第一話 友永家の新人侍女
梅雨明け前の小雨の降りしきる午後の事だった。
その日初めて、柊・六花は『長門藩巽星系』屈指の豪商と謳われた友永家の敷居を潜ったのだった。
建てられてもう六十年は経とうかという木造建築の武家屋敷は、外見の古臭さとは裏腹に、内部は質素ながらも手入れの行き届いた新築めいた作りをしていた。
瓦葺の高い塀の途切れた場所に立派な門が作られて、その内側には玄関まで横切る立派な日本庭園が拵えられている。
広々とした造りの玄関を超えると、床材の二スはまるで塗りたての様に艶めいていて、柱からはほのかに檜の香りが漂って来る。
滑らかな縁側を歩きながら六花は、今まで育ってきた環境とのあまりの違いにいけないとわかっていてもついつい周囲の物に興味を引かれてしまい、視線があちらこちらへと泳いでしまう。
そんな六花の様子を肩越しに目にした現当主の六代目友永・辰蔵は、前を歩きながら小さく吹きだして六花に話しかける。
「ふふ。意外だな。初対面の時にはあまり物おじしない子だと思っていたが、案外そうでもないんだな。君の眼には、何がそんなに珍しい物であるのか興味があるな」
「あ、すみません。見るもの全部が初めて見るものでしたから、ついつい目が色んな所に行ってしまって……。ご迷惑をおかけした様で、申し訳なく」
不意に自分の挙動を指摘された六花は、自分のやっていた行為が無礼なことであったかと思い咄嗟に畏まった態度を取るが、そんな六花を見て辰蔵は足を止めて振り返ると、右手を出してその動きを制すると、やや自虐するような笑みを浮かべた。
「いや、構わないよ。友永家の人間は使用人も含めて変わり者が多くてね、そうやって初めての場所を珍しがってくれるような初々しい反応は見ていてとても好ましいよ。
……それに、こんなことはあまり言いたくないが、わが家は敵になる者が多い事は理解している。そのせいで、無条件で家に上げられる人間はあまりがないんだ。
私の祖父などは、『便所が遠くなってしまうから、家は狭い方がいい』と言っていたが、暗殺やら誘拐やらを防ぐためにここまで家を広くした当人が言ってるんだから世話は無いよ。まぁ、君は今日から此処に住む訳だからすぐにでも慣れるだろうさ。まあ、慣れてくれなければ困るわけだが、ともあれ、今のうちに気になることがあるのなら珍しがっておきなさい」
※※※※※
六花が、長門藩きっての名門藩士の家系である友永家の侍女になったのは、現当主が偏にかつての母の客だったからだ。
六花の母の柊・風華は、淡雪太夫の名で吉原屈指の花魁として名を馳せ、傾城の美女と謳われた事があり、花魁と言うその地位を考えれば、六花のこの扱いはかなり不当なものだと言えた。
何しろ花魁と言えば、美貌と房中に長けているだけでなく、ただの遊女と違ってあらゆる知識や教養、芸術に長けた『生きる文化』とでも言うべき存在で、開国以前の頃から『千両遊女』と呼ばれ、それこそ身請け出来るのは大臣様かお大尽。とまで言われた位であり、それは近代化した帝国時代になっても変わってはいない。
詳しく話された事は無かったが、当時花魁として最大の人気を誇っていた母だったが、六花を妊娠してしまい、生まれる前の六花を堕胎するように迫られ、吉原遊郭を逃げ出したのだった。
その後の人生は、それこそ悲惨の一言に尽きたと思う。
吉原の様な場所には、幕府の中枢にいる人間や、銀河経済を支える大富豪に、裏社会を取り仕切る無頼漢など、金と権力、そして暴力を自由にする男達がまるで蟻の様に集ってくるのだ。
そこから女手一つで、ましてや子供一人を守りながら逃げ出し、逃げ延びる事など並大抵の事では無く、そんな吉原を相手に、国家権力すらも相手取って逃げ延びた母は、間違いなく女傑の一角であったろう。
そんな母が病気に倒れたのは、けして不運な偶然ではなく、これまでの心労がたたっての必然では無かったか。
治らない病気では無かった筈なのに、金が無いせいで医者にかかれずに、あれだけ気丈で誇り高いとさえも思っていた母が病床でゆっくりと痩せ細っていく姿は、見るに耐えられるのではなかった。
だが、それでも尚、少しでも内職を続けながら、かつて吉原で培った科学技術から国際政治に経済、歴史や伝統文化と言った、数多くの知識や教養、技術を六花に教え込み、六花を育て上げようとしたその姿は、母の愛、と言うよりも寧ろ、柊・風華と言う一人の人間の生き様を貫いているようだった。
そうして、小さな長屋の狭い一角で死の淵にあった母に最後に手を伸ばしたのが、友永家の現当主である辰蔵であり、辰蔵からの交換条件として、娘の六花を友永家の侍女として迎え入れる事であった。
母からあらゆる知識と教養を叩き込まれ、生きるための技術を仕込まれた彼女にしてみれば、下女の仕事など、造作も無い事である。
それで母の命とこれからの生活が助かるならば。と、一も二も無く了承した六花に対して、風華は長い逡巡の後に、溜息をついて「……しょうがないわね」と、泣き笑いの様な顔で笑っていた。
こうして、柊・六花は友永家の侍女として迎え入れられ、友永家の次期当主である友永・貫右衛門・一久と出会うことになったのだった。
だが、この決断が後に、六花自身はおろか、世界の命運すらも左右する程の大きな事態になるだろうとは、神の身ならぬ六花には見当もつかぬ事であった。