく気になって、腰を上げようとすると、足が床に吸い付くように離れないことに気づく。


(何これ!?何か踏んだ????)


足を引っ張りあげようと、足首を掴んで上に持ち上げるがびくともしない。

男に助けを呼ぼうとすると、また奥にある本が書棚から落ちる音がした。反射的に窓に視線を向けたが硬く閉じられていて隙間さえない。


(冗談だろ?なんだよこれ)


怖くなってヴァッツは無我夢中で足を引っ張ると、嘘のように足にかかっていた力がとれ、反動でヴァッツは後ろにひっくり返った。その際に腰を椅子にぶつけて電流のように傷みが走る。さらに、そればかりかその椅子が倒れてくる。


(最悪!)


硬く目を(つむ)り手で顔を守って衝撃に備える・・・が、何も起こらない。


「なんだっていうんだよ・・・これ」


指の隙間から状況確認しようとしたのだが、思わぬ光景を目にした。

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